mission14 弟子、思い出の味を再現する
「アノゥ……? 準男爵かい、あんた」
ロヴィアナはブレイドと名乗った準男爵の学生を睨む。
彼女の瞳は落ちぶれた後になっても、世話回りにやってきた学生を震え上がらすほどには鋭い――という自信はあった。
詰んできた経験の差もあるが、伊達に50年近く公爵夫人をしていたわけではない。世間では没落貴族などと呼ばれていて、それはロヴィアナもその通りとは思うが、まだ自分が死んだとは思っていなかった。
しかし、どうだ――。
このブレイドという学生は身じろぎすらしない。
真っ直ぐにロヴィアナの視線を受け止め、そのままの速度で返してくる。
動揺する素振りすら見せず、いっそ腹立たしく思うほどだ。
本当に元平民なのか、と疑いをかけたくもなる。
ロヴィアナは値踏みをしていると、ブレイドは恭しく頭を下げた。
「はい。グレメン様は体調が優れないため、私が代役として参りました」
「体調……ね。まあ、それはいい……。それよりもウィスキーを用意しな」
「すでにご用意させていただいております」
ロヴィアナは乱れた寝間着を整える。
ベッドから立つと、ブレイドはそっと後ろからカーディガンを羽織らせた。
ちょっとした動作であるが、手慣れているのがまた小憎たらしい。
ブレイドは部屋の一区画を手で示し、案内する。
燦々と降り注ぐ陽光の下に、品の良い丸テーブルと椅子が配置されていた。
テーブルの上には、ポットと珈琲カップが置かれている。
当然、ロヴィアナは眉を顰めた。
「あんたはウィスキーを珈琲カップで飲ませる気かい?」
「ご心配なく。これはウィスキー……のようなものです」
ますますわからない。
他の者が同じ事すれば、ロヴィアナはすぐ手を上げただろう。
しかし、文句を言う前に、ブレイドはカップに注ぎ始めた。
それがまた何とも言えない色をしている。
珈琲にしては薄く。
ウィスキーにしては濃い。
微妙な色合いであった。
「うん……?」
ロヴィアナは思わず鼻を動かした。
漂ってきた香りに、思わず首を捻る。
微かに果物のような香りがした。
それはウィスキーの繊細でいて、複雑な香りとよく似ている。
本当に珈琲カップにウィスキーを注いだのか。
頭の中で不思議な疑念が回り始める。
ぼんやりとしながら、不作法な学生を戒めることなく、勧められた席に腰掛けてしまった。
カップの取っ手に指をかける。
まずは香りを味わった。
ふわりとウィスキーに似た香りが、鼻腔を突き抜けていく。
ロヴィアナは思わずうっとりと頬を緩めてしまった。
砂糖もミルクも入れずに、そのまま口を付ける。
舌の上で転がした後、ロヴィアナは口からカップを離して、唸った。
「ウィスキーだ……」
それは当然の感想であろう。
ウィスキーを望んだのは、ロヴィアナ本人である。
世話係のブレイドが主人の望みを叶えたにすぎない。
だが、事はそう単純なものではない。
独特で芳醇な風味。
柔らかな口当たりと、若干のスパイシーさ。
その味は間違いなくウィスキーの味に該当する。
だが不思議なことに喉に残る微かな酸味と苦みは、珈琲なのだ。
「あんた、まさか珈琲とウィスキーを混ぜたんじゃないだろうね」
そういう酒の飲み方があることは、ロヴィアナも知っている。
だが、彼女はすでに黴が生えるほどに古い人間である。
いくらおいしいと言っても、個々の素材を台無しにするような飲み方など、許せるはずもない。
ロヴィアナはこの時本気で怒っていた。
対するブレイドの反応はあくまで涼やかだ。
「そんな無粋なことは致しません」
「じゃあ、これは一体?」
「珈琲にございます」
しれっとブレイドは白状する。
主がウィスキーを所望したのにだ。
だが、飲んだ後では怒る気にもなれない。
すでにロヴィアナは一口、二口と口を付けていた。
芳醇な香りがたまらなく愛しい。
恋人とキスするように夢中になった。
温度もちょうど良い。
熱々でもなければ、キンと頭に来るほど冷たくもない。
程良い加減の温度の珈琲は、酒で荒れた胃と喉を癒してくれた。
「何故、珈琲がウィスキーのような味がするんだい」
カップの半ばほどまで飲んだ後、ロヴィアナは質問した。
「それは豆本来の味です」
「豆の味? どこの豆だい?」
「イシリア産の豆を使っております」
「……やはりそうか」
「ご存じでしたか?」
「あんたはあたしを驚かせたかったんだろうが……。白状するとね。昔これと似た味の珈琲を飲んだことがあるのさ」
ロヴィアナはカップの中の珈琲を軽く揺らす。
波だった波紋を見ながら、昔のことを思い出していた。
イシリアという場所は、ロヴィアナが生まれ育った領地の名前だ。
イシリア男爵領は王都から遠い僻地にあり、だだっ広い平原が広がるだけだった。
その中で領地の収入源となっていたのが、珈琲豆の栽培である。
これが当たり、イシリア男爵家は巨万の富を生み出した。
その威勢を駆ってロヴィアナは、公爵家が主催する社交界でデビューを果たし、甲斐あって見事公爵の息子を射止めることとなる。
「父もあたしも領地のために必死だったから、公爵家に嫁ぐことに何の躊躇いもなかったよ。けれど、あたしにだって想い人ぐらいはいてね」
変わった男だった。
そして変わった珈琲を入れる男だった。
会う度にイシリア産の珈琲豆を使って、様々な味の珈琲を出し、ロヴィアナを楽しませてくれた。
「公爵夫人になってからは疎遠になった。手紙も送らなかったよ。旦那が密かに検閲していることを知っていたからね。それを見て、すっぱり諦めることにした。だけどね。あの珈琲の味だけは忘れられなかった」
ロヴィアナはイシリア産の珈琲を取り寄せ、使用人に入れさせたが、男が入れた珈琲の味にはならなかった。
「せめて作り方だけでも聞いておけばよかったよ」
ロヴィアナは珈琲を眺めながら、苦い思い出を吐露する。
一方で、ブレイドが入れてくれた珈琲は、ロヴィアナにとっては思い出の――いや、青春の味であった。
「いかがでしたか?」
「おいしかったよ、ブレイド。とても繊細で、まろやかでいて、ほんのり苦めで……。ここ10年で最高の珈琲だった」
「それはようございました」
ブレイドは恭しく頭を下げる。
空になったカップを、少し名残惜しそうに見つめた後、ロヴィアナは顔を上げた。
「教えておくれ。この珈琲の作り方を……」
「焙煎の違いです」
「焙煎?」
「ザイン帝国では豆が黒くなるほど焙煎します。しかし、こちらの豆はさほど焙煎しておりません。ですから、酸味や苦みは抑えられ、一方で豆本来の味を楽しむことができるのです」
ロヴィアナは軽くショックを受ける。
たかが焙煎の仕方だけで、こんなに味が変わるとは夢にも思わなかったのだ。
珈琲豆の産地の子女であるというのに、自分の領地で採れた豆本来の味すら知らなかったのである。
「なるほど。あたしの目は最初から曇っていたわけだ」
公爵夫人という地位を手に入れたこと。
マージュ家に手を貸したこと。
それらを後悔したことはない。
自分で考え抜き、選んだことだからだ。
それでも、こうしておけば良かったと思わない日はない。
あの時、あの男の方を選択しておけば、違った人生を味わえたかもしれない。
普段は地味なのに、ここぞと言う時に鮮やかで、華やかに人を魅了し、掴みどころがなく、目の前にいるのにずっと遠くにいるような広い懐を持つ男だった。
ロヴィアナはぼんやりと窓外を眺める。
強い日差しと広い空に、微かに虹が浮かんでいた。
そうだ。まるで虹を掴むような男だった。
まるで目の前にいる学生のような……。
「名前は……確か――――」
「コウ・ディシュレン……」
「あんた……。何故、その名前を……?」
ロヴィアナの瞳が驚きと共に、大きく見開かれる。
ブレイドはそっと胸に手を置き、告白した。
「私にその珈琲の入れ方を教えてくれた師匠の名前です」
久しぶりに総合ランキングに戻って来ることができました!
ブクマ、評価いただきありがとうございます!
感謝の更新です。




