mission3 弟子、怪しまれる
腹立つ。腹立つ。腹立つ。
イリス・ザム・フォーバイトは憤慨していた。
場所は本校舎の入口を入ってすぐのところにあるトイレである。
個室の中で座り、すでに用は足したものの、依然動けずにいた。
その顔はよく熟れたトマトよりも赤くなり、まるで誰かから目を反らすように下を向いている。
「屈辱だわ……」
決闘に負けたならまだいい。
だが、まさかこんな形で敗北を喫するとは思わなかった。
今から戻って再戦を挑んだところで、同情と嘲笑を受けるだけだ。
イリスは知っている。
いや、これまで決闘で勝ってきたから知っているのだ。
敗北者が如何様な目に合うのかを。
不意にイリスの脳裏に苦い記憶が蘇る。
ハッと息を飲み、瞼を絞るように強く目をつむる。
しかし、浮かんできたのは目だった。
自分をじっと見つめる暗い瞳。
そこに嘲笑も罵倒も含まれていない。
あるのは、ただ冷然とした殺意にも似た何か。
まるで冷水で清めた剣を彷彿とさせる。
「たしか……。ブレイド、といったかしら……」
相対した男の全身像を想起する。
整えられた黒髪と、ひどく感情を廃した表情。
肩幅は力強く、痩せ型だが決して男らしさがないというわけではない。
むしろ服の下に、鉄の繊維でできたような筋肉を感じさせた。
思い出しただけで、怒りが湧水のように沸き上がってくる。
そしてさらに腹が立つことに、その男のことが忘れられない。
どんなに目を瞑っても瞼の裏に浮かんでくる。
あの瞳が……。
あんな目で見られるのは、初めてだった。
たいていイリスを見た人間は、恐れおののき、媚びへつらい、あるいは面罵し、あざけり笑うものがほとんどである。
それは貴族階級に身を置く者として当然だろう。
伯爵位こそ持つイリスだが、上にはまだ3つの爵位が控えている。
彼女自身が、人の下に敷かれることもままあることなのだ。
だが、ブレイドは違った。
ただ純粋に自分のことを見つめていた。
裏も表もなく、ただ戦う相手として向かい合っていた。
そして、自分も瞳を合わすたびに、身体が熱く……。
いや、何か支配されたい――そんな怪しげな感情がせり上がってくる。
「あああああああああああああ!!」
いきなりイリスは絶叫した。
煮え切った頭を個室のドアに叩きつける。
「な、なななななな何を考えているのよ、あたしは!! あいつは――――あいつは――――」
今度は敗戦の苦い思い出が蘇る。
怒りがこみ上げ、「腹が立つ!!」と憤激した。
「ブレイド! 覚えてなさいよおおおおおおおお!! はうぅ――――」
そしてイリスは、またしばらく個室から動くことができないのだった。
◆◆◆◆◆◆
「ん?」
不意に誰かに名前を呼ばれたような気がして、俺は顔を上げる。
周囲を窺ったが、誰かを特定することはできなかった。
入学早々の決闘イベントに熱狂していた観客たちは、その場を後にする。
準男爵である俺に労いの言葉も、称賛の声もない。
むしろ「空気を読めよ」とばかりに舌打ちし、入学式が行われる講堂へと向かった。
この反応は予想していたことだ。
特に期待していたわけでもないが、現金な連中だと1つ愚痴をこぼしたくもなる。
「ありがとう、ブレイドくん」
ポロフが駆け寄り、俺に握手を求めた。
まるで神様にでも出会ったかのように、目には涙を浮かべている。
「感謝されるようなことはしていない。自分に降りかかった火の粉を払っただけだ。感謝するなら、ラフィーナの方だろう」
「そ、そうだった。えっと……。ラフィーナさん、ありがとう」
ポロフは頭を下げた。
一方、ラフィーナと言えば、先ほどから難しい顔をしている。
顎に手を置き、何か考えごとをしていた。
「どうしたの、ラフィーナさん?」
ポロフが尋ねると、ラフィーナは意を決したとばかりに顔を上げる。
その表情は険しく、何か責め立てるような気配があった。
怒り顔でもその美貌は全く崩れることはない。
だが、感情の方向が俺に向けられたのであれば、穏やかではなかった。
「ブレイド……。君は何をやったんだ?」
「…………何も」
「嘘を言うな。イリスの反応は尋常ではなかった。君が何かしたとしか思えない」
「ほう……。具体的には?」
「たとえば……魔法…………とか」
「え? でも、ブレイドくんから魔力の増加を感じなかったよ」
ポロフが代わりに答える。
魔法を使う際、人間の中にある魔力回路を回して魔力を増幅させる。
貴族――つまり魔法を使えるものは、精度に差こそあれ、誰でも魔力の増幅を感知することができるのだ。
「では、催眠術ならどうだ?」
「さ、催眠術?」
ポロフは大げさに驚く。
俺も少し眉根を寄せた。
「そんな素振りを見せてなかったけどなあ、ブレイドくん」
「ああ。私にもそう見えた。だが、催眠術というのは、些細な動きで相手を惑わせることができる。例えば、瞬きだ」
「瞬き?」
ポロフは瞬きを繰り返す。
ラフィーナは説明を続けた。
「相手と目を合わせ、ある一定の間隔で瞼を動かすだけで、相手の深層意識を支配できるというものだ。詐欺師や暗殺者がよく使う手だな」
「随分と詳しいんだな」
「ああ……。暗殺には――――。あ、いやすまない。今のは忘れてくれ」
「君の出自に関わることか、ラフィーナ」
「さっきから気になっていたのだが、なんで呼び捨てなんだ、ブレイド?」
「君だって、俺を呼び捨てているじゃないか」
「それはまあ――――なんとなく……」
ラフィーナは顔を赤くする。
どうやら無意識だったらしい。
成功だ。
ラフィーナに対して、馴れ馴れしくしたのは、わざとである。
彼女に近づくために呼び捨てで呼び、その意識を俺に向けさせた。
急に馴れ馴れしくされると警戒するのが人の常だが、同じ準男爵という身の上と危機的状況は人の心のガードを下げる。
むしろ連帯意識が強まり、心の距離が縮まる。
彼女が俺を『ブレイド』と呼び捨てしたのは、親愛の証といえるだろう。
これでひとまず謎の少女とのパイプができたと考えていい。
だが、ここからもう一押しする必要性がある。
「……まあ、代わりといってはなんだが、先ほどの種明かしをしよう」
「やはり何かしたのか!?」
ラフィーナは1歩前に出て、俺を詰問する。
興奮する少女を余所に、俺は涼しげに答えた。
「ラフィーナの推察はあながち間違っていない。俺は目でイリスを殺したのだ」
「え? それって、彼女を目で口説き落としたとか?」
ポロフも多感な15歳男子のようだ。
もうちょっと詳しく、とばかりに食いついた。
正確に言えば、ラフィーナより前に出て、質問したのだ。
「落ち着けよ、ポロフ。あらかじめ言っておくが、催眠術の類ではない。それよりももっと業の深いものだ」
「業の深い?」
「俺の目は【邪眼】なんだよ」
「「【邪眼】!!」」
ラフィーナとポロフは声を揃えた。
普通魔法というのは――遺伝的に持ち得た――魔力回路を励起して体外に放出するのに対して、【邪眼】は常に魔法を放出し続ける厄介な先天性魔法症のことである。
たいていの場合、特殊な魔法式が組まれており、『呪いの子』と蔑む貴族も少なくなかった。
「俺の【邪眼】は比較的効果が弱いから、魔力遮断加工された眼鏡はしていない。とても高価な代物だし、人と長時間目を合わせなければ問題なく日常を過ごせる。ただ時折、俺の魔力に強く反応するものがいる」
「それがイリスだったと……?」
「そう言うことだ。彼女には少し悪いことをしたかもしれんな」
俺がそう言うと、真っ先に反論したのはポロフだった。
「気にすることはないよ。君のその力が、ぼくたちを助けてくれた。改めて感謝するよ、ブレイドくん」
「ブレイドでいい。同じ準男爵同士、仲良くしよう、ポロフ」
「うん。よろしくね、ブレイド。ラフィーナさんも、どうかな?」
「私でよければ……。是非ラフィーナと呼んでくれ」
ポロフが手を出し、その上に俺が手を載せる。
最後にラフィーナが蓋をした。
随分と熱い。
体調でも悪いのだろうか。
それとも照れているのだろうか。
顔を上げると、ラフィーナが慌てて目を反らしていた。
まだ俺を信用していないというよりは、向こうも量りかねているようだ。
手を重ねると、ポロフは高らかに宣言した。
「うん。準男爵同盟結成だね。お互い生まれた地は違えども――――」
「なんだ、それは?」
ラフィーナが眉根を寄せる。
「知らない? 山国武戯っていう史実を英雄譚風にアレンジしたお話の名シーンだよ」
「ポロフ、それ言うなら生まれた年は違えどもじゃないのか?」
俺は肩を竦めると、ポロフはむぅと頬を膨らませる。
「だって、ぼくたちみんなここにいるってことは15歳でしょう。だから、生まれた地なんだよ」
まあ、その言い換えはともかく、その準男爵同盟というネーミングセンスは、どうかと思うがな。
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