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告解的短編集  作者: やま
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未題物語

「ではみなさんは、このような眩しく輝く星々には一体どんな結末が待っているのか、誰か分かる人はいますか。」と、優しげな顔のおじさんが問う。結露のできた窓には何も映らない。

 僕は咄嗟に、幼稚園児の頃によく眺めた、「学研の図鑑・星・星座」のことを覚えた。あの図鑑にも確かその答が書いてあったはずだ。高貴なエメラルドグリーンや藤の花の紫や給食エプロンのような白などを濃淡さまざまに組み合わせたあの宇宙の写真は、綺麗というよりも、当時の僕に、奇妙という感想を抱かせていたに違いない。実際今の僕がそれを見て同様に感じたとしても、何もおかしくはない。

 静かに僕が手を挙げると、先生は僕を名指しした。

「死を迎える星は、ガスを周囲に放出して白色矮星になるか、質量が巨大な星の場合は、中性子星になったりブラックホールを作ったりします。」

「その通りです。特に太陽の三倍以上もの質量をもった星々は、最終的にブラックホールとなります。その重力はまさに途轍もなく莫大で、想像もできないことでしょう。」

 太陽の大きさは地球の百倍以上なのに、それすらも凌ぐ星が本当にあるのか、いや、あるに決まっている。だからこそ宇宙は宇宙たり得るのだ。

 宇宙というものは本当に大きい。その嘘みたいな大きさに僕らが押しつぶされそうなほどだ。よしんば押しつぶされるにしても、相手が巨大すぎるために押しつぶされたことに気づかない可能性だってあるかもしれない。

 先生は一つ鼻をすすってから話を続ける。

「実は銀河というものは、そういった大きな星々が幾千の点の集合のようになってできて、──そんな銀河でさえ、地球からは点にしか見えないほど、宇宙は広大なフィールドなのです。何となれば、私たちの棲む銀河系内にも、案外宇宙人は存在しているのかもしれませんね。」かっかっかっ。

 もしこの唯一無二とも言える宇宙が、僕らの想像の範囲内の大きさに押し留まっていたならば、人類はこれほど宇宙へlongーforしていなかったことだろう。呆れるほどに広い宇宙であるからこそ、人類はガリレオや彼以前の人たちの頃から、果てなく渇望しているのだ。僕もその一人なのだ。人類なのだ。

 やっぱり広くない宇宙には誰も興味はない。幼すぎた当時の僕も、あるいはそう考えながら図鑑の写真たちを眺めていたのだろうか。


 一通り講義が終われば、僕は学内の図書館へと走った。

 木の葉が只揺れる映像を、それを横切る瞬間に一瞥しただけなのに、脳内で何度もループ再生してしまう僕の頭はもうおかしくなってしまったのかもしれない。とにかく雷で体幹を貫かれたかのような錯覚だった。走って走ってようやく、その教会もどきの格好をした施設へと入る。

 もの静かな図書館の埃的な空気は、僕に、むしろ焦燥感を抱かせていた。こんなに広い図書館なのに、誰の姿も見えない。無音なのに、僕の荒い呼吸音だけは嫌に響く。地球上なのに、僕だけが宇宙空間に漂い始める。僕の歩く時の乾いた音は、本たちによって一秒足らずで吸収されて、代わりに埃交じりの自然光を与える。

 今はもしかして閉館中ではないだろうか。じゃあどうして施錠されていないのか。もしや、僕は陳腐なトラップに間抜けにも引っ掛かった哀れなネズミと同じなのではと逡巡さえする。

 古風なここの図書館には、暖房器具の類は一切ない。不便といえばそれまでだが、僕はこちらの方が落ち着く。ただし、今だけは逆だった。何故かひたすら焦っている僕がいる。

「何かお探しですか。心が焦っていては、本は応えてくれませんよ。」    

 優美な声が僕を引き留めた。

「本は応えてくれないのですか。」

「はい。」

 僕は数度深呼吸をして、努めて落ち着いて尋ねた。

「『学研の図鑑・星・星座』という本は、ここに置いてありますか。」

 あるはずもない。あれは子供向けの図鑑の中でも、特に幼児向けだからだった。

「そのような図鑑は多分ありません。でも、似たような本なら、こちらへ。」

 今、その人が女性であることに気づいた。

 ベージュのエプロンを傷ませ、袖を肘まで捲り上げたこの若年女性は、最早女を捨てているのか、と失礼ながら思う。しかし、静かなその目は、確かに僕の思考をその人に釘付けにしていた。僕は彼女に魅せられていたのだろう。

 司書の後ろを付いて歩いている内に、先ほどまでの焦りとか恐怖などは失せていた。司書という道標を得、闇雲に「何か」を追う必要がなくなったためだ。

 風が右から、開いた窓を通り抜けて、僕と彼女の間を走り去る。彼女の後ろ髪がそれにつられて僅かに踊り、彼女が窓の方へ首を向け、それからまた風が来た。肌寒く、実に不愉快だった。司書も一言「寒い」と呟いた気がした。

 果たして司書は一冊の文庫本、「かもめのジョナサン」を僕に薦めてきた。

「今、どうしてって思いましたよね。」

 僕は彼女の問いに首肯する。

 再びあの無音に襲われ、ばつが悪くなり、そして去りたくなった僕に、彼女は微笑をくれる。

「本は時たま関係のない所から口を挿んできて、人に小さなしこりを残していくものですよ。」

 つまり、学識と知見と常識とを養うべきだということなのか。僕はいささか腹が立った。黙してその本を受け取る。寓話本ということもあってか、この本には威嚇的な厚みがない。

「いつまでに返せば良いのですか。」

「借りた日から一か月以内にご返却ください。」

 手元の本に目を落とす。

「あの、今、読んでみても?」

「どうぞ。」

 ページを捲る度に、まるで一文字一文字が僕の目に勢いよく入り込んでくるようだった。その文章は覚醒剤みたいに僕の脳味噌をぐわんと揺さぶり、バチバチと網膜ごと焼き払おうとする。僕は危険を感じて、目線を一気に上げる。

 目の前にいた女性は相変わらず優しく微笑む。僕はどうもこの幽霊的透明さと儚さを持つ彼女に一目惚れしているらしい。

 その後、貸出手続きを済ませて退館しようとする僕の背中に言葉が投げられた。

「また、いらしてくださいね。」

 嫌でもこの一月以内にまた来なければならないというのに、何とも不思議な人であった。


 数日後の夜中、午前三時を過ぎた頃、僕は六畳一間にて「かもめのジョナサン」を黙読していた。ジョナサン・リヴィングストンに対しては全く共感や感動などなかったが、眠気もまた一切来なかった。彼の守りたかったプライドと自由など、僕にはまるでどうでもよかったのであるというのに。

 深夜特有の無音が心を隅々まで浄化し、僕はもう、このときばかりは宇宙を支配したかのような気分となっていた。僕という名の思考プログラムがこの小さな世界をあっという間に丸呑みしてしまい、今ならきっと宇宙の終わりまで見通せるはずだ。――なるほど、チャン長老が語っていた「思った瞬間にそこに飛んでいくためには、まず、自分はすでにもうそこに到達しているということを思い知らねばならない」という教えは、このことだったのか。そう理解した途端、本を勧めてきた女性にかすかな恐怖を覚える。

 宇宙は広い。このことはいつも感じることだ。それは宇宙が生まれたときにできた、最初にして最大の真理かもしれない。その中で塩粒のように輝く星々の全てが、宇宙の広さをよりスケールの大きなものとするために、あるいは宇宙に表情を与えるアクセサリーとして、ぽつりぽつりと浮かんでいる。これもまた、宇宙が存在する程度には当然だが、やはりとても奇跡のように感じてしまう。

 もしこの宇宙がとある遊び盛りの子供のおもちゃ箱の中身だったらどうだろうか。そして次に子供がおもちゃ箱を開くことで、星々に浮力がまったく働かなくなってしまい、そのまま全部が落っこちてしまうとしたらどうだろうか。

 そう考えると、今僕が生きていることがとてつもなく恐ろしく感じる。崩壊は死よりも恐ろしいのだ。僕が死んだ後の僕自身のことは何も思い浮かばないが、宇宙が崩れ去るのは実にありありと想像できて、それゆえに泣き叫びたくなる。

 僕は文庫本を閉じた。分厚く重たい本のように温かい音は響かない。寂しくなってもう一度本を閉じなおすが、やはり同じだ。そこでようやく、僕はジョナサンのようにはなれないのだと悟った。


「本を返却しに来たのですが。」

 本当はまだ読み終えていない。しかしそれを伝えるには僕の勇気が足りない。

「どうぞ、では、こちらへ。」またあの憎らしい表情を携えている。

「どうでしたか。」

「ええ、読む価値はありました。」嘘ではない。

「そうですか。」

 この時、僕ははっきり言って挙動不審だったに違いない。宇宙を統べる人間様がこのようではいったい何の示しがつくというのだ。そう意を決し、僕は口を開く。

「今夜星を観ませんか。流星群は来ていませんが、今晩は何となくよく観られる気がするのです。」

「星、ですか。」

 彼女はため息をつくように呟いた。そういえばまだ名前も知らないのである。

「ではご一緒させてください。」

「予定はないのですか。」

 天邪鬼のように僕は尋ねてしまう。これは昔から変わらない僕の性格だ。

「そうですね。毎晩することなど、高が知れていますので。」

 僕は思わず女性を見る。目が合う。にっこりと笑い、カウンターから出てくる。

「ところで、次は何を読んでいただきましょうか。」

 そこで僕はにわかに気づいた。この司書は本の繋がりだけを求めているのだ。

 僕は少し落胆して大きく息を吐いた。その吐息は白く、つまりこの図書館は相変わらず寒々しい。


 僕は待ち合わせの一時間も前から大学校舎の屋上に上り、天体観測の準備に没頭していた。

 三脚を組み立て、望遠レンズを取り付け、しかし三本の足のバランスが上手く取れない。仕方ないので三脚を分解し、望遠鏡を分解し、パーツを全部ケースにしまう。そしてもう一度、最初から組み立て始める。

 何かを組み立てるという行為は、まさに「創造」だ。神がこの宇宙を創造した時も、あるいは僕のように幾度か失敗をしたのだろう。そうでなければ、宇宙ほどに法則の調和が完全に取れたものなど、作りようもない。

 大小さまざまな星を、決まった位置に、一個ずつそっと置いていく。精密な作業が求められるので、決して横着のあまり二個以上同時に動かしてはいけない。それでも寸分のミスによって重力のバランスが崩壊し、たちまち宇宙の星々はその周期的な運動を狂わせてしまう。そうなればもはや宇宙創造は失敗、最初からやり直しなのだ。

 星の位置が決まっているならば、それらを並べる順番まで当然決まっていることだろう。位置がずれても順番を違えても最初からである。失敗作の宇宙たちは袋にまとめてゴミ捨て場に持っていかれ、毎週月曜日にはゴミ収集車へ投げ込まれることだろう。

 そんな気の遠くなる工程の末に今の宇宙があるとすれば、今この瞬間に宇宙への思いを馳せることができるのも、実に泣きたくなるほどに奇跡だ。

 ふと夜空を仰ぐが、どうもこの天気では星はおろか月まで満足に見えそうもない。全く僕の予想通りだ。

「今日は観られそうにありませんね。どうしたものでしょう。」

 司書はすでにそこにいた。数刻前の僕と同じく、ただ空を見上げている。

「あなたは本当に不思議な人です。僕が今生で一度たりとも人の気配に気づかなかったことなどないというのに。」

「だって、○○さんたら、ずっと装置の組み立てに集中してらっしゃったじゃない。」

「確かに、この雲の様子では今日は中止ということになりますね。」

 分厚く不気味な雲は近々降り始めようとその動きを速めていた。暗い中では判りづらいが、彼女も寒さに身を震わせているようだった。僕は耐えかねて、彼女に提案する。

「寒いですから、屋内に入りましょう。恐らく、いえ多分、雨雲も来ています。」

「ええ、そうしましょう。」

 構内に入ってすぐ、僕たちは階段に腰かけた。僕は彼女よりも二段上に座った。

「○○さんは本当に星がお好きなのですね。私はいつも部屋の中で本ばかり読んでいるせいか、寒さに弱くて――」

「けれど、あの図書館も大して変わらないでしょう。」

「本は、私を温めてくれるんです。」

 屋上に出る背後のドアから、隙間風とともに雨音も入ってきた。今後さらに冷えるだろう。

 彼女は自分の指ばかり擦り合わせて、熱心に僕を非難していた。

「冷え性にはほうじ茶がよく効くと聞いたことがあります。今度試してみてください。」

「ほうじ茶、ですか。はい、心得ておきます。」ふふふっ。

 何度目かの静寂が僕の背筋をチクリと刺す。暴力を彷彿とさせる雨音がその静寂をより際立たせ、僕を狂気に駆り立てようとする。ザーザーという無音が僕の鼓膜をひたすらに虐めるのだ。ああ、もし降る雨が全てほうじ茶であったらどれだけ気が楽だったことか!

 やれやれ、こうなる事が分かっていたなら、僕は望遠鏡などという苛立たしい木偶の坊はすぐさま自宅の窓から投げ捨てて、その代わりに千リットルのほうじ茶の入った大樽を彼女のために用意することもできたであろうに。どうしてあの時未来が見通せる不思議なメガネを買っておかなかったのか! たったの金五億円程度、ここで彼女に緩やかに絞め殺されるくらいなら、喜んでドブに捨てられるというのに!

 いいや、いっそのこと僕が風神雷神か何かであったらもっと良かったかもしれない。そうすれば今すぐこの雨雲畜生共を全て吹き飛ばせて、これですぐに天体観測を再開できる。しめしめ、これで彼女は悪徳な私に騙されてしまったのだと勘違いすることもなくなるどころか、私のことを、雨風を司ることのできる程度にやむごとなき者であるのだと、見事惚れてくれるかもしれない。うむ、これが一番の解決法だ。

 皆目意味も無い、この場に似つかわしくない妄想が早送りの映画のように僕の脳内イメージを次から次へと塗り替えていく。どうやら僕の精神はこの状況下において異常をきたしてしまっている。

「もしこの雨が全部ほうじ茶であったら、僕がそれを丸ごとかき集めて、それからあなたの冷え性を治してあげられましたが。」

「○○さんって、面白い人ですね。空からほうじ茶が降るはずもありませんのに。」

 完全に同意である。畢竟、僕は面白い人なのだ。

 この希薄な女性は生まれて初めてその微笑を崩したので、僕に完全降伏したらしい。

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