掌篇 玉虫を踏み潰したようなもの(注:おまけの収録)
私はバス停留所か何か、こぢんまりとした小屋でぼんやりと、立つでも座るでもなく居た。気づけばそうであったが、いつからこうしていたかは知らない。辺りは少し霧がかっていて、しかし地面を思わせる、足元から視界にかけて広がる床の色こそは、はっきりと土の色だと判った。やはり私はここで、立っていたのである。
元来あまり自分の外側のことに関心がなかった私であるが、ここは一段とどうでもよいと感じさせる停留所である。小屋の木の腐り具合や虫食いの跡、柾目か板目であるかなどの議論は端から頭にはなく、その代わり、何故私が今こうして思考しているのか、そればかりが気になり、むず痒かった。
よって暫しぼうっとしていると、左から、アメンボが水面を渡るように音も無く、一艘の小船が近づいてきた。私は条件反射的に外套の右ポケットの中に潜んでいた物を右手で摘み出す。やがて小船は私の目の前、否、正確には私を一寸通り過ぎて停車した。
「切符、拝見します。」
私は右手を差し出し、摘んでいた物を掲げる。
「おや、これは。ええ、なるほど、新たしいお客で。どうぞ。」
おもむろに船に乗り込みながら、尋ねた。
「これは何ですか。」
この問いは当然だ。こんなものをポケットに入れた覚えはないからである。
「そいつはあれですわ。いわゆるうつつ世でやっちまった罪ってもんです。んだけど、俺から言わせりゃ、罪のない人間ほどつまらん奴もおりませんで。」
罪、云われればもっともなり。人の世での罪というものは、確かにこの、立派な玉虫を踏み潰したようなもので形容されていた気がする。私はそれを左のポケットに仕舞い込む。それから小船の腰掛に座る。静寂が、軋んだ。
船頭はその両手に握った大袈裟な櫂で地面を一蹴りすると、たちまち小船は心地よい速度で前進を始める。
「この船はな、まあ知ってると思うけどよ、お客みてえに死んだ人が生前をあらためるっちゅうことで、そこいらを航行しますん。あんまり気張らんと、他人事を見とるみたいで結構ですからね。それじゃあ、まず生まれた瞬間から行きましょうかい。」
「そこら辺は全然憶えてませんし、学生時代の、高校ぐらいからお願いします。」
「そうか。別にそれでもええけど。」
船首を右にぐいと折り曲げて、少し高度を上げて小船は進む。
時々雨に似た水滴が頬をかするので、少し鬱陶しかった。しかしふと、これは涙であると直感した。頬が淡く痛むからである。
「着きました。今は高校入学式かね。どう、懐かしいかいな。」
「やっぱりよく憶えていません。生きていた時のことはほとんど全て忘れてしまったかもしれません。」
「割りと皆さんそうよ。だからあらためるってことで、はい。」
随分と勝手な言い分にも聞こえるが、本当に生前についてはよく解らなかったので、それでも好いかという気持になった。
彼、すなわち当時の私は、詰襟に身を隠して誇らしくして居る。何が誇らしいのかさっぱり分からぬが、微笑ましくはあった。これから喰らう苦悩と屈辱など、跳ね除けそうな口元を持っていた。小船は彼を追い続け、同時に表情も追って行く内に、徐々に、それに変化が見られた。「退屈だ。学生はもう飽きた。新婚生活とかを見せてください。」
「お客、あんた結婚してなかったでしょう。冗談は生きとる内だけにしとってくれよ。わっはっは。」小船はまた元の場所へ引き返す。
戻ると云い、なんと生々しくも、私が母の体から引き剥がされる所から見せられた。
「ここがね、大事らしいんですわ。人ってのは、よく自分が何か偉いもんだと勘違いしよるんですけどね、実際遡ってみりゃ、そこで阿呆みたいに泣き叫ぶただの赤ん坊だよ。どれだけ偉い事しよっても、今こうして船に乗っとるわけですし。」
とても腹が立った。言訳がしたくなったが、言葉が見当たらなかった。
「だったら、どうして生まれたときからそれを思い知るように産んでくださらない。理不尽ではないか。」
「ああ、俺も詳しくは知らねえんです。俺だって自惚れている人間のほうが好きだからねえ。可愛げがある。」
とうとう我慢がならぬ。
「理不尽だと思うことが、私の自惚れでしょうか。だったらどうすれば好いのですか。」
「自惚れだ、うん。死を恐れ過ぎている程に自惚れ屋さんですわな。おう、どうもせんでもええよ。それがあんたで、決してあんたはそれ以上にはなれん。」
追々向かった先は、私が小学生の餓鬼んちょである頃だった。炎天下、一所懸命蝉を殺している。どうすれば一番苦しむのかを考えているであろう顔は、とても楽しそうであった。
「これはまあ純粋な子供ですなあ。」
私は首肯したが、それ以上に興味は持てなかった。私も、蝉が哀れだとか彼が無慈悲だとか屁理屈を捏ねるのは、もはや無為であると悟って居るのだ。
「今更と云えど、これを無為に感ずるも成長、つまり神様の賜り物だわ。」
船頭のこの言い草がどこか腑に落ちなかった。その時、外套の中の玉虫がごそごそ粗っぽく蠢く音と感触がした。
小船を漕ぎだして何年が過ぎたか憶えていない頃、よくよく考えれば人生の終りの直前と同じだけの時間が経った頃、船頭は、「ほいだら、最後、死ぬ瞬間を見てお仕舞いにしましょうか。」と云った。
そこは私が生前、上京して町工場で働き始めてからずっと住んでいたアパートの自宅であった。味のない布団と味のない机と味のない椅子と味のないジジイと味のない冷蔵庫と味のない台所と味のない箪笥と味のない窓と味のない壁紙と、彼の唯一の趣味であり生き甲斐でもあった物語本を並べる本棚が、居た。彼は椅子に腰掛け、或る物語本を読んでいる。
「あと、五秒くらい。」
船頭が云い終えて間もなく、彼は本を捲った。そして、物語の次のページを待たずして、死んだ。
「こんな感じですね。お疲れ様です。では、地獄の方へ、案内しますんで。」
小船はまた、別の場所へと静かに動き出す。