02 西の湖の畔の家
「ねえ、父さん、どうかしら?」
ルゼは、手直しした薄い水色のワンピースに袖を通し、スカートの裾がふわりと広がるように軽く回転してみせた。肩にかかる銀の髪も一緒にふわりと揺れた。
居間の椅子に腰掛け釣竿の手入れをしていたルゼの父ユリウスは、作業の手を止めてルゼのワンピース姿を眺めた。
西の湖の畔の小さな家に、ルゼとルゼの父親ユリウスは、二人で住んでいた。ルゼは、その住み慣れた家とも明日でお別れだ。明日から、王城で住み込みの女中として働く。
「よく似合っているよ」
いつもの美しい笑顔と優しい声音でユリウスは応えた。
しかし、ルゼには分かっている。父は、似合っていなければ指摘できる程のセンスを持ち合わせているが、相手が誰であれ、どんなことであれ、指摘したり否定したりは決してしない。だから、そんな父の「よく似合っている」は、可もなく不可もなくというところだ。仕方ない。西の湖は、王都から馬を走らせて3時間の微妙な位置の田舎で、そこに住む人々は、王都に住む人々が当たり前とする贅沢や流行とは無縁だ。亡くなった母のお下がりの薄水色のワンピースを手直ししたところで、取り立ててルゼに似合っているとも、また似合わないとも言えない。
ユリウスは、視線を娘のワンピース姿から釣竿に戻し、手入れを再開した。
ユリウスの横顔は美しい。ルゼよりも長い腰まである銀髪を後ろで一つに束ね、鼻筋は通り、整ったきりりとした眉に涼やかな目元、紫に光る宝石のような両の目を長い睫毛が縁取っている。前から見ても美しいが、目が合うと整った顔全体を鑑賞するよりも先に、その瞳に捕らえられてしまい、誰もがその顔を眺めるどころではないのだ。
「こんちはー!」
元気な声がして玄関ドアがバタンと開いた。この家はいつもそうだ。玄関ドアは鍵をかけず、西の湖の畔にあるアリタ村の村人が自由に出入りし、ルゼやユリウスと話していく。
「ルゼちゃん、よく似合ってるねぇ」
見るなりルゼのワンピース姿を褒めたのは、近所に住む年配の女性マーサだ。マーサは、太った体に引っ詰め髪の、世話焼きの気の良いおばさんだ。
「ユリウス、頼まれた物を持ってきたよ」
「マーサさん、ありがとう」
ユリウスは立ち上がり、美しい笑顔で礼を言い、マーサから女物の靴を受け取る。
「ルゼ、向こうで履く靴をあつらえたよ。明日から、これを履くといい」
ユリウスは、ルゼの足元にそっと靴を置いた。
「父さん、ありがとう!」
ユリウスからのプレゼントに見えるが、きっとこれもマーサの好意に違いない。マーサは、ユリウスからは決して代金を取ろうしないし、ユリウスもまた、払うとは一言も言わないだろう。何しろ、ユリウスにあるのは、この貰い物の小さな家だけなのだから。
「マーサおばさんも、ありがとう」
そっと両の足を入れて、その履き心地を試したルゼは、その靴の軽やかさに驚く。
「凄い!こんなに履き心地の良い靴を初めて履いたわ!」
「そうだろうとも。この上等の鹿革は、ユリウスが用意してくれたんだよ。良かったねぇ、ルゼ」
「鹿を仕留めたのは、猟師のダスティさんだよ」
「なんだい、ユリウスはダスティまでたらし込んだのかい」
マーサがからりと笑った。
「みんなが、ルゼの門出を祝ってるんだ。良かったね、ルゼ」
ユリウスが微笑むと、マーサは満足気に頷いて、明日の朝、ルゼの見送りに来ると言って帰っていった。
マーサだけではない。この村の人々は皆、ユリウスが喜ぶことなら何でもする。なぜだろう。こんな湖の畔の田舎の村で、ユリウスが無駄にキラキラしているからだろうか。
もちろん、娘のルゼも十七歳の若く美しい娘なのだが、似ているのは銀の髪だけで、顔の造りは亡くなった母親似だ。父ユリウスの美しさには敵わない。
これが他人なら、その美しさをうっとりと眺め、きゃあきゃあ騒いで喜ぶのだろうが、自分の父親にきゃあきゃあ騒ぐ娘もいない。
「ルゼが王城に行く前に、一匹大きな魚を釣ってあげるよ。お腹いっぱい魚料理を食べさせて、送り出してあげるからね」
「父さん、ありがと」
ルゼはにこりと笑ったが、ユリウスが魚を釣ることも、魚料理をすることも期待していない。何しろユリウスは、釣竿を手に入れてから一度も魚を釣ったことはないし、魚料理どころか簡単な料理も出来ない。
しかし、ユリウスが魚を釣ると言えば、きっと誰かが魚を持ってくるに違いない。
「ほんとに不思議……」
ルゼにとって父ユリウスは、亡くなった母の次に身近で親しく愛しい人だが、十七年一緒に暮らして尚、謎が多い。
「何が不思議なんだい?」
柔らかな笑顔でユリウスがルゼに問う。
「父さんは、魔法使いみたい。父さんが口にしたことは、必ず叶うんだもの」
ユリウスの表情が少し、懐かしい何かを思い返す顔になった。
「魔法使いか……魔法使いは、もっと可愛くて魅力的だと思うよ」
「えっ⁈父さんより魅力的な人なんて、いないと思うけど……」
ルゼは、思わず口に出し、自分の手で慌てて口を塞いだ。
「ごめんなさい」
「?」
慌てて謝るルゼに、ユリウスは無頓着だ。
ユリウスは何も言わないが、容貌や人柄を褒められるのは、父ユリウスの意に沿わないことだとルゼは感じている。そして、それは村人達も同じだ。誰もユリウスに面と向かってその美しい容貌や優しい人柄を褒めはしないのだ。
亡くなった母も、ユリウスに夢中だった。だが、面と向かいユリウスを褒めていた記憶はない。代わりに感謝の言葉を繰り返し言っていた。「ありがとう、ユリウス」と。
結婚して娘もいるのに、母は「お父さん」とは決して呼ばずに「ユリウス」と呼んだ。ユリウスを働かせずに家に置き、仕事も家事も母がした。その代わり、ユリウスは娘に、教養やマナーを体に染み込むまで根気強く丁寧に教えた。お陰で、ルゼはどこに出しても恥ずかしくない淑女に育った。
しかし、ユリウスは何故、こんな田舎の村にいて、教養もマナーも教えられる程に身に付いているのか。村の人々は、ユリウスのことを「隣国から亡命してきた王子様」だとか「身分違いの恋で駆け落ちしてきた」とか噂した。
この村に来た時には既に、母は身重で、ルゼはこの村で生まれた。今、住んでいる家は、たまたま家具付きの空き家が湖の畔にあり、村の人々の勧めで住むことになった。
ユリウスもルゼの母もこの村にくる前のことを誰にも語らなかった。多分、ユリウスの秘密を守るためだろうと、村の人々も娘ルゼも思っていた。
「さて、明日着ていく服も決まったし、馬車を出してくれるルークと打ち合わせをしてくるわ。父さんは今から釣りに行く?」
「ああ、ルゼがルークの所に行くときに、わたしも釣りに行くよ」
ユリウスは、釣り道具をまとめ出した。
「じゃあ、すぐに着替えてくるから、待ってて」
ルゼは、ワンピースを着替えに、2階の自室への小さな階段を軽やかに上がって行った。
ルゼが2階に上がるとすぐに、玄関ドアがバタンと開いた。
「ユリウス!湖の上をカラスが飛んでる」
慌てた様子のルークが玄関ドアを開けて最初に発した言葉がそれだった。ルークは、西の湖の畔のアリタ村に住む若者で、村のあらゆる雑役を引き受けて生活している。明日は、ルゼを馬車に乗せて王城へと連れて行ってくれるよう仕事を依頼している。
「カラスがどうかしたのかい?」
ユリウスの表情が喜びと期待でわずかに輝いた。
「すごいでかいカラスが三羽飛んでるんだ!それに人を捕まえてる!」
ルークのその言葉を聞いた瞬間、ユリウスはすぐさま立ち上がった。
「ルーク、その場所に案内してくれ」
ユリウスは階段下から2階のルゼに声を掛けた。
「ルゼ、先に湖に釣りに行ってくるよ」
階下からルゼに声を掛けたユリウスは、釣竿を手にルークと湖に駆け出した。




