水都を信じている
その日、合唱部のコンクールがあって魅音は休みだった。
水都は、園芸委員の岩橋くんから「花壇にスコップを置いたままだった。一人じゃ寂しいから、付き合ってよー」と泣きつかれて、渋々外に出ていった。
そういうわけで、私は一人で帰り支度をしていた。
すると、同じクラスの松下恵那が話しかけてきた。
「ゆらりちゃん、ちょっといいかな? 聞きたいことがあるんだけど……」
「なに?」
「教室ではちょっと……。来てくれる?」
誘われた先は、廊下の端。そこにはすでに人がいた。
関係のない女子かと思いきや、松下さんは彼女に話しかけた。
「連れてきたよ。鈴木ゆらりちゃん。由良くんの隣の席の子」
松下さんは、私に彼女を紹介した。
「三組の早田美優ちゃん。同じ中学だったんだ。でね、美優が、由良くんと佐々木萌華ちゃんがファミレスにいるところを見たんだって。ゆらりちゃん、由良くんとよく話しているでしょう? だから、なにか知っているかなって」
「呼び出してごめんね! 驚いたよね。町田さんに聞こうかとも思ったんだけど、あの人って迫力があって怖いじゃん。それで、えなりんに相談したら、由良くんと鈴木さんが仲がいいみたいだから、知っているかもってなって……」
早田さんは申し訳なさそうに、顔の前で両手を合わせた。恐縮したその態度に、警戒心が緩む。
「大丈夫だよ。でも、ごめんなさい。佐々木萌華ちゃんって、誰?」
「え? 知らないの? ユンユンのモデルだよ」
学校の女子を思い浮かべていたのだけれど、違った。
(ユンユンって、あの雑誌かな?)
ユンユンは、女子中高向けのファッション雑誌。
バイト先のコンビニで、雑誌コーナーを整えているときに目にしたことがある。読んだことはないけれど。
早田さんは、制服のポケットからスマホを取り出した。
「友達とファミレスに行ったら、偶然に由良くんがいてね。そしたら、モデルの佐々木萌華ちゃんが一緒でビックリ!! ……萌華ちゃんって、この子だよ」
早田さんは、スマホの画面を私に向けた。
四人掛けのテーブルで、水都と女子が向き合っている写真。女子は身を乗り出していて、なにか話しているように見える。
ハーフっぽい顔立ちに既視感を覚えた。すぐにピンとくる。
(もしかして、あのときの……⁉︎)
中学校の帰り道。水都が、同じ学校の女子生徒と並んで歩いていたのを見た。
その女子は、目鼻立ちがはっきりとしていた。イタリアとかスペインとか、そのあたりの血が入っているように見えた。
水都が、あのときの女子と会っていた──?
心にズドンと、重石が落ちてきたような衝撃。けれどすぐに、心を立て直す。
以前、護摩神社で尋ねたことがある。
「ハーフっぽい綺麗な女の子と歩いていたよね。彼女なの?」と。
水都は、
「彼女じゃない。スキンシップが激しい人で、すっごく迷惑だった」
と、否定した。
だから、大丈夫。彼氏彼女として会っていたわけじゃない。用事があって会っていただけ。
猜疑心が生まれた心に、そう言い聞かせる。
松下さんは、困惑している私の表情から読み取ったらしい。
「由良くんと萌華ちゃんが付き合っているかなんて、知らないよね。ごめんね。岩橋に聞いてみるよ。あいつ、みなっちと付き合っているのは俺だ! なんて、ふざけたこと言っているけど。吐かせてやる!」
松下さんはソフトボール部に所属している。話し方がサバサバしているが、性格もさっぱりしている。
早田さんは、スマホを制服のポケットにしまった。
「そっか。鈴木さん、知らないんだ。それなのに、呼び出してごめんね」
「ううん……」
「美優ちゃん、どうしたの?」
話が終わった空気感の中に、新たな声が加わった。
振り返ると、川瀬杏樹だった。
「杏樹ちゃん! この前の由良くんのことでね……」
早田さんは、杏樹に親しげな笑顔を向けた。
私は立ち去るタイミングを逃してしまい、話の切れ間を見つけるために、二人の会話に耳を澄ませた。
そうして知ったのだけれど、早田さんが友達とファミレスに行ったと話した、その友達とは杏樹だった。
杏樹は、私が佐々木萌華を知らないことに驚いた。
「萌華って、人気があるんだけど。本当に知らないの?」
「ごめんなさい。あまり雑誌を読まなくて……」
「じゃあ、萌華が由良くんの元カノだってことも、知らない?」
「え?」
……元カノ?
頭が真っ白になって、言葉を処理できない。元カノって、どういう意味だっけ? と混乱した頭で考える。
黙り込んだ私に、杏樹は同情するように言った。
「そっか、知らないんだ。可哀想……。由良くんって、秘密主義だもんね。大切なことまで隠すなんて、信じられない!」
「あ、あの、元カノって、本当なの?」
「うーん……噂で聞いただけだから、本当かは知らない。でも、由良くんと萌華って同じ中学なんだって。噂によると、萌華は由良くんが好きで、萌華の方から告白したんだって。でも、元カノって嘘情報かもね。だって由良くんって、高梨ひなちゃんを振ったじゃない? 見た目よりも中身重視の人なんだと思う。でも、もったいない。萌華となら、美男美女でお似合いなのに。貧乏な地味ブスが、由良くんの隣にいるなんて気持ち悪いもん」
──貧乏な地味ブスって……私のこと?
血の気が引いていく。目の前が真っ暗になり、電流が流れたかのように舌や皮膚がピリピリと痛んだ。
小学校のときのいじめがフラッシュバックする。教科書やノートに書き込まれた、心ない言葉。
──ブス。笑顔が気持ち悪い。貧乏。死ね。消えろ。嫌い。うざい。
私はブスなんだ。笑顔が気持ち悪いんだ。こんな私が水都の隣にいるなんて、変だよね。水都を好きだなんて、思っちゃいけないよね。
そのように思い込んでいた過去に、引きずられそうになる。
水都のおかげで過去から解放されたように思っていたけれど、鎖はまだ私の足に絡みついたまま。
私は逃げるようにして、その場から走り去った。
教室に戻って、教科書とノートを乱雑に鞄に入れる。ペンケースを入れようとして、手から滑り落ちた。
床に落ちたペンケースを拾い上げ──……ファスナーを引っ張った。ペンケースの中にしまってある、青い付箋紙の束。
その青い付箋紙を一枚一枚、読む。
『僕も一緒に帰りたいと思っていた』
『僕と町田さんと岩橋で、ゆらりちゃんを守る。だから安心して。困ったことがあったら僕に相談して。力になるから』
『んさんの好きな人。《す》と《ず》と《き》と、《ゆ》と《ら》と《り》がつくらしいよ』
涙がポタポタとこぼれる。
信じるのは、杏樹じゃない。水都だ。私は水都を信じればいいのだ──。
昇降口に行くと、杏樹が立っていた。
「ゆらりちゃん、一緒に帰ろう」
「うん。私も杏樹ちゃんと話したいと思っていた」
私は、杏樹をまっすぐに見つめた。
水都。父と妹弟。魅音。岩橋くん。コンビニの店長と美月さん。
優しい人たちが、私にたくさんの勇気をくれた。だから大丈夫。
足に絡みついた鎖を、自分の手で断ち切ることができる。