第二話 週末の夜
窓の外は黄昏時で、少し開けてある窓からは夜を感じさせる、少し冷たい空気が入りはじめていた。カセリア氏は机に向かい、まるで周囲のことをきにかけることなく執筆活動にいそしんでいた。だが、昼下がりからずっと動き続けていた彼の手は唐突に止まった。
「ああ、ちょっと行き詰ったなぁ」そう言って立ち上がると、あくびをしてそれから思いっきり腕を上に向けて伸びをした。
「さてさて、少し休憩でもするか。それとも夕食にするか…」それからカセリア氏は何かか思いついたような表情をした。
「今日は確か土曜日だったか?一杯飲みに行こうか、そういえば久しく行ってないきがするな」
カセリア氏が時々出かけるバー“ソノリテ”には作家はもちろんのこと、詩人や画家と言った文化人がたびたび訪れ、賑わう場所である。流行りの画家や作家はもちろんのこと、時折、思想家や大学で教鞭をとるような学者も集う文化の最先端を垣間見ることができるようなところだった。
「さて、そうなれば早速出かけるとしよう」
そう言って窓を閉め、財布と上着を手にすると足早にアパートの部屋を後にした。
街中の通りから一歩裏路地に入った場所、小さなライトに照らされた半地下へ向かう階段、その先のウォールナットの扉は常に手入れが行き届いており、控えめな大きさの真鍮製プレートにはSONORITEの文字が刻まれていた。カセリア氏が入口の戸を開けて中へ入ると、いつものジャズレコードの音楽が耳に入ってくる。
カウンター席でマスターと談笑している人物が入ってきたカセリア氏に気づいた。作家仲間のデルフト・シュリフステーラー氏であった。
「よう!プロパガアルじゃないか!」と、ビールジョッキ片手に陽気な声をかけてきた。シュリフステーラー氏は生まれも育ちも首都アファルソエソルで、都会暮らしの人々の視点に立った作品を主として執筆していた。
「おお、デルフト、久しぶりだな」カセリア氏もカウンター席に並んで座った。
「なんだ、しけた顔をして」シュリフステーラー氏は赤ら顔で笑いながら言った。
「私がどんな顔をしていたっていいじゃないか」
「ここ最近はすっかり姿を見せてなかったな。俺なんか毎週来ているというのに」
「毎日の間違いじゃないのか」カセリア氏は冗談っぽい口調で言った。
「へっ!笑わせてくれるね。俺はそこまで呑んだくれじゃないね」
「ともかくだ、私がここへ来るのは小説を書き終えたときかストーリーが煮詰まったときだけだ」
「そうかい。で、今日はどっちなんだい?」
「煮詰まったときだ。その時は、眉間にしわを寄せてしけた顔をしている。覚えておくといいさ」
カセリア氏は自分の眉間にしわを寄せて指、指を差して示したた。それからカセリア氏はマスターに注文を言った。
「マスター、いつものを。それと軽く食べるものも。実はまだ夕食を食べてないんだ」
「承知しました」
カセリア氏の目の前にグラスが置かれ、ブランデーが注がれた。
カセリア氏はいつもブランデーをストレート、ダブルで飲んでいた。
「今日はジーザスはいないのかい?」
エスクリビー・ジーザス氏は最近流行りの印象派画家で、二人とはたびたび酒を交わしながら雑談をする仲だった。
「ああ、昨日はいたんだけどね。どうやらポーカーで飲み代を全部もっちかれたようだ」それからシュリフステーラー氏はビール瓶の中身を自身の手でジョッキに注いだ。
「ところで今回は何に行き詰まった?」
「小説の登場人物の苦悩さ。どう表現するかだな。単純な表現ばかりじゃ読者が飽きる」
「あんたの苦悩だろ」
「そりゃ、どういう意味だい?」
「俺みたいにノンフィクションとかだったら人物の心情表現は、いかに再表現、再構築するかってことが重要だが、フィクションなら著者の内面的な部分がもろに反映されるからね」
「ふん、言われんでも分かってるさ。だから悩んでるのさ」
その時マスターが軽食を乗せた皿をカセリア氏の前に出した。
四角いクラッカーの上にさまざまなトッピングをしたものだった。スモークサーモンとハーブに黒胡椒をかけたものから、チーズとバジルをのせたもの、サラミとトマトソースをかけてピザ風味のしたもの、大粒のラズベリーが入ったジャムを乗せたもの等々。一口大のものばかりだが、もともと少食であるカセリア氏のことを見越した非公式メニューだった。
それから話にマスターも加わった。
「人生は深く考えすぎないことです。このメニューのようにシンプルであることもひとつの手です。肩の力を抜いて気楽に考えることが一番です。ともかく結婚相手を選ぶとき以外ですが」
「そいつあ確かに!俺も女房はよく考えて決めるべきだったよ」
聞き耳をたてていた周囲からも、どっと笑い声が上がった。
「その点、私はまだ独身だから困ってないね」
「まあ、いずれ分かるさ」
それから二人は作品のネタにとどまらず世間話や噂話で小一時間、雑談に話を咲かせた。
「さて、私はそろそろ戻るとするよ」
「まだ酔ってないのに帰るのかい?」シュリフステーラー氏は茶化すように言った。
「二日酔いにならないために!」
「そうかいそうかい、明日は日曜だぞ、付き合い悪いなぁ」
「作家に休日なんてあってないようなものだ」
カセリア氏はそう言いながら紙幣を取り出すと丁寧にシワを伸ばした。カセリア氏がツケで払うことは滅多になかった。
カセリア氏は空になったグラスの下に紙幣を置くと「マスター、ご馳走様。執筆の続きがはかどりそうだ」と言って席を立った。
「そういや、チップにしてもいつも多めに金を置いて行くね」シュリフステーラー氏は横目でカセリア氏の取り出した紙幣の額を見ていたようだった。
「ああ、行きつけの店が潰れてもらっては困るからね。私たちの集いの場が無くならないように」
それだけ言うとカセリア氏は颯爽と店を後にした。