上司
あまりのことに、声が出ない。
声は、声帯は、どこへ行った?
二、三度唾を飲み込んで、やっとの思いで口を開いた。
「いえ、あの、ただの『惟光』で良いです。くん付けされると、変な感じだ」
ったく。気の利いたことの言えない自分が恨めしい。俺のバカ。
「じゃあ、惟光。この人が私の最強のブレインだ」
光は美しい人を抱きしめながら薄く笑った。
「お名前は?」
恐る恐る訊く。
この子が、俺の上司になるのだ。それが現実だった。
怪獣が小声で答えた。
「ここでは、『紫』って呼ばれてる。紫の部屋にいるから……」
美しい少年だった。
この少年にあの時の薄紫のセーターを着せて、ここに立たせたら、さぞかし絵になるだろう。
大体、光と並んで見劣りしないってのが、すごい。
いや、むしろ、光よりこの子の方が輝いて見える。
常識では考えられないことだった。
ここで、我に返った。
光は、俺の仕事はこの少年のお守りだと言っていた。
変わった人。確かに変わった人だった。
信じられない美しさなのに、緑色の怪獣の着ぐるみを着て、必死にゲームをしている。
やっぱり、紙一重だろうか?
「君がご飯を食べないのは、私に不満があるときだ。
約束どおり、惟光くんを紹介した。
だから、ちゃんと食べるんだ。私の目の前で。
良いね?」
少年が、恨めしそうに光を見上げる。
「ここんとこ放ったらかしだった。
だから、商店街の観察も、勝手に動いたんだろ?」
「……面白かったんだ。本来の目的とは別に」
「私としては、本来の目的を忘れて欲しくなかった」
「忘れてなんかいない。
六人に要請したのに、指示どおり観察に出向いたのは五人。うち一人は二時間ほどで観察をやめたし、三人は、ボクの指示に従えないタイプだった。
本来の目的だった人物審査のため、ボクは意味のある仕事をしたんだ」
光が溜息をついて、少年を見つめた。
「時間のかけすぎだって?……それは、もう謝ったんだ。蒸し返さないでよ……」
少年は、上目遣いで見上げて、誤魔化すように胸のボタンをもてあそぶ。
「午前中で終わるよう指示したはずだ。
本来なら、君を屋敷から出したくない。そのために人を雇うことにしたんだ。
それなのに、採用試験を口実に勝手なことをした。
忠告しておく。
今後、これ以上勝手なことをしたら、二度と弁慶さんに会えなくしてやる」
「意地悪……」
グスンと涙ぐんだ少年の肩を抱きながら、部屋中央のテーブルに導く。
光は、少年の相手をしながら、俺に声を掛けた。
「君の部屋は用意してある。詳しいことは、執事の松嶋に聞いてくれ。
それと……この人の存在は、秘密だ」
それが合図だったのだろうか。
ゲームをセーブし終えた執事が、部屋を出るよう促した。
光が料理の蓋を開けて少年に勧めているのが、目の端に見えた。一つ一つ切り分けて、少年の口に運ぶ。
「ニンジン、嫌」
「好き嫌い言ってないで、全部食べるんだ。
そんなんだから、病気になるんだ。
私がどんなに心配してるか、分かってる?」
「だって、おいしくないんだもん」
「わがまま言う口には、ニンジン突っ込むぞ」
「それって、虐待だ」
美しい部屋で、ハンサムな光が、天使のような少年にニンジンを食べさせていた。
毒々しい若草色の着ぐるみが、妙に目立っていた。
この規格外の少年が、惟光氏の上司になります。
大丈夫でしょうか?がんばれ、惟光!