マラソンの予行練習
一組二組の合同体育の時間。男女共に、マラソン大会のコースを走ることになった。
生徒たちからブーイングが起こる。魅音は立ちくらみがしたようで、足をよろめかせた。
「本番一発勝負でいいじゃん……予行練習とかいらんし……」
「でも、コースを知るって大切なことだよ。頑張ろう!」
「ゆらりの無駄な前向きさが憎たらしい。転べ!」
魅音は両手を私に向けると、低い声で言い放った。
「あなたは転びます。転びます転びます」
「なにしているの?」
「呪いを放ったのじゃ」
「ふふっ。魅音って、おもしろいね」
魅音は私にダメージを与えられなかったことを知ると、今度は横腹を押さえ、体育の先生に不調を訴えた。
けれど、「つらくなったら歩いてもいいんだから、頑張りなさい」と励まされてしまい、げっそりとした顔でスタート地点に立った。
風は強いものの、空は快晴。
男子がスタートした後で、女子も走り出す。
学校の裏にある山は、公園や展望台の他にお墓がある。狐が姿を変えたという石や、大蛇と戦った英雄の伝説を書いた立て看板もある。
そんな雑多な山の中腹まで登り、折り返して校庭に戻ってくる。往復三キロ。
行きは上り坂が続くためきついが、帰りはその坂を下ってくるので楽だ。圧迫されるつま先が痛いけれど。
私は五位をキープしたまま、ゴールした。一位と二位は陸上部、三位はバスケット部、四位はバレーボール部の女子。
私は部活に入っていないのに五位。大健闘だろう。
水飲み場に向かう人が多い中、私はゴール地点で魅音を待った。男子もゴールしてくる。
その中に水都もいた。順位は十五番目ぐらい。
水都は普段、涼やかな表情をしている。だがさすがに五キロ走った後では、顔が真っ赤だし、呼吸が荒い。余裕はなさそうだ。
私と水都の焼肉勝負は、順位で競うことになっている。
(やっぱり、私が勝ちそう)
高級焼肉が頭にチラつく。
(ひよりとくるりに焼肉の話をしたら、すっごく喜んでいた。ひよりは焼肉のオリジナルソングを作るし、くるりは焼肉の絵を描くし……。二人の期待に応えたいけれど、でも、勝ってもいいのかな……)
水都にどこの焼肉店を考えているのか聞いたら、知り合いの店とのこと。
叙々苑だったら申し訳なさすぎると心配だったので、ホッとした。けれど、教えてもらった知り合いの店の名前をネット検索して、目玉が飛び出るかと思った。
凡人が足を踏み入れてはいけない、超一流焼肉店だった。
(絶対にお会計がとんでもないことになる! どうしよう。ブランド牛を食べてみたいけれど、申し訳ないよ。そもそも、なんで焼肉勝負なのかな? 水都って、焼肉が好きなの? お金が貯まったら、焼肉食べ放題に行くのが夢ではあったけれど……)
そこまで考えて、はたと気がつく。
十万円が貯まる貯金箱に、私はお金を貯めていた。これがいっぱいになったら、家族で焼肉食べ放題に行くんだって張り切っていた。
でも、貯金箱を母に盗られてしまった。
私はその嘆きを【つぶラン】に投稿した。すぐに削除したけれど、もしかして、水都はその嘆きを読んだの? 私に気を遣わせないために、負けたほうが奢るという勝負をしてくれているの?
足が早い私と、走るのが得意ではない水都。
勝負をする前から、結果は目に見えている。
「なんで、そこまでしてくれるの? 私はなにもできていないのに……」
水都の優しさを前にして、自分の至らなさが歯痒くなる。嬉しさと悔しさが入り混じったものが胸に渦巻き、目の奥が熱くなる。
私は目の縁を指先で拭った。
「魅音ちゃん、遅いなぁ」
のんびりとした岩橋くんの声が、私を現実に戻してくれた。
スポーツタオルを肩にかけている岩橋くんの背中に、訊ねる。
「あの、岩橋くん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「ん? なに?」
振り返った岩橋くんには人のいい笑顔が浮かんでいて、それが、言葉を押し出す勇気をくれた。
「水都がいろんなことをしてくれるんだけど、私全然お返しできていなくて……。なにをしたら、喜んでくれると思う?」
「ゆらりちゃん」
岩橋くんから笑顔が消え、真剣な表情になった。私の肩に岩橋くんの手が、ポンッと置かれる。
「男心がわかっていない。男っていうのは、好きな子に尽くしたい生き物。とびっきりの笑顔を見られるだけで、最高に嬉しいんだ。みなっちもそうだと思う。ゆらりちゃんの笑顔が見たくて、いろんなことをしている。……っていうか、いろんなことってなに?」
「あ、魅音が来た!!」
水都から、焼肉に魅音がついてくるのはいいけれど、岩橋くんは絶対にダメ。勝負のことを言わないで、と釘を刺されている。
そういうわけで、魅音の姿が見えたのを幸いに、強引に話を変える。
魅音は疲労困憊といった感じで、のっそりと歩いている。その歩みは、もどかしくなるぐらいにゆっくりだけれど、それでも一歩一歩、ゴールに近づいている。
私は胸が熱くなり、ゴール地点へと走った。
よたよたとした足取りでゴールした魅音に、抱きつく。
「魅音っ! ありがとう、感動したっ!!」
「ゆらりに抱きつかれても嬉しくない。イケメン成分を補給したい。みなっちを呼んでおくれ」
魅音は息が絶え絶えなのに、魅音節は健在。
私のテンションはさらに高まり、感動して大泣きしてしまった。
そんな私に魅音は、
「なんで泣いているのか、わけわからん」
と、冷静すぎるツッコミを入れてきた。
座り込んだ魅音に、岩橋くんが濡れたタオルを差しだす。
「お疲れさま!」
「気が効くじゃん。……ん? 生温かい……」
「俺の顔を拭いた後だからさ、ごめん」
「げげーっ!! 岩橋の汗つきかよ!」
岩橋くんにタオルを投げつけた魅音。
二人のやりとりがおもしろくて声をあげて笑っていると、私の前に濡れたタオルが差し出された。
水都だった。
「洗ってきたから大丈夫。使って」
「ありがとう……」
涙でひりついた肌に、冷たいタオルが気持ちがいい。
岩橋くんはとびっきりの笑顔でいいと言ったけれど、それだけじゃ足りない。
私は水都のために、なにができるだろう?