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この雨が止んだら

作者: たかのふ

 突然の驟雨に、人々が右往左往している。

 足早に歩を進める人。 慌てて鞄から折りたたみ傘を取り出す人。

 車のライトが光り、濡れたアスファルトを照らす――

 私は開き掛けた口を閉じ、コーヒーのカップを手に取った。

 窓の外を眺めていた彼も、カップにそっと手を伸ばし、スティックシュガーの端を破る。

 カップを一口啜ると、慣れた香りが鼻に抜けた。

 行きつけの店。 同じ窓際の席。 注文するのも、いつも同じオリジナル。

 もうどれ程過ごしたか判らない、二人の時間だった。


(この雨が止んだら)


 もう一口、コーヒーを啜る。 いつもと同じ味の筈が、今日はやけに苦い。

 同じ会社の違う部署。 それが、私と彼の出会い。

 ありきたりな仕事のやり取りやランチミーティングで人となりを知り合い、年末の飲み会で恋が始まった。

 とはいえ、交際は順風満帆とは行かなかった。

 人事部で目立たず過ごす私と、営業部若手のホープと呼ばれる彼。

 賑やかな営業部は、若い女の子にも人気の部署で、いつも人の声が絶えない。

 比べて私は、そろそろお局様に片足を踏み入れている、地味なオバサン。

 若い子の嘲笑に傷つきながらも納得してしまう――ジェルネイルにもカラーリングにも気後れして手が出せない、地味な、オバサン。

 加えて今は、重い情報を抱えてしまった身だった。

 こうして、決断を迫られるほど。


(雨が止んだら、話そう)


 気まずくなって席を立つことになっても、土砂降りの中に飛び出したくはない。

 雨の中、濡れ鼠のオバサンなんて――若い子みたいに絵にならないもの。


(雨が止んだら、切り出すの)


――疲れちゃった。 別れましょう。

 時間外の営業部にお茶を差し入れるのも、一人暮らしのアパートで夜食を振る舞うのも、もうおしまい。

 小耳に挟んだ秋の人事。 営業部から本社に動く社員の名簿に載っていた、貴方の名前。

 ご栄転おめでとう――きっともう、面と向かっては言えないけれど。

 貴方は自由になって、新天地で新しい出会いを見つけるの。

 こんなオバサンなんて、すぐに忘れて。


「なぁ」


 空のカップを見下ろす私に、彼の声が掛かる。 目を上げた私に、彼は気まずそうに微笑んで。


「人事から、異動の打診があったんだ……もう知ってると思うけど」

「ええ、そうね。 小耳に挟んでた」


 もう彼も聞いていたのか。 まだ内示の段階なのに。


「それでさ……、はっきりさせておいた方が良い、と思って」


 ええ、そうね……。 声にできず、唇を噛む。

 そうか。 貴方も知っていたのか。 それなら話は早いよね。

 彼が小さく喉を鳴らす。 口を開くのを待たずに、私は声を放った。


「結婚しようっ」

「別れましょう」

「え?」

「え……?」


 当惑の声が重なり、彼の顔がみるみる赤くなった。 眉間に皺がより、一瞬閉じた目がギンと光を放つ。


「な……んでだよっ。 やっぱり年下のガキは頼りないってか?」

「え……? そんな……そんなこと、ない」

「それとも積み上げたキャリアを捨てるのが嫌なのか? それなら、遠距離だろうが単身赴任だろうが、二人で相談して決めれば良いことだろっ」


 思っていた展開との違いに、頭がくらくらした。 真っすぐな彼の声が、年上ぶって綺麗に終わらせようとした私の打算をうちくだく。


(良いの? 縋り付いても、良いの?)


「貴方について行っても、良いの?」

「当たり前だろう? 単身赴任なんて言ったけど、本当は少しだって離れていたくないし」


 赤みの上る顔を背け、彼がぼそりと吐き出す。


「この関係のまま遠距離になったら、あっという間に誰かに引っ攫われてしまう」

「まさか、私なんて」

「『私なんて』なんて言うなよ。 うちの部署じゃ、シゴデキで優しいお姉さんって、密かに人気なんだからな」


 拗ねた声は、普段外では聞くことのない、気が緩んだ時のもの。

 窓の外を睨んでいた彼が、はぁ…と息を吐いて真正面に向きなおった。 真っすぐな視線を受けて、自然と私の背筋も伸びる。


「結婚してください」

「……はい」


 答えながら溢れる涙を、伸ばした手が優しく拭う。

 いつの間にか雨は止んで、外には日差しが差し込めていた――


***


 ドアベルが、サラサラと涼やかな余韻を残す。

 飲み干されたカップの向こう、窓の外を寄り添う二人がゆっくりと過ぎる。

 マスターがカウンター奥でカップを磨き、若いウェイトレスが周囲に花を散らしながらテーブルを片付ける。


(お二人とも、良かったですね)


 マスターの手が止まり、口髭がくっと持ち上がる。

 いつもの光景が見られなくなるのは――とても残念ですが。

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