表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
告解的短編集  作者: やま
3/4

是亦未題物語

 雨が降っていた。それは寒々しさと虚しさの入り交じる空色の日のことである。

 僕は徐ろにポケットからタバコの箱を取り出し、一本抜き取り、咥え、ほのかに甘い嗅覚的幸福を八秒ほど楽しんでから、ようやくなぜ屋外に出てきたのかを思い出して慌てて火を付ける。

 何吸いかしてから、大学構内では禁煙であったことに気づいた。しかしせっかく火を付けたのだから、それなのにすぐに消してしまってはこのタバコを育んでくれた地球と私を育んでくれた母に申し訳ない、よって今回はしょうがない、次回から注意せねば、と心の中で言い訳をする。そう思考を巡らす頃には脳内が一酸化炭素とニコチンで覆われたせいで雨降りの秋の寒さを忘れていた。

 地面に絶え間なく打ち付ける水音で、不思議と僕は落ち着いた気持ちになる。雨が僕にとって無音に感じるのは、昔からだった。

 自然が作るその音に、それは人間もまた自然から生まれたモノだからなのか、とんとうるさく思えない。人間は自然の一部であるとかのエンゲルス先生も言うように、僕たちは決して自然に逆らうことはできず、それがもたらす全てを僕たちはありがたがらなければいけないのかもしれない。

 いわば自然は僕の理性そのものだ。もし僕が自然に傾聴し、あるいは服従すれば、その美しさは僕の精神を落ち着かせ、感覚はこの雨のように研ぎ澄まされていくように感じる。そこで逆にもし僕が自然を意識の端に退けたり、無下に扱ったりすれば、自然は必ず後で何倍にもして復讐してくるのだ。自然とは僕を地球という檻に閉じ込めている看守のような存在でありながら、僕が傷つかないように地球というベッドに優しく寝かしつけてくれる乳母のような存在であるとも言える。

 であれば、一方僕が片手に握りしめている百均ライターのように人工的に作られたモノにとっては、雨の静謐な轟きが危機感をあおる一種のサイレンか、自らの生命を脅かす天敵の足音のように聞こえているのかもしれない。雨という自然は、その恵みを受けない者にとってはひどく残酷な現象であることは言うまでもないからだ。

 火が僕の指を焼こうと懸命に迫ってくるのを嘲り笑いながら僕はそのタバコを捨てて踏み潰し、小休憩の時間を自ら終わらせてしまったことに少し後悔をした。だが、そろそろ実験室に戻らねば、あの気分屋で小うるさいN教授にまた嫌味を言われかねない。


 僕は実験室までの短い廊下を歩きながら、現在時刻を確認する。十二時まであと五分か。また日付が変わってしまう。その絶望感をもう一度紫煙でもみ消したいという激しい衝動が襲い掛かるが、本番の実験まで一週間と少ししかない事実を胸になんとか堪え、実験室の電子キーを解除する。

「ただ今戻りました。」

「じゃあ次は○○をお願いします。」

教授はまるで僕がサボタージュにかまけていたことを静かに咎めるように、指示を下した。もうじき時計の針が上向くことさえ厭わない彼は、僕にとって天敵そのものだ。

 僕は抗議をするように、黙して作業に取り掛かる。まずはフライスに6.2ミリのドリルを取り付け、あらかじめ切り出しておいたアルミ板の四隅の穴をあける位置に罫書きをする。

 罫書きをしながら、僕は次にいつ一服に抜け出そうかとタイミングを考えていた。何ならトイレと嘘をついて出てみるか、いや、その手は二度前に使った。なら次は居室に設計図を取りに行くフリをしてしれっと退室してみるのもいいかもしれない。

「その部品を作り終えたら、今日は終わりにしましょう。私はこの後もヘリウム冷凍機の調子を見てから帰りますがね。」

 教授はその言葉を言い終える前に、いっひっひ、と笑った。僕はこの利己的な笑いが大嫌いだった。しかし、この作業一つを終わらせてしまえば解放されるのだと思えば、僕も無意識にその笑い声に同調していた。タバコなど吸っている暇はない、さっさと終わらせてしまおう。

 罫書きを終えたアルミ板を支えとともに万力に挟み込み、フライスの電源をオンにする。今日何度聞いたかわからないモーターの不気味な回転音が唸り始めると、僕の疲弊した心が何とも言えない高揚感に包まれた。

 人間は外界について、視覚からの情報が九割であるとどこかで聞いたことがあるが、実はそれはあまり正しくないと僕は思っている。人が感情に支配されて日々を送っているのだとすれば、その感情は周囲の音、あるいは音楽によってコントラストにその色を変える。すなわち人の認知はすべからく聴覚に依るべきだ。

 例えば僕はグスターヴ・ホルストの「惑星」が好きだ。

「火星」はスネアドラムと弦楽器による正則的な足音が作り出す、純銅のように赤く立派な戦意を彷彿とさせるメロディが特徴的だ。僕は「火星」を聴けば、まるで戦場で武者震いをする騎士になったかのような錯覚をする。

 かと思えば、「金星」による、ホルンの遠い残響のような、あるいはどこまでも平坦かつ平和的な雰囲気によって僕は翻って達観した聖職者のごとき心の安寧を得る。「金星」を聴いているときだけはこの世の煩わしい出来事の一切がひどく下らないどうでもよいものなのだと悟ることができる。

 次の「水星」の旋律は、小さな魔術師の見せる愉快で不思議なメルヘン世界の幻覚を表現したものだと感じる。体の芯がどうしようもなく疼き始めて、いてもたってもいられなくなる程の楽しい時間というのは、その演奏時間にも、水星の公転周期にも表されているように、何故あっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。

「木星」を聴くと僕は背中に大きく真っ白で上品な翼が一対生えて、無意識にその翼によって上空へと舞い上がり、この世の天井に張り付いている星々のすぐ下を飛び回りながら、つみ木の汽車と夜の世界を旅しているかのような気持ちになる。きっと僕のその様子を月は微笑みながら見守っている。なんとも優しく、そして不思議な感情が僕の心を包み込むのだ。

 それが終わると始まる「土星」によるメロディは、時計の振り子が行ったり来たりするかのように、何度も何度も規則的に僕の心を急かそうとする。どこか不和的なリズムがあるだけで、僕の心拍数が少しずつ上昇し、健康状態を悪化させているのが分かる。しかし時に人が体に悪い物を嗜好品として享受するように、僕も「土星」が作り出す靄のかかった恐怖感に恍惚を覚える。

「天王星」は一言でいえば違法薬物だ。もっと具体的に指せばLSDがふさわしい。「天王星」は僕の心の色を256色さまざまにチカチカと切り替えたり、その形を立方体、正四面体、円柱、正十二面体、球、そしてまた立方体へと自在に変化させる。「天王星」を聴くことは僕にとって非常に危険な香りのする楽しい遊びなのである。

 最後の「海王星」は、これまでホルストによって弄ばれた僕の精神を再び現実世界に引渡すための調整剤の役割を持った一曲である。つま先が地面から離れたかのような不安で、しかしながらわくわくしていたそれまでの僕の体を優しく地面に押し戻すような、優しく力強いメロディによって、ようやく僕は今まで音楽を聴いていただけだったのだと理解することができる。

 たかが七つの音楽を聴いていただけなのに、その時々で僕は精神状態を七通りにスイッチングさせられる。これらが聴覚の持つ支配的な能力のためと言わずしてどう説明できようか。

「終わりましたか?」

「はい。これで部品は全て作り終わったと思います。」

 N教授の優しく力強い声で、僕はようやくホルストの魔法から解放された。


 休日である翌日、僕はこれまで蓄積した疲労を浄化するため、久しぶりに部屋の片付けをすることにした。とは言え、一人では寂しいということで、頭の中の友人と会話をしながら片付けをすることにした。

「僕を呼ぶのはずいぶん久しぶりではないかい?」

 彼が少し憎々しいのは、僕がそう望んだからである。

「最近忙しくてかまってあげられなかったことは謝るよ。その憎まれ口さえも君が退屈だったことの裏返しなのだろうと僕には伝わる。」

「僕を作り出した君が言うのも滑稽な話だ。」

 核心を突く彼の一言を無視し、まずは散乱した衣類の整理から始める。

 僕は少年の頃から整頓が好きであった。身近な例で言えば、本や漫画の巻数を左から昇順に並べたり、何十色もの色鉛筆をグラデーションになるように揃えて保管したり、パソコンのファイル全ての名前の頭にナンバリングして順序よく並べ替えてから保存したり、食事では一つの皿を綺麗にしてから次の皿に箸をつけるのが好きだ。これは過去に誰かから指導を受けた結果ではなく、恐らく生来の癖というものなのであろう。一つ一つの物事に順番を決めるという行為がたまらなく快感なのである。

 整理整頓という概念は人間特有のそれだ。そもそも自然には整頓された、あるいはCosmosな状態など存在しない。そういう概念は人間が外から与えたにすぎず、宇宙がコスモスであることは人間が生まれて以降の話なのである。いや、むしろ人間の言う秩序を宇宙や自然に当てはめるとすれば、それらは創造されて以後、一寸の狂いもなくChaosという名のCosmosを成立させているとも言える。

 ならば僕が今行っている「片付け」は、果たして部屋の美化なのか、あるいはこの部屋の創造主の定めたCosmosへの挑戦になるのか。

「少なくとも、僕たちは片付けがあまり得意ではないようだ。」

 深く同意する。

「もう疲れた。休憩にしよう。」

「そうだね。」

 そうして僕は窓も開けずに部屋の中でタバコに火をつけた。ちなみにこの部屋の創造主への弁明はない。

 うねりを伴って煙は僕の頭上へと昇り、目で追っているはずなのに、いつの間にかどこかへと隠れてしまう。僕は彼と二人並んでその景色を見つめながら、ああ、人生とは嫌になるほど退屈だと感じていた。

 八十年生き永らえると仮定して、僕は高々その内四分の一程度しか経験していない。だが、その四分の一に関しては退屈だったと断言できる。無論何事もなかったわけではないが、もし過ごしたその時間全ての記憶を丸ごと喫煙所での記憶に差し替えられたとしても、あまり驚きや嘆きはないだろう。

「日々に忙殺されている君がそんな風に思うのは意外だ。」

「昔、ハムスターを二度飼っていたことがある。名前は一匹目が○○、それが死んでから二年後に飼い始めた二匹目が△△だった。」

「知っているさ。」

「それはどちらもまだ幼い頃の話だった。当時の僕は幼いながらに、ほんの二、三年檻に閉じ込められた果てに子孫も残せず死んでしまうハムスターのことを、いささか惨めだと感じていた。」

「今は違う感想を抱いているのか?」

「いや、ほとんど同じだ。ただ一点、ハムスターはそんな高尚なことを考える脳味噌を持ち合わせていないという冷静な認識を除いてだ。」

「まさかハムスターの退屈な一生を憐れんでいるのかい?」

「そうだ。彼らはまさに嫌になるほど退屈だったに違いない。世話下手な僕に飼われて可哀想だとも思う。」

「確かに君と僕は命を飼うにはあまりにも幼稚な性格だ。きっと彼ら二匹は天国で君のことを呪っているだろう。」

「命の重さを教えてくれた彼らには感謝しかない。僕はハムスターを飼っていなければ、今頃さぞや淡白な人間に育っていたことだろう。」

 部屋は今朝から相変わらず無音である。なぜなら声を発しない僕以外誰もいないからである。そう気づいた僕はなんだか途轍もなく申し訳ない気持ちに襲われ、反射的に手を合わせ、祈った。指先がチクリと痛んだ気がした。


 なかなか部屋が片付かないことに次第に苛つき始めている自分がいた。

「物が多くて片付かないなら、捨ててしまうのはどうだろうか。」

 どちらから提案したのかは分からないが、僕は同意した。そうと決まれば僕は、部屋に置いてあるゴミ共はすべて処分してしまうべきだ、何故まだこんな量のゴミを貯め込んでいるのか、さっさと全て消してしまいたい、そのようなことばかり考えていた。

 まずは生きていく上で不要なコレクションを全て捨てる。フィギュア、バッグ、CD、うちわ、本など、趣味で集めた無機物をまとめてゴミ袋にしまい込む。すると、不思議なことに、部屋の一部がぽっかりと穴を空けた様に綺麗になった。

 僕は鳥肌が立った。なので、次は部屋に吊ってあるスーツやアウターなどの衣類をまとめてゴミ袋に放り込んだ。空中のスペースを占拠しているこいつらに腹が立ったからである。やはりそれらが無くなることでまた部屋がより空虚になり、形容しがたい感動を得ることができた。

 次はパソコンのモニターと本体を捨ててしまえ。これがそもそも僕の人格をゆがめた主犯ではないか。そう意を決し、この粗大ゴミを家の下の捨て場まで持って行った。

 ぞわぞわぞわぞわ。

 本棚も邪魔だ。中に入っている本連中はもっと邪魔だ。捨ててしまえ。捨ててしまえ。

 ぞわぞわぞわぞわ。

 ああ、このテーブルが僕の行く手を阻んでいる、なんと腹立たしいことか! 捨ててしまえ。ええい、捨ててしまえ。

 ぞわぞわぞわぞわ。

 よくよく考えれば部屋の半分をも我が物顔で占領しているこのベッドは一体何様のつもりか。この部屋でこいつと同居していると思うだけで胃酸が逆流してきそうだ。捨ててしまえ。捨ててしまえ。

 ぞわぞわぞわぞわ。

 続いて目に入ったのは箪笥である。こんな唐変木、僕の足の小指を痛めつける以上に仕事をしたこともないくせに! 畜生、捨ててしまえ。捨ててしまえ。

 ぞわぞわぞわぞわ。


 疲れて僕は床にあぐらで座り込んだ。ここまでほんの半時間で「片付け」た。

 そこでふと、僕が座っている床に敷かれているのが、巷でカーペットと呼ばれているゴミであることに気づき、大慌てで尻を払ってから、丸めて捨ててしまった。

「もう部屋は綺麗に片付いたね。」

 友人が僕に極めて優しく語り掛ける。だが、むしゃくしゃしていた僕にとってその声は、頭上を徘徊するハエの気色悪い羽音か、道路をジリジリと震動させる自動車の騒音に聞こえて仕方がない。

「うるさいから少し黙っていろ。片付けの邪魔になる。」

「そうとはいえども、すでに部屋には何も残っていないじゃないか。少しやりすぎたかもしれない。」

 この阿呆は何を言っているのだ。部屋には、まだ雑音を発するお前が残っているじゃないか。そう気づいた僕は、口も利かずに彼を持ち上げ、外の粗大ゴミ捨て場に投げ捨ててしまった。

 僕の部屋からは一切が排除され、つまり僕は最上の無音を手に入れた。そう、この無音こそが僕が永らく欲していた正にそれなのだ。

 最後に部屋に残ったのは、最初に捨てられるべきだった僕のみである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ