第三話 アグア氏の屋敷
夕刻、カセリア氏は郊外に足を運んでいた。アグア氏の屋敷に行くためであった。ふつうは歩いて行くのをお勧めできるような距離ではないが、彼は歩いてきた。昼過ぎに出発し、かれこれ数時間の歩き旅である。もっとも歩きながらのその時間で短編一本くらいのアイデアをまとめていた。
アグア氏の屋敷の正面まで来たが、ちらりと横目で見ただけでそのまま通り過ぎた。カセリア氏は何度か訪れているが正面から入ったのは最初の一度だけだった。なにせ資産家の屋敷である。正面から入ったらアグア氏の書斎までかなり歩くことになるのだ。それを面倒に思っていたのだ。カセリア氏ならではの屋敷までの数時間は難なく歩く割には変わった考えである。いずれにせよ、一部の人たちの間では、変わり者と呼ばれていることを思えば些細なことであった。
敷地を区画するための塀に沿ってしばらく進むとと使用人なんかが出入りする勝手口がみえた。そこををくぐり、馬屋の横を通り抜け、庭を一直線に進むとアグア氏の書斎に到着となる。あたりはすっかり暗くなっていたが、部屋からは明かりが漏れていた。そばまで来たカセリア氏は窓を軽くノックした。
「アグアよ。私だ」
少しの間があって窓が開いた。顔をのぞかせたのはもちろんアグア氏であった。
「カセリア君、また裏口から入ってきたのかい?」ややあきれたような口調だった。
「ちょっと書庫に用があってね」
書庫は書斎の隣の部屋だった。もっとも、部屋自体はふつうのものと変わりないが、小さい机がある以外は、大量の棚を据え付けていてた。この一室はカセリア氏がアグア氏から借りているもので、自身が集めた書籍や美術品といったコレクションを保管するためだった。特に本に関しては小説はもちろん歴史書や偉人伝など多くのジャンルに渡っていた。時折、それらから執筆の参考にするためにこうして屋敷を訪れているのだった。
「それと来る途中にアイデアを一つ思いついた。一晩部屋で執筆させてもらうよ」
「まあ、それは構わないけどさ」
「とりあえず部屋に入ってもいいかな?」
「いいけど…」
カセリア氏はよいしょと窓枠によじ登って文字通り部屋に転がり込んだ。
「やれやれ、もっと入りやすいとこはないのか」ブツブツと言うカセリア氏に対してアグア氏は「じゃあ、玄関からどうぞ」と、つっけんどんに答えた。
「面白いジョークだな」カセリア氏は笑いながらその言葉を受け取った。「それに玄関から入り組んだ間取りの屋敷内を歩いてくるよりこっちの方が楽だ」それからアグア氏に勧められるより先にテーブル横の椅子に座って一息ついた。
「別に、屋敷内なら執事に案内させるからさ」
「まあ、あれだな、ちょっとしたスリルを求めるというものだよ」
「とりあえず何か飲み物でも用意させるよ」アグア氏がそう言って執事を呼ぼうとした時だった。
「旦那様、コーヒーをお持ちしました。それと紅茶とビスケットもです」
小柄で背筋のまっすぐな初老の執事が一式の乗った盆を抱えて部屋に訪れた。
「気が利くね。ちょうど今、呼ぼうとしてたんだ」
「勝手口からお客様が入るのが見えました。もしかしたらと思いましたので」
カセリア氏には「お客様」のところが妙に嫌味っぽく聞こえた。
「申し訳ない、夕刻に突然お邪魔して」カセリア氏は形だけすまなさそうに言った。
「とんでもございません。おもてなしも私の仕事の一つですので」
「素晴らしい仕事人だ」
カセリア氏が感心している間にも、執事は盆にのせてあったものをテーブルの上に並べて置いた。
「また御用の時はお申し付けください」そう言って執事は部屋を後にした。
それから二人は各々飲み物に手を付けた。アグア氏はミルクも砂糖も無しでコーヒーを飲んだ。
「まあ、よくもコーヒーなんてものが飲めるね」カセリア氏は紅茶に砂糖を入れながら言った。
「カセリア君はコーヒーは嫌いなのかい?」
「まあ、あんな焼いた豆でつくった出汁なんて誰が飲むんだい?苦いし、大陸南部の文化だ」
その言葉にアグア氏は飲んでいるコーヒー吹き出しそうになった。
「焼いた豆の出汁ね」アグア氏は笑った。「たしかに、そんな言われ方したら飲む気は失せるかもしれないね」
「まあ、紅茶のほうも茶葉を腐らせたような代物だからどっちもどっちかもしれん」それからビスケットを一つほおばった。
「発酵のことを腐らせると表現するのかい?」
「ん、うむ」紅茶でビスケットを流し込むと答えた「まあ、意味は一緒だからな」
それから二人はおしゃべりを中断して、それぞれ自分の飲み物を味わった。
「さてさて、カフェインが入って頭が冴えたところで私は自分の仕事に取り掛かるとしよう」
まったくもってマイペースなカセリア氏なのであった。