月光・・・いつだって私たちはその優しさに気づかない②
終電に乗ったのは久々だった。
学生の頃は、サークルとかコンパとか、ちょいちょい飲み会があったので、よく終電に間に合うようにダッシュしたものだ。
もっと時間に余裕をもって店を出れば走らなくても済むのに、恒例のように私たちは駅の階段を駆け上がったものだ。
楽しさを一秒でも長く味わいたくて、でもタクシーで帰るなんて頭はなかったから、いつも走ることになったのかもしれない。
10年も経っていないのにもうずいぶん昔のように感じた。
アルバイトから運よく編集の仕事をやれるようになって、自分には過ぎた仕事だと思っていたから遊びたいなんてぜんぜん思わなかった20代。
友人と飲みに行くこともなかった。
大学を辞めたばかりの頃は誘わるれることもあったけど、断り続けていたらすぐに誘われなくなった。
飲み会に出たところで金銭的に恵まれた友人たちと自分の立場を比較して落ち込むだけだ。
そう思うと誘われない寂しさの方がまだましだと思った。
和彦だけだった。
「今日は朝までかかるかも」
と職場にかかってきた電話で私が言うと、
「ちょうど近くまで行くからモーニングでも食おうぜ」
と不規則過ぎる私の都合に合わせてくれて、月に一度ぐらいだったけど友人同士の付き合いが続いたのは。
大勢での飲み会と終電に間に合うようにダッシュ。
そんな普通のことが私にとっては青春のひとコマだったかもしれない。そしてそんなことはもう私の人生に訪れない気がていた。
そう思っていたのに、和彦と駅に向かってダッシュしている。
酔いも手伝ってなんだか楽しい気分になる。
こんな気分になるのは久々だった。
ねー、私たち青春してると思わない?
和彦の背中に向かって心の中でそう叫ぶ。
その声が聞こえたかのように和彦は振り返った。
「いけるか?」
そういって足を少し緩めてくれる。
そうだ、関西出身の彼はよく私に「いけるか?」って言ってくれたっけ。
そんな気遣いの言葉をもう長いことかけられないことを実感し目の奥が熱くなった。
「うん」
そう言って私は和彦を追い越す。
「転ぶって」
「平気平気」
久しぶりに飲んだ生ビールの酔いがまだ十分残っているはずなのに、私の足取りは不思議と軽やかだった。
余裕で山の手線の終電には間に合った。車内は楽しさをまだ引きづっているような赤ら顔の若者や中年のサラリリーマンでいっぱいだった。
「ホテルどこ?」
和彦は品川にある大きなホテルの名前を言う。
両手をつり革の輪っかに入れ、少し前かがみになった和彦は少年のようだ。会社勤めした経験がないからか5、6歳は若く見える。
「さすがだね」
「何がだよ。半分学生みたいなもんだし、そんなに金ねえよ。本当は後輩のところに泊まるはずだったんだけど都合が悪くなってそこしか空いてなかったんだ」
「ふーん」
真偽のほどはわからない。
和彦は昔から一流品好みだったからだ。
友人のアパートのソファで寝るよりも、断然一流ホテルのピンと張った白いシーツのダブルベットが似合う。
いつも和彦のジャケットや靴やカバン、そしてボールペンに至るまでどこかで見かけたブランド品のマークがついていた。しかしそれらを自慢するどころか隠したい面があったと思う。
「これだけだよ」
私が和彦の持ち物の良さを褒めるといつも彼はそっけなくそう言ったものだ。
「送っていくよ」
空いた席に私を座らせると彼はそう言った。
「いいよ、実はもう私鉄なくて15分ぐらい歩かなくちゃいけないんだ」
「そしたら余計にだよ」
「いいって。高い部屋がもったいないし、早く帰ってお風呂に入って休みなよ」
私は部屋の前で和彦を帰す気まずさを想像して本気で遠慮した。
昼間なら送ってくれたお礼に冷たい麦茶でも、と言えるけど深夜はちょっと・・・。
「明日も予定ないし」
「いやいや全部大通りだし、車も通るし絶対大丈夫。タクシーもつかまんないかも」
「おまえ、タクシーアプリというもの知らんの?」
そうか、その手があったか。
そしたら話は別だ。
せっかく会えたんだからあと15分ぐらい和彦と夜道を歩いて話すのもいいかもしれない。
こんな気持ちのいい夏の夜なんだし。
熱中症警戒アラートが連日出ていた暑い夏はピークを過ぎ、涼しいと思う夜もこころのところ増えた。
夏の終わりは楽しいことはみんな終わってしまった気がする。
楽しいことなんかぜんぜんなかったはずなのに今年もそんな気がするなんて不思議だった。
和彦ともう少し話したいって思ったのはそんな気分も手伝ったのかもしれない。
「いいよOK」
和彦の顔を見上げて私は言う。
隣に座っていた30代の男性が私の顔を不思議そうに見た気がしたが、どうでもよかった。酔っ払いだらけの終電の車内でではすべてのことがどうでもいい。
車の交通量は多いけど、その横の人気がない歩道を私たちは並んで歩いた。
酔いはだいぶ醒めていたけど、無性に自分のことを聞いてもらいたくなった。
「なんか空っぽでさ、気力が沸かないんだよね。これから生きていけるのかなって感じ」
和彦は黙って聞いている。
「編集者になるのが夢だったけど、ずっとどこかで半分なれっこないって思ってたんだよね。でも大学辞めて雑用のアルバイト募集している出版社に潜り込んで、少しづついろんなことさせてもらえるようになって、みんなに助けてもらったけど私の企画した本だって出せたんだよ。売れなかったけど」
「仕事、打ち込んでたもんな。しょっちゅう徹夜して、ときどき体調崩してさ」
そうなんだ。和彦は当時の私をよく心配してくれて焼肉なんかたまにおごってくれた。
「テレビで言ってたから」とちょっと怪しいサプリをくれたことさえあった。
「ていうか仕事しかなかった。昔の友人と付き合いたくはなかったし、実家とは仲悪し、土日だって担当している本のことでいっぱいだった。逆に仕事のこと考えないと打ち込めなくなりそうで」
本当は学歴も能力もないけどやらせてもらっている、そんな思いがずっとあった。
「りっぱだったんじゃないの。遊び惚けている今どきの女に子に比べたら」
よくドタキャンした私を非難する言葉はなく和彦はそう言って肯定してくれる。
「問題なのはさ」
毎日、私は思わないようにしてもつい浮かんでくる思いを言う。
「今の私はお金もなくてこんなじゃん? そしたら私の20代は全部無駄だったんじゃないかって。30分も前に会社に行って掃除して、ボーナスが出ないときでもいいやと思って、休みで家にいても調べものして、まぁそういうの苦労とは思わなかったけど、そんな毎日が今の空っぽの毎日に繋がっていたのかって思ったら空しくて」
「うん、うん」
と微かに頷きながら和彦は聞いていてくれる。
もう編集の仕事ができることはないだろう。
元の会社の紹介で何社か出版社を受けたが、筆記試験でことごとく落とされた。
本当は本の編集者なんて一流大学を出たエリートがすごい倍率を突破してなるものだったのだ、と不合格の通知が来るたびに思った。私の経変なんて何の意味もなさない。
倒産してしまうくらい弱小出版社とはいえ、本の編集ができたことなんて本当は奇跡だったにかもしれない。もう20代で人生の運のすべてを使い果たしたという気がした。
「さらに問題なのはね、もう何も気力が残ってないってことなのだよ」
わざと明るく私は言う。
「金もってたら嫁にもらってやるんだけどね」
一瞬私は面食らったが、
「結婚する気力もぜんぜんない。結婚するすると相手の親とか出てくるわけでしょ。そんで子供はまだ?
とか言われて、お金とか子供の成績とか何年も心配してさ。私にできる気がしない」
と正直な気持ちを言った。
「おまえの結婚に愛はないわけ?」
「愛ねー。私には縁がないような気がする」
「あるかもよ」
和彦は聞こえるか聞こえないかくらいの声でそう言った。
実はその日、珍しく日雇いのバイトをした日で、本当に久しぶりに終電まで飲んだ日で、おまけに15分も歩いたのだからいい加減疲れていた。
そのあともいろいろな愚痴を和彦に言った気がする。
よく覚えていなかった。
最後の方、私の頭はまるで回らなくなっており、和彦の言った言葉もよく聞いていなかった。
「5分でタクシー来てくれるってさ」
そういう和彦を大通りに残し、私は横道に入ってアパートの外階段を上がろうとした。
空の真ん中で小さくなった月は頼りなげに光を放っていた。