謝罪
杏樹は朗らかに挨拶をしてきた、そのままの声の調子で話し始めた。
「来月の、マラソン大会。普通に走るだけでもつらいのに、学校の裏にある山に登るなんてつらすぎる。みんな嫌がっているのに、伝統ある行事だからってさ。そんな伝統なくせばいいのにね」
「え……」
──なんで、由良くんと仲良くしているの? 絶交しろって言ったのに、約束を破るつもり? また、いじめられたい?
そんなキツイ言葉を投げられ、水都と仲良くしないように釘を刺されると思っていた。
しかし杏樹は、一年生の伝統行事であるマラソン大会の話題を振ってきた。それも、友達に話すかのように、ごく自然に。
杏樹がなにを考えているのか読めなくて、彼女の気の強い横顔を無言で見つめる。
「あ、みんな嫌がっているって言ったけれど、ゆらりちゃんは違うよね。足が速いもん。中学校の持久走、一番だったのを覚えているよ。どうして、陸上部に入らないの?」
「え、あ、あの、いろいろと忙しくて……」
「そっかー。そういえば、妹と弟がいるよね。スーパーで見たことある。私も弟がいるんだけど、生意気でさ。ほとんど会話しない。ゆらりちゃんは、優しいお姉さんって感じだよねぇ。怒ったところが想像できない。穏やかな性格でいいよね。羨ましい」
羨ましい? ゆらりちゃん?
杏樹は一体、なにを言っているのだろう?
杏樹が今まで私をなんて呼んでいたか思い出そうにも、思い出せない。名前を呼ばれた記憶がない。
杏樹とは何度も同じクラスになった。小学校一、二年。三、四年。それから、中学校一年。
ずっと、無視されてきた。
それなのに突然、何事もなかったかのように話しかけられている。驚きを通り越して、怖い。なにか企んでいるんじゃないかと、勘繰ってしまう。
一年一組の前で杏樹は足を止めると、力なく笑った。
「そんな顔しないでよ。私もう、いじめるのやめたし」
「え、あ……」
自分の顔に手を当てる。怯えた顔をしているのだろう。
今までの杏樹だったら、私が怯えるのを楽しんでいるような意地悪な目を向けていた。
けれど、今日は違う。しんみりとした表情をしていて、私を見る眼差しは弱々しい。
「私ね、小六のときにいじめていたのがバレて、先生と親からガッツリ怒られたんだ。母は優しい子に育てたつもりなのに情けないって、泣いてさ。それで、反省した。……ゆらりちゃん、ごめんね。本当はずっと謝りたかった。でも勇気が出なくて、なあなあにしていた。だけど、ゆらりちゃんと由良くんが話しているのを見て、嬉しかった。仲直りしたんだ、良かったって」
杏樹は私に向き合うと、突然、頭を下げた。
「ごめんなさい。私のこと、嫌なヤツだって思っているよね。本当にごめんね。謝るから、許して。すごく反省している」
杏樹は顔を上げると、驚きすぎて何も言えないでいる私を、じっと見た。
「私、謝ったよ。許してくれるよね?」
「え……う、うん……」
「良かったぁ! ゆらりちゃん優しいから、許してくれると思った! 心の狭い人じゃなくて、良かった。じゃあ、今日から友達ってことでいいよね!」
「あー……」
「ねぇ、由良くんと付き合っているの?」
「ううん。まだ……」
杏樹からしんみりとした雰囲気が消え、友達に接するような、明るくて気さくな態度になった。
「ふーん……。まだってことは、これから付き合うっていうこと?」
「そういうわけでは……」
「大丈夫! 私、心を入れ替えたんだから。付き合っているって聞いても、なにもしないってば!」
「あの、付き合っていないっていうのは、本当で……」
「そっかー。ふーん。……あっ! いいこと考えた!! 私、二人の恋を応援してあげる!」
応援してもらわなくていい。放っておいて……というのが本音だけれど、それを杏樹に伝えるのは怖い。
わたしはつぶやくように小声で、「ありがとう……」と礼を述べた。目が泳いでしまったけれど、杏樹は笑顔になった。
「由良くんがゆらりちゃんを好きになるの、わかるよ。ゆらりちゃん、癒し系だもんね。いかにもいい子って感じで、性格の良さが滲み出ている。いいよね。羨ましい。由良くんね、ずっとゆらりちゃんのこと、目で追っていたんだよ。気づいていた? いいよね……」
杏樹は嫉妬心を振り払うかのように、頭を横に振った。シャンプーかヘアコロンかわからないけれど、スイートな香りが漂う。
「でも! ゆらりちゃんとは友達になったんだもん。私は潔く諦めて、他のいい男を探すことにする。だからゆらりちゃんは、私を気にすることなく、由良くんと付き合っていいからね」
「うん。ありがとう」
杏樹は一瞬、真顔になった。でもすぐに笑顔に戻ると、手を振った。
「じゃ、またね」
「うん」
私は、杏樹が三組の教室に入るのを見送った。
教室に入り、自分の席に座る。
杏樹の言葉を思い返し、その意味を考える。
──私と杏樹は、友達になったの?