(1)
開かれた窓から、熱気をはらんだ風が吹き入ってくる。学院長室の窓辺で青空を滑り渡る鳥の影を眺めていた学院長は、「取り込み中かの」という声にふり返った。
「何度たたいても返事がなかったので、勝手に入らせてもらったぞ」
「それは失礼をいたしました、ロードン先生。何かお急ぎのお話でも?」
学院長のそばにやってきたロードンは、卓上に広げられた書類をちらりと見やってから、窓外に視線を移した。
「今日はよい天気だからの。学院長も誰かと話がしたいのではないかと思ったんじゃ」
「……お心づかい、痛み入ります」
学院長はかすかに微笑むとロードンを長椅子に勧め、飲み物の支度を始めた。
「何年になるかの」
「二十六年です」
果汁を二つの杯にそそぎながら学院長が答える。
「そうか。早いものじゃな」
のろのろと長椅子に腰を下ろしたロードンは、一つため息を吐き出した。学院長は杯を長机に置いてロードンの正面に座った。
「年にはかなわんな。さすがに階段の上り下りがつらくなってきたわい」
「引退はまだ認めませんよ」
笑う学院長にロードンは眉根を寄せた。
「神法学院の卒業生でよさげなのはおらんのか。ファイやニトルが成長するのを待っておったら、ひからびてしまうぞ」
二トルはロードンの孫で、今年学院に入学したばかりだ。風の法専攻生の中ではかなりの成績優秀者として注目を集めている。
「残念ながら、風の法専攻生はここ数年、教官になれるほどの者が育っていないようです。先日、神法学院の学院長や風の法担当教官も嘆いておられました。ファイとニトルを飛び級で受け入れる準備もできているというお話をいただいたのですが」
「それは由々しき問題じゃな。わしも今頃は隠居生活を楽しんでおるはずじゃったのに、どこぞの誰かが学院長になってしまったせいで計画が狂ってしまったしの」
「それはスクルプトーリスの学院長におっしゃってください」
「まったく。お前さんたちは昔から張り合っておったが、何も学院長まで同時に就任することはあるまいに」
「ですから、それはあちらの学院長におっしゃってください。せっかく用意されていた神官長の椅子を蹴って無理やり同じ地位に就いたのは、あちらですから」
「困ったものじゃの」
「ええ、本当に」
互いにぼやき、二人は発笑した。
「ところで、神法院から何か届いておるようじゃが、毎年恒例の調査か?」
ロードンの問いかけに、学院長の顔からすうっと笑みが消えた。
「今年も該当なしで出せばよかろう」
「それが、今回はそういうわけにはいかなくなりました」
「どういう意味じゃ?」
学院長は一度杯に口をつけると、視線を落とした。
「イフェイオン・ソルムの一件が神法院の耳に入ったようです」
「何じゃと? それでは……」
眉根を寄せるロードンに、学院長は胸元の首飾りをにぎりしめた。二十六年前から肌身離さず持ち歩いてきた首飾りを。
「タウ・カエリーを筆頭とする七人について、資料を提供するよう命令がきました。今年は該当なしではごまかせないと思います」
熱風が窓を鳴らした。しばらくの間、二人は身じろぎもせず見つめあっていた。
放課後、シータはパンテールと一緒に野営学の教室に向かった。毎年、ゲミノールム学院は隣市のスクルプトーリス学院と交流戦をおこなう。だがその前に学院の総大将を決める模擬戦があるのだ。学院内のこの戦いでは剣専攻生と槍専攻生が互いに技を競い、勝った専攻の大将が交流戦での総大将となる。
すでに両専攻の大将は決定していた。剣専攻大将はタウで、副将はバトス。一方槍専攻大将はアレクトールで、ラムダは副将になっていた。大将はどちらの専攻も勝ち抜き戦で決めたのだが、ちょうど夢にうなされていた時期と重なったせいで、ラムダは試合に集中できなかったらしい。卒業式の代表戦では絶対に代表の座をとると、ラムダはタウと約束した。
今日は剣専攻の一回生から三回生の代表者が集まって話し合いをすることになっていた。出席するのは三回生が六人、二回生が四人、一回生が二人。シータは一回生代表のパンテールに頼まれてついてきたのだが、正直とまどっていた。一回生には発言する機会はないだろうし、むしろ決まったことを同期生に伝える連絡係のようなものだから、座って話を聞いているだけでいいと頭ではわかっているが、どうにも自分には不向きな気がして落ち着かないのだ。
野営学の教室の扉を開くと、すでにタウたちは来ていた。いつもは教卓のほうを向いている生徒用の机も、大きな長方形を描くように並べられている。どうやら自分たちが最後らしい。遅くなりましたとわびるパンテールに続いて、シータも慌てて頭を下げた。
二人が席に着いたところで、第一回目の作戦会議が始まった。まず簡単な自己紹介をおこなってから、副将のバトスが議題を進めていく。初日なので顔合わせ程度かと思っていたが、二回生も三回生も最初から忌憚のない意見を飛ばしあい、白熱した雰囲気にシータは圧倒された。一回生の存在などすでに忘れ去られている。シータの隣では、パンテールが会議の内容を黙々と書き取っていた。
タウは時々両脇の三回生と小声で何か話したり、回ってきた紙に目を通したりしていた。二回生たちもタウが発言するときだけは周囲との話をやめて聞いている。本当に別格なのだと思うと、シータは誇らしくなった。自分の所属する冒険集団の人間が皆に一目置かれているのは、やはり嬉しい。
やがて議題は協力者の件に移った。いきなり神法学科生が話題の中心になったので、シータは手を挙げた。
「すみません、協力者って何ですか?」
まさか質問するとは思っていなかったのか、パンテールが驚いた容相でシータを見た。二、三回生も「そういえば一回生がいたな」と今思い出した感じでふり返る。みんなから注目されてひるんだシータに、バトスが説明した。
「交流戦では神法学科生も全員参加して武闘学科生と一緒に戦うんだが、模擬戦でも数人の協力を依頼することが許されている。だが水の法専攻生は交流戦と同じく救護にあたるし、大地の法専攻生は万が一にも建物が破壊されたり、教養学科生がけがをしたりしないよう防御を請け負うから、頼むのは炎の法専攻生と風の法専攻生にかぎられる。毎年四人まで選ぶことができるんだ」
シータが納得したので、バトスは会議を続けた。
「それで、と……その神法学科生だが、タウと俺で三人まではすでに話をつけてきた。炎の法専攻生はイオタ・サリーレ三回生、レクシス・ホーラー三回生、風の法専攻生はニトル・ロードン一回生」
一回生と聞いて二回生がざわついた。ロードン教官の孫であることは皆知っているらしいが、大丈夫なのかと疑問の声が広がる。
「俺の冒険集団に加わっている。一回生だが実力は二、三回生並だ。できればもう一人優秀な風の法専攻生が欲しいところだが」
バトスがタウに視線を投げた。誰のことを言っているのかシータにも察しがついた。他の生徒たちも期待に満ちたまなざしをタウにそそいでいる。
「ファイ・キュグニーは……残念だが、いい返事はもらえなかった」
タウの返答に全員が肩を落とした。タウの誘いを断るなんてと二回生から愚痴がこぼれる。皆の落胆ぶりがあまりにも大きかったからか、タウが苦笑した。
「槍専攻にも手を貸す気はないみたいだから、敵にまわる心配はないと思うが。まあ、まだ日にちはあるし、もう少しねばってみるつもりだ」
最後にタウの目はシータをとらえた。ファイの説得を頼むと暗に訴えられ、シータは乾いた笑いを漏らした。タウでさえ承知してもらえなかったのに、自分の誘いに乗ってくれるわけがない。
タウの言うとおり、敵にだけはならないでほしいとシータは祈った。
翌日、午前中の授業で神法学科生は蔓草を大量にかかえて歩いていた。模擬戦と交流戦で着用する鎧や法衣には、武器が必要以上に貫通しないよう防御の護符をつけることになっている。その護符を作るため、昨日サルムの森に材料の蔓草を取りに行ったのだ。
どこで編んでもかまわないので、ファイは自分の取り分を持って風の神の礼拝堂前に移動した。教室内は蒸し暑いし、礼拝堂のそばの大木の下なら涼しいだろう。
行ってみると神法学科生は見当たらなかった。人がいないのは気が楽でいい。ファイはさっそく大木の根元に腰を下ろすと、護布を編みはじめた。
礼拝堂の隣にある乗馬場からは、槍専攻教官の怒鳴り声が時折聞こえてくる。どうやら一回生を指導しているようだ。
交流戦では馬の使用を認められているので、馬上での戦いも当然起きる。一回生と三回生では乗馬の技術にもかなりのひらきがあるため、もしこちらの一回生が敵の三回生の隊と衝突すれば、あっさり全滅させられる可能性が高い。
ファイはふと、授業の最初に言われたことを思い出して手をとめた。模擬戦の二十日後、二回生以上の神法学科生は一泊の野外研修に行くのだが、護衛役として武闘学科生を一人連れていかなければならないという。
ミューはラムダに頼むだろうし、イオタは今年もタウに声をかけるだろう。自分も研修の話を聞いて頭に浮かんだ武闘学科生はいるが、はたして許可が下りるかどうか。
とりあえず授業が終わったらロードン教官に相談してみようと、護符作りを再開したファイは、人の気配を感じて目を上げた。
「あの、隣いいですか?」
両手いっぱいの蔓草を運んできたのはニトル・ロードンだった。ファイがうなずくと、少し緊張ぎみに見えたニトルの顔がぱあっと晴れた。
「ありがとうございます」
嬉々としたさまでニトルが横に座る。ファイはそれ以上何も言わず、蔓草に視線を戻した。
ニトルは幼い頃から、ロードンの家に遊びにいくたびに風の法に関する本を読みあさっていたらしい。そのため学院にあがったときにはすでにいくつかの法術を使えるようになっていて、入学当初はちょっとした噂になった。ファイも多少興味をもったが、わざわざ顔を見にいくことまではしなかった。すると合同演習の日に、ニトルのほうからあいさつしてきたのだ。真っ赤な顔で話しかけてきた彼との最初の会話は長くは続かなかったが、それから合同演習のたびにニトルは寄ってくるようになった。
話す内容はもっぱら法術のことで、一回生とは思えない知識量をもつニトルと話すのは案外楽しく、普段は単独行動の多いファイも、ニトルがいるときは一緒にいるということが増えてきていた。
「ファイさんは模擬戦には出ないんですか?」
「タウたちに頼まれたの?」
ふられた話題にファイは眉をひそめた。おそらく説得するよう言われたのだろう。図星だったのかニトルは動揺が丸見えで、あーとかうーとかしばらくどもってから黙った。
「交流戦は全員参加だからあきらめてるけど、模擬戦は自由だからね」
「あまり興味がないということですか?」
「話したこともない大勢の人たちに気を配るのは疲れるんだ」
仲間なら、ある程度の行動は読めるし援護もしやすい。だが普段接触のない人間、しかも集団を補佐するのは難しいのだ。
「あ、そうか……僕、何も考えずに引き受けちゃったな。どうしよう」
こぶしを口元にもっていったニトルは、若緑色の瞳をせわしなく動かした。
「でも、ファイさんと一緒ならうまくできそうなんですが」
さすがはロードンの孫。あやうくほだされそうになったところをかろうじて踏みとどまったファイは、護符作りに集中することにした。
素なのか計算なのか、年下の少年は「残念だなあ」としんみりした調子でつぶやいた。
鐘が鳴ったので、二人は完成した護符と未完成の蔓草を持って法塔へ急いだ。途中、闘技場を目指すたくさんの神法学科生とすれ違う。二人は法塔の前で待っていたロードン教官に完成したものを渡した。残りは明日の放課後までの宿題となる。ファイはニトルからの昼食の誘いを断り、ケローネー教官と一緒に中央棟へ歩きだしたロードンを呼びとめた。
「野外研修のことなんですが、護衛の武闘学科生は二、三回生から選ばないといけませんか?」
「絶対というわけではないじゃろうが、一回生を連れていくのはあまり聞かんのう」
ケローネーも「そうですねー、私も例を知りませんねー」と答える。
「とはいえ、できるだけ親しい者が護衛についたほうがよいしのう。一回生でも成績のよい者なら許可されるかもしれんし、武闘学科の先生に先に確認してみてはどうじゃ?」
「わかりました」
だが今闘技場に行くのは危険だろう。昼食後に教官室を訪ねることにしたファイは、ロードンに頭を下げて離れた。きびすを返したところで、ニトルがまだぐずぐすしているのを見つける。用がすんだのかうかがっているようだ。ファイは少し考え、先ほどの誘いを受けるためにニトルのほうへ爪先を向けた。
同じ頃、闘技場で合同演習をしていた剣専攻生は、模擬戦が近いせいで鍛錬にも熱が入り、ウォルナット教官の罵声もいつもよりよく響いていた。
シータは今日はバトスと剣を交えた。副将になるだけあって、バトスの繰り出す技はかなり鋭い。最後にのど元に剣を突きつけられてシータが降参すると、バトスは大きく息を吐き出してあごにたまった汗をぬぐった。
「まったく、一回生とは思えない腕だな。どれくらいの頻度でタウに稽古をつけてもらっているんだ?」
あきれたような口調だが、ほめられているのがわかる。シータも頬に流れ落ちてきた汗を腕でふき、剣をしまった。
「体力もあるし、動きも速い。守護神は?」
「風の神だよ」
「これは先鋒隊行きだな、タウ?」
「ああ、そのつもりだ」
バトスがシータの後ろに声をかける。やってきたタウは同じように剣を振るっていたはずなのに、まだ十分に余裕のある顔をしていた。タウに指導してもらっていた二回生は床にへたり込み、全身で呼吸している。
「アルスの奴、情けないな」
自分の冒険集団の一員が容赦なくたたきのめされた姿を見て、バトスが舌打ちする。アルスは反論したくても息切れして声が出ないのか、手だけを振ってみせた。
「来年の大将として十分に期待できるぞ」
タウが肩ごしにアルスを見やる。紅潮していたアルスの頬がさらに色づいた。
「ほめすぎだ」
バトスは鼻を鳴らしたが、仲間の実力を認めてもらえたのはやはり嬉しいのか、まんざらでもない顔つきだった。
「タウとバトスって、どうして一緒に冒険集団を立ち上げなかったの?」
仲がよさそうなのにと首をかしげるシータに、二人は顔を見合わせた。
「それはお前、こんな堅物と学院の外でも付き合ってたら、息がつまるからに決まってるだろう」
「ひどいな」
何を当たり前のことを、というバトスに、タウが苦笑する。
「まあ、それは冗談として、早い話、集団を統率する人間は二人もいらないってことだ」
「そういうことだな」
二人のまとう空気には、ともに学んできた絆のようなものが見え隠れしていた。同じ剣専攻生として過ごした時間のかけら、とでも言うべきか。ラムダといるときとはまた違うタウの雰囲気にシータは興味をひかれたが、追及はしなかった。それはきっと、自分が三回生になったときにわかるだろうと。
授業終了の鐘が鳴ったので、いっせいに片づけに入る。腹は減ったが汗まみれで気持ち悪いので、まず更衣室で着替えようと考えていたシータは、扉の外がやけに騒がしいことに気がついた。
「そういえば、そんな時期だったな」
タウが困惑気味にぼやく。バトスは笑ってタウの肩をたたいた。
「俺は向こう側に行く。健闘を祈る」
鼻唄まじりに去るバトスを見送り、シータは何があるのかタウに尋ねた。
「神法学科生が来ているんだ。あいさつをしてもすぐに扉のほうへは行かないほうがいいぞ。巻き込まれて踏みつぶされるかもしれない」
ずいぶん恐ろしい忠告だが、確かに扉の外からは殺気めいたものを感じる。押し合っているのか時折扉がみしみし揺れるので、一回生たちはみんな不安そうだ。
タウの号令にあわせ、剣専攻生がウォルナットに向かってあいさつをする。とたん、我慢の限界とばかりに扉が開かれ、神法学科生がなだれ込んできた。
タウに注意されていたにも関わらず、シータは神法学科生たちの波に埋もれた。他の一回生たちも逃げ遅れて助けを求めている。何とか自力で脱出したシータは、壁に張りついているパンテールの隣に移動した。
「何なの、これ」
ぐしゃぐしゃになった髪をくくり直すシータに、パンテールもわからないとかぶりを振る。よくよく耳をすまして聞いていると、神法学科生たちは護衛がどうとか言いながら武闘学科生に詰め寄っていた。
「シータ、タウはどこ?」
肩で息をしながら闘技場内に入ってきたイオタは、シータが返事をするより先に大きな人だかりをにらみつけた。
「あれね」
イオタはまっすぐ突っ込んでいった。だが、どいてよ、やめてよと金切り声が飛びかう人込みの層は厚いらしく、なかなか中心へ入れない。しかも外側の女生徒たちはイオタを故意に入れさせないようにしていた。
「イオタは去年一緒に行ったんだからいいじゃない」
「そうよ、今年は最後なんだから」
「別の人に譲るべきだわ」
「冗談言わないでよ。今年最後なのは私も同じ。だいいちタウが決めることでしょ?」
他の生徒たちと口論になったイオタは、しびれを切らしたのかついに大声でタウの名を叫んだ。一瞬闘技場内が静まり返る。波がひくようにイオタの前の人山がさあっと割れ、囲まれていたタウの顔が見えた。イオタはタウのそばまでずかずか進んだ。
「今年もお願いできる?」
「ああ、かまわない」
うなずくタウがどこかほっとしたような感じだったのは、この混乱からようやく抜け出せると思ったからなのか。
去年もイオタの護衛をしたのにと周りの女生徒たちが文句を言う。
「一緒に冒険している仲間のほうが、戦闘になったとき連携をとりやすいんだ」
タウの言い訳に、女生徒たちは渋々といった様子で引き下がった。あの二人は仲間であって付き合っているわけではないんだという声がちらほら聞こえ、イオタのこめかみがひくついた。
シータは二人の周りがすっきりしはじめたのを見て近づいた。突然の神法学科生の乱入の理由を尋ね、野外研修と護衛のことを知る。そこへバトスが二人の神法学科生とアルスを連れてやってきた。
「そっちも落ち着いたようだな」
シータは授業終了前になぜタウとバトスが離れたのか納得した。二人とも『ゲミノールムの黄玉』投票で上位だっただけあって、押しかけてきた神法学科生の数が尋常ではなかったのだ。もし二人が並んで立っていたら、けが人が出ていたことだろう。
「結局今年も黄玉同士で組むのか」
タウとイオタににやりと笑い、バトスはシータに目を向けた。
「模擬戦で協力してもらうレクシスだ。それからこっちは水の法専攻のカルフィー・リベル。頭のよさは三回生で一番だ」
シータは二人と握手した。炎の法専攻生のレクシス・ホーラーはどことなく素行の悪そうな顔つきで、カルフィーのほうは知的で優しそうな雰囲気だった。
「バトスの集団って男子ばかりだね」
たしか他に槍専攻のプレシオとオルニス、そしてニトルがいる。何気なくこぼしたシータの言葉に笑いが起き、バトスがシータの頭にこぶしを落とした。
「汗くさくて悪かったな」
かなり本気でなぐったらしい。打たれたところを涙目でさするシータに、レクシスが説明した。
「バトスが付き合う相手をころころ変えるから、女は入れないようにしたんだ。別れても同じ集団でやっていくのはきついだろう?」
「あんまりな言いかただな」
「だって事実だろう」
ぶすっとするバトスにカルフィーは苦笑して、シータを見た。
「シータ、君に会えるのを楽しみにしていたんだよ」
「入学式の日にあのファイ・キュグニーを頭突きで吹っ飛ばしたうえに、タウの集団に加わったっていうから、これは絶対おもしろい奴に違いないと思ってな」
レクシスがにやにやする。シータはバトスをうらみがましくねめつけたが、バトスは「だって事実だろう」とカルフィーのまねをして笑った。
「それで、ファイは引っ張り込めそうか?」
レクシスの問いにタウは首を横に振った。
「難しいだろうな。ラムダも今朝再挑戦していたがだめだった。あまりしつこく追いかけると、交流戦にも出てこなくなる可能性がある」
「ローに頼めないのか? あの二人は仲がいいんだろう?」
「だめよ。『僕は中立の立場を貫くから』ってあっさり断られたわ」
「アレクトールたちはあきらめて他の風の法専攻生に声をかけたみたいだね。三回生が二人いればさすがにニトルはおさえられる。向こうは剣専攻もファイを説得するのは無理だと思っているみたいだし、敵にさえならなければいいという考えだよ」
カルフィーの話にバトスは頭をかいた。
「ニトルがうまく誘ってくれるといいんだがな。ファイの弱みをにぎっている奴はいないのか?」
タウとイオタとシータは顔を見合わせた。沈黙する三人にバトスが首をかしげる。何か変なことを言ったかと聞くバトスに、タウはぼそりと答えた。
「いや……ファイに弱みなんてあるのか?」
午後の騎士道学はたまらなく眠かった。食後に陽のあたる窓辺に座ったことを後悔しながら、シータは必死にまぶたと格闘していた。最近の演習が厳しいからか、剣専攻生も槍専攻生もどこかぼうっとしている。槍専攻担当のカウダ・フォルリー教官がまた耳に心地よい低い声で淡々と話すので、拷問に近い。そのためフォルリーが誰かの居眠りをたたき起こすたびに皆びくっと顔を上げるが、しばらくするとまたすぐうつむきだすのだ。
隣のパンテールもあくびをかみ殺している。それでも羽ペンが動いているあたり、尊敬に値する。もうむだな抵抗はやめようかとシータが思いはじめたところで、やっと授業終了の鐘が鳴った。槍専攻代表のピュールが号令をかけ、フォルリーへのあいさつが終わったとたん、生徒たちはそのまま机に突っ伏した。
「次って何だっけ?」
「算術。一番端の教室だから急がないと」
みんなと同じように机にべったりうつぶせるシータを、パンテールがせかす。この状態で数字など見ていたら目がまわりそうだが、ケローネー教官の授業でないのがせめてもの救いか。他の生徒たちが動きだしたため、シータものろのろと立ち上がった。
算術の手前の植物学教室も使われていたらしく、生徒たちがぞろぞろと出てくる。その中にファイの姿を見つけてシータが片手を挙げると、ファイが寄ってきた。
「ちょっといい? 話があるんだ」
シータは目をしばたたいて自分を指さした。ファイがうなずいたので、パンテールに席取りを頼んで向き合った。
ファイから話とは珍しい。というより、初めてのことだ。何を言われるのかと緊張するシータに、ファイは少し視線を落とした。
「模擬戦の二十日後に神法学科の野外研修があるんだ。武闘学科生を一人、護衛として連れていかないといけないんだけど、引き受けてもらえないかと思って」
すぐにはぴんとこなかった。シータはしばらくかたまった状態でファイを見つめていたが、言われた内容が理解できたとたん、興奮した。
「それって、イオタがタウに頼んでいたあの話……嘘、私!?」
「だめなら他をあたるから」
身をひるがえすファイの腕をシータは乱暴につかんだ。
「ちょっと待って! やる! やるからっ」
「痛いよ」
「あ、ごめんっ」
顔をしかめているファイの腕をシータは慌てて放した。
「私、やりたい。ファイの護衛、絶対するから」
胸の前で両のこぶしをにぎりしめるシータの力み具合にやや尻込みしながら、ファイは紙を渡した。
「研修の参加申込書。名前を書いたらウォルナット先生に出しておいて」
紙にはすでにファイの名前が記されている。空欄になっている護衛の武闘学科生のところをシータは指でなでた。ここに自分の名前が入ることを思うと、自然と笑みがこぼれた。
いつまでもにやけているシータに、ファイが小さくため息をついて去る。鐘が鳴ったのでシータは急いで算術の教室に入ったが、授業中もずっと申込書を眺めては一人でにやつき、パンテールに気味悪がられた。
算術の授業が終わるなり、シータは自分の名前を書いた申込書を持ってウォルナットの教官室に走った。扉を強くたたき、応答を待たずに扉を開ける。
「先生、申込書っ」
「落ち着かんか、馬鹿者」
ウォルナットの前には二回生がいた。ウォルナットから紙を受け取った彼は不思議そうな顔でシータを見やりながら退室する。シータはウォルナットに呼ばれて大机のほうへ駆け寄った。
「神法学科の野外研修の護衛を頼まれたんです。申込書を先生に提出するように言われたので」
「知っている。先に相談してきたからな。ファイ・キュグニーだろう」
ウォルナットはシータから申込書をひったくると、二人の名前があることを確認して判を押した。代わりに野外研修についての説明書きをシータに押しつける。
「一回生の参加を認めることはめったにないんだ。だがファイ・キュグニーのたっての頼みだからな」
ウォルナットは立ち上がり、シータの胸元に人指し指を突きつけた。
「いいか、引き受けたからには何が何でも守れ。もし護衛にしくじってみろ。今年の俺の授業は全部落第にするぞ」
「わかってます」
シータはへらっと笑った。まだ嬉しさが抜け切れていないので、まじめな顔をしようとしてもどうしても崩れてしまう。ウォルナットは「どうしてこんな奴に」とぼやいて額を押さえた。
追い出されるような形で退出を命じられても、シータは全然気にしなった。足取り軽く教官室を離れたシータは、廊下で会ったシャモアに大げさなほど会釈をしてすれ違った。
飛びはねながら去っていくシータを見送ってから、シャモアはウォルナットの部屋を訪れた。
「これはシャモア先生っ」
山積みの申込書をそろえていたウォルナットが机に足をぶつける。おかげで申込書が床に散らばってしまい、ウォルナットは慌ててかき集めた。
「シータ・ガゼルが来ていたようですね」
「ええ、ファイ・キュグニーから護衛を頼まれたと……ああ、すみません」
申込書を拾う手伝いを始めたシャモアに、ウォルナットは頬を朱に染めた。
「そうですか。ファイが彼女に……」
「一回生ですが実力は二回生にも劣りませんので、その点は心配ないかと。ただ冷静な判断力が欠けているといいますか、とにかく頭で考えるより先に体が動いてしまうような奴でして。もちろん、野外研修までにさらなる鍛錬と精神面の強化をみっちり指導しておきますが。それでも不安が残るようなら、俺もファイ・キュグニーの護衛につくつもりです。シャモア先生のご懸念はこのラーヴォ・ウォルナットが取り除いて差し上げますので、どうかご安心ください」
早口で熱弁を振るうウォルナットに、シャモアは微笑んで申込書の束を手渡した。
「ウォルナット先生のご好意には感謝しています」
「ああ、いや、なに」
ウォルナットがますます赤面する。シャモアは窓の上に飾られた歴代の剣専攻教官の肖像画に視線を移した。
「シータはファイのために暗黒神の領域に自ら飛び込んでくれました。暗黒神とつながりをもつこと自体は危惧すべきですが、これほど頼りになる存在はいないでしょう。それに勢いで行動してくれるからこそ、不測の事態にも早く反応できるでしょうし。逃げたりためらったりする人間には、今のファイを任せられませんもの」
「まあ、確かにそうですな」
ウォルナットは灰赤色の髪をかいた。シャモアの期待がシータだけに向けられていることに渋面する。
「ところでウォルナット先生、今夜のご予定はすでにお決まりですか?」
「いえ、特には」
「でしたら、もしよければ夕食をご一緒しませんか?」
「ええ!? あ、はい、もちろん、喜んでっ」
鼻息荒く答えるウォルナットに、「では後ほど」と告げてシャモアが出ていく。シャモアからの誘いにウォルナットは歓喜の雄叫びをあげた。これは奇跡のパンの効き目かと上機嫌で身支度を始める。だが嬉しさのあまり肝心なことを忘れていた。
奇跡のパンを食べたのは、ウォルナットだけではなかったということを。
一方、幸福な気分を周囲にまき散らしながら歩いていたシータは、ちょうど階段を下りてきたタウとバトスに走り寄った。
「タウ! 私も野外研修に護衛で行くことになったよっ」
「お前が?」
「一回生なのにか? 珍しいな」
タウとバトスが目をみはる。誰の護衛なのかと尋ねられ、シータがファイの名を口にすると、二人は互いを見合った。
「でかしたぞ、シータ」
にやりと笑うバトスに、小躍りしていたシータは首をかしげた。タウも顔をほころばせる。
「最強の交渉権獲得だな」
「何のこと?」
「剣専攻一回生シータ・ガゼル。お前に重要かつ名誉ある任務を与える」
バトスがまじめな顔をつくったので、シータはつられて姿勢をただした。それに満足げにうなずいて、バトスは厳かな口調で命令した。
「ファイ・キュグニーと取引してこい」
次話投稿は28日頃の予定です。