ロンダークの犬
我が輩は犬である。
名前はヒュプノー。
畏れ多くも、魔王・ロンダーク様に付けていただいた名だ。
また今日も、この魔王城に主人の宝を狙う不埒な輩がやってきた。
「くそッッ! 何なんだよ、この化け物は!」
「せっかく魔王を倒しても、これでは宝物庫に近寄れないわね……」
剣士風の男が悪態をつき、魔法使い風の女がため息をつく。
人間の言葉は分からぬのだが、何か言い争っているようだ。
「ここは撤退するのが宜しかろう」
神官風の男が、そう呟く。
「て、撤退だと?! 俺は勇者だぞ。魔王本人ならともかく、ただの魔王の飼い犬に撤退などありえん!!」
「だが現に、魔王よりも強力ではないか!」
「くっ……!!」
苦虫を噛み潰したような顔で、ジリジリと下がり始める剣士。
「まさかこの犬、魔王覚醒が始まってるのか……?」
魔法使い風の女が、何かの異変に気づいた時だ。
「グルルル……」
逃さんぞ、盗っ人ども。
魔王の玉座の間に、血飛沫が舞う。
巨躯のかぎ爪が、人間達の喉を切り裂く。
騎士団、冒険者、魔法師団……。
ヒュプノーは、これまでに何人もの人間を、屠っていったが、今回の者たちは、なかなかの強者であった。
「なんと欲深く、矮小な生き物よ……人間」
ゴリッと、剣士の頭を噛み砕きながら、ヒュプノーは独りごちる。
◇
それから、200年が経過した。
魔王様はまだ帰ってこない。
ヒュプノーは幾度となく、魔王城を守り続けた。
「我が輩も、もういい歳になったな」
静かにそう呟くヒュプノー。
もはや、目も見えない。
もはや、立ち上がる事さえ、おぼつかない。
このような状況で、我が輩は、あのような強者とどこまで渡り合えるか……。
ヒュプノーが、そんな思いにふけっていたところだ。
ーーギギギィ……
重い音を立てて、玉座の間の扉が開かれる。
もはやヒュプノーが頼れるのは、己の研ぎ澄まされた嗅覚のみ。
その嗅覚が告げている。
「ロンダーク……様?」
懐かしい、200年ぶりとなる、我が主人の香り。
ヒュプノーの巨大な尾が震え、玉座の間に塵が舞う。
「おかえりなさいませ、ロンダーク様」
ヒュプノーはふらつきながらも、精一杯の気力を振り絞り、見事に立ち上がってみせる。
主人の前で、弱った自分の姿など、決して見せられないのだ。
「違うな」
入ってきた男は、低く呟くと、羽織っていた魔王の衣を脱ぎ捨てる。
そして、巨大な漆黒の剣を振りかざした。
「この剣も、ロンダークの物だったと聞いている。ロンダークの犬よ。最後に言い残す事はないか?」
「………」
この瞬間、ヒュプノーは悟ったのだ。
主人であるロンダークは、死んだ……と。
「……侵入者よ。ここが魔王城であること。そしておぬしの持っている物が、我が主人、魔王・ロンダーク様の物であると知っての狼藉か?」
「憐れなものだな。魔王の飼い犬よ。いや、せめて、現世魔王とでも呼んでおこうか?」
「現世魔王……?」
明らかに動揺するヒュプノーを一瞥し、男は剣を上げながら、こうも告げる。
「魔王とは『覚醒性』である事は知っているな? 現世魔王が亡くなると、魔界の中で最も強い者が、また次の魔王へと覚醒する……そなたは200年もの間、現世魔王だったのだぞ?」
「我が輩が、魔王……?」
重く重く、ヒュプノーが唸る。
「そうだ。そして俺が、現時点での魔王序列二位、クリプトという者だ。ロンダークの犬……いや、現世魔王ヒュプノーよ。ロンダークよりもはるかに強いお前の力が衰えるのを、俺は200年もの間待っていたのだぞ」
クリプトと名乗る者が、ロンダークの衣を完全に脱ぎ捨てると、緑の鱗に覆われた身体があらわになる。
「ドラゴニック・オーガか……」
目の見えぬヒュプノーだが、嗅覚や力の波動のみで、その種族やおおよその戦闘能力までも推測することができる。
「あぁ。俺はドラゴニック・オーガ、クリプトである。ヒュプノーよ。お前を殺し、次世魔王となる者の種族と名前を、冥土の土産とするがいい。それとも、何も知らずに死んでいくほうが、お前にとっては幸せだったかな?」
ーー振り下ろされる黒剣。
「ふん……。我が輩の力の衰えを待つような、腰抜けにやられたなど、土産話どころか恥。ロンダーク様に顔向けなどできぬ!」
主人の死を知らず。
その主人と同じ、魔王になったことも知らず……。
魔王城を忠実に守り続けたロンダークの犬は、その儚い生涯を、次世魔王によって閉ざされたのだった。