水都目線①(子供時代)
夜。お腹が痛くて一階に下りて行くと、父と母が言い争っているのが聞こえた。
「おまえが神経質だから、水都も神経質になるんだ。もっとおおらかな気持ちで子育てを……」
「幼稚園に行くのを嫌がってトイレに閉じこもるのを、よくできましたね、素晴らしいですね。なんて、笑って見ていろって言うの⁉︎」
「そんなこと言っていない!」
「あなたは仕事に行けば逃げられるでしょうけれど、私は一日中あの子といないといけないのよ! 頭が変になりそう!!」
「俺だって協力している!」
「だったら、吐いたものの始末をしたことがある? 今度からは、あなたにお願いするわ。吐いたものの始末をして、床を拭いて、洋服を手洗いして……」
廊下にまで聞こえてくるほどの、長いため息が聞こえた。
「だから子供はいらないって言ったんだ。子供は苦手だ。おまえが責任をもって育てるというから、仕方なく……」
「だってあなたと私の遺伝子を持った子供なら、どんなに素晴らしいだろうって、夢見てしまった。いまさら、しょうがないじゃない! 産む前には戻れない。水都みたいな難しい子が産まれるってわかっていたなら、産まなかった! なんで私たちの子供が、水都なんだろう。どうして、なんで……」
母の啜り泣きが聞こえた。父はなにも言わない。
ボクはそっと、階段を上った。自分の部屋に戻る。ベッドに潜り込むと、お腹に手を当てて丸まった。
「おなかいたい。きもちわるい……」
じわりと涙が浮かぶ。涙は引力のままに流れ落ちて、枕を濡らす。
ボクは生まれないほうが良かったのだ。生まれてはいけない子だった。でも、生まれてしまった。どうしたらいいのだろう。わからない。苦しい。お腹が痛い。気持ち悪い。頭が痛い。けれど、親には言えない。苦しい。
ボクは面倒な子供らしい。洋服の裾が手首に当たるのがイヤで、だからといって、袖を折ると窮屈になるのがイヤ。母は長袖を八部袖にするために、ミシンで縫ってくれた。
それと、肌着がよれたり、ズボンのゴムがお腹を締めるのもイヤ。
朝の着替えがしっくりこなくて、ボクはグズグズと泣いてしまう。母は「もういい加減にして」と疲れた顔をする。
ボクは人のたくさんいる場所も苦手。人の顔がたくさんあるのがイヤ。人のニオイもイヤ。うるさいのがイヤ。視線が多いと気持ち悪くなる。
幼稚園は大嫌い。トイレや流し台の汚れが気になる。みんなの言葉遣いの乱暴さや、ガサツな行動にうんざりする。喧嘩を見ると具合が悪くなる。
イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ……この世界にはボクのイヤなことがたくさんある。
ボクの過敏さは、両親を困らせる。わかっている。でも我慢すると、吐いたり、熱が出たり、蕁麻疹が出る。母は「また病院に行かなきゃ……」と疲れた顔をする。
ボクは親に迷惑をかけている。ボクなんていなければよかった。ボクだって、好きで生まれてきたわけじゃない。
憂鬱だった世界が、ある日突然、色を変えた。
その女の子は、瞳の中に星が瞬いているんじゃないかってぐらいの、キラキラとした目で笑った。
「ミナトくん、なにして遊ぶ?」
その女の子は、ボクの手を引っ張った。ボクは引かれるがままに、幼稚園の中に入った。
ボクは戸惑う。触られても、イヤじゃない。話しかけられるのが、イヤじゃない。向けられる目が、イヤじゃない。遊ぼうと誘われるのが、イヤじゃない。スピノサウルスが空を飛ぶサンマを追いかけるというよくわからない遊びだけど、イヤじゃない。
心臓がドキドキする。心がワクワクと弾む。
女の子の名前は、ゆらりちゃん。ゆらりちゃんの笑顔はすごく可愛い。ボクは生まれて初めて、女の子を可愛いって思った。
イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ……。イヤなものばかりの世界が、変わった。
ゆらりちゃんはボクの世界に、嬉しい、楽しい、可愛い、ドキドキする、を連れてきた。
幼稚園はやっぱり好きになれないけれど、ゆらりちゃんがいるから行こうと思える。ゆらりちゃんが隣にいると安心する。
ボクはゆらりちゃんと会うために生まれてきたのかもしれないって、思った。