尊いね
「猫、大好きだよ。でも、水都。猫アレルギーなんだから、無理しなくていいのに……」
「あーっ! ゆらりさん、猫大好きなんだー!! 俺もっ!!」
岩橋くんが、窓から顔を覗かせた。
岩橋くんは声が大きい。しかも、よく通る。教室を出ようとしていた女子が猫という単語に反応したのか、振り返った。
(岩橋くんってば、声が大きい!)
水都も同じことを思ったらしく、不機嫌な顔をした。
「うるさいんですけど」
「俺んちさ、猫三匹飼っているんだ! 見る?」
岩橋くんは私の返事を待つことなく、スマホの画面を見せてきた。
そこに映っているのは、大きな猫一匹と、子猫二匹。身を寄せ合って眠っている。同じ縞模様なので、親子だろう。
「わあーーっ! すっごい可愛い!!」
「でしょでしょ! アメショーなんだ。俺に懐いていてさ。チョー可愛いんだ。あっ、今夜、見に来る?」
「え? でも……」
「俺んちさ、徒歩五分以内で来れるから。終わったらおいでよ!」
「でも……」
「猫って、すぐに大きくなっちゃんだ。子猫のふわふわ毛を触れるのは今だけだよ!」
「そう言われると……。迷惑じゃない?」
「全然! っていうか……」
岩橋くんは窓から大きく身を乗り出すと、ベランダにいる私の耳に顔を近づけた。
「ゆらりさんなら大歓迎!!」
岩橋くんの声が、キーンと脳内に響く。
水都が、隠そうともしない怒りを岩橋くんにぶつける。
「声がデカすぎ。内緒話する意味ないから。ゆらりちゃんの耳が腐るから、話しかけるの、やめてくれない?」
「腐るってなんだよ⁉︎ 俺のミラクルボイスに痺れる女子が、全国に百万人はいるっていうのに!!」
水都は他人の感情に敏感だから、相手が気分を悪くすることをストレートに言うことはない。
その水都が「耳が腐るから……」なんて、文句を言ったことに驚く。それに対して岩橋くんが、ヘラヘラと笑って全然気にした様子がないことにも。
(遠慮のいらない間柄なんだね。良かった!)
中学時代はどうだったのか知らないけれど、私の思い出の中の水都には友達がいなかった。
岩橋くんの物事を気にしないおおらかさが、水都にピタリとハマったのだろう。
拗ねる岩橋くんに、水都は追及する。
「ミラクルボイスに痺れる女子が全国に百万人って言ったけれど、どうやって統計をとったの?」
「えっ⁉︎ そこ、ツッコんでくる⁉︎ 流してよ!!」
「じゃあ、別なところをツッコむけど、ミラクルボイスって自称?」
「自称でいいじゃん!」
「自称じゃ、信頼性ゼロ」
「ゆらりさーん! 水都がいじめるよぉー!」
泣き真似をする岩橋くん。二人の仲の良さが微笑ましくて、私はクスクスと笑った。
「二人の関係って、尊いね」
一瞬の沈黙の後。水都が、
「いや、尊いのはゆらりちゃ……」
「ゆらりさんの笑顔のほうが尊いからーっ!! 笑い声、めっちゃ可愛い!
やっぱり、顔を出そう。前髪で目が隠れているのが残念すぎる。俺、店に行くから!!」
水都の声に被るようにして、岩橋くんがキラキラとした顔で叫ぶ。
水都が不機嫌な低い声で聞いてきた。
「今夜、なにがあるの?」
──お客様に入っていない美容師のカット練習で、今夜、岩橋くんのお父さんが経営する美容室に行くんだ。
そう説明しようとしたら、岩橋くんが、キザっぽい仕草で短い前髪をかき上げた。
「ふふん。教えられないなぁ。俺とゆらりさん、二人だけの秘密だから」
ジトっとした目の水都。私は慌てて、カットモデルに行くのだと説明した。
(岩橋くんっていい人だけど、困る……)
昇降口でため息をつきながら靴を履き替えていると、近くの廊下を魅音が通りかかった。急いで呼び止める。
「魅音!」
「うちの名を呼ぶ声がしたような? 空耳?」
魅音の制服の袖を引っ張って、歩くのを止めさせる。
「なに? 空耳が起こる原因について、蘊蓄を聞きたいとか?」
「そうじゃなくて、【ん】さんのコメントにあった、猫を貸すって話。魅音の猫って、全然おとなしくないから! 私、十回ぐらいひっかかれたよ!!」
「うちの前では、おとなしい猫なんですけどねぇ」
魅音の猫は触られるのが嫌い。うっかり手を伸ばそうものなら、毛を触る前に鋭い爪で引っかかれる。
とぼけ顔の魅音に、疑問をぶつける。
「なんであんなコメントをしたの?」
「だって、早く付き合ってほしいんだもん。待てない。退屈。つまらない」
「もぉ! 猫は無理だよ。水都、猫アレルギーだもん」
「そうなの? それなのに借りようとしたの? 健気な男だな! じゃあ、どうやって、ゆらりをみなっちの家に行かせたらいいんだろう? キスするシチュを作ってあげたいのに」
「なっ⁉︎」
「みなっち、告白するタイミングを図っていると思うんだよね。で、告白の後は、キスでしょ」
「そんな軽い人じゃない!」
「いやいや、みなっちだって男だ。キスする気満々だ」
「そんなことない!!」
「あっ……。うち、部活行くね。もうすぐで合唱コンクールだから、忙しくてぇ」
魅音の視線が私の頭を飛び越えて、背後にあるなにかを見た。
振り返ると──水都がいた。
魅音はひらひらと手を振って、部活に行ってしまった。
水都の顔がほんのりと赤い。キスの話、聞こえてしまったに違いない。
気まずくて視線を外していると、水都がぽつりと言った。
「一緒に帰りたいと思って……追いかけてきました……」
「はい……」
「一緒に帰れる?」
「うん……」
私たちは並んで、学校を出た。
私のアパートの近くで別れたのだけれど、会話は学校の勉強に関することだけで、魅音の話も猫の話もしなかった。