第二十八話 亡命
首都アファルソエソルの街には靄がかかり、小雨が降っていた。アグア氏はいつもどおりを装って自前の馬車に乗り、カセリア氏のアパートに向かった。
アパートの前で降りると、一瞬周囲を窺ってから、小走りで中へ入っていった。
「カセリア君! 大変だよ。どうにも反政府活動の罪で逮捕状が出るらしい」
「タイミングが良いな。アグアよ、準備はできているのだ」
「どうしたんだい……この部屋。引っ越す気なの?」
アグア氏は部屋のようすを見て驚いた。
家具にはカバーが掛けられ、本棚やキッチンはきれいさっぱり、片付けられていた。カセリア氏の足元には、大きめのトランクケースが二つあるだけだった。
「アパートを引き払うまではしていない。大家のご夫妻からは、いつでも戻ってくるのを待っていると言われた」
「いつかは、戻るつもりなのかい?」
「ああ、いつになるかは知らんが……。
それにしても、戦争が始まってからというものの、本もおちおち書けたもんじゃないな。商売あがったりだ! それにいつまで戦争を続ける気だ? 社会改革党はとんでもなく社会を改革してくれたようだ。それともあれか? 他国もろとも、自滅的改革をする気でも起こしたのか?」
「とにかく、呑気なこと言ってないで行こう」
「どこへだね?」
「とりあえず僕のところで匿おうか? それとも、行先は決めてるのかい?」
「もちろんだとも」
「でもどこへ向かうつもりだい」
「あの島が、役立つ時が来たようだ」
カセリア氏は以前に、西大洋諸島にある孤島の一つを購入していた。
「本気なのかい?」
「ああ、そうだとも! 実は国防軍の知り合いからいろいろと噂話を仕入れてな」
「それは、どう言うこと?」
「いや、知り合いが一人いてね。私がどうも当局に狙われているらしいことも、少し前に知らせてくれた」
「まさか罠じゃないよね」
「そんなことあり得ないさ。国防軍諜報局と、警察組織の国家治安部は仲が悪い」
それから二人は部屋を出ると、アグア氏の乗ってきた馬車に乗り込んだ。
「とりあえず、駅へ向かってくれ」
「いいのかい?」
「ああ、あとは自分で何とかするよ」
カセリア氏はため息を漏らし、ぼやくように続けた。「まったく、もし敵軍の爆弾が首都に落ちるようなら、逃げ出そうと考えていたんだがね。その前に、味方に銃剣で突かれそうになるとは。まあ、これはものの例えだが。たちの悪いお笑いだよ」
「そりゃ、たまらないね」
「それにしても、私は政権批判のコラム記事すら書いたことないのにな。どういうことだ」
「君の言うことにはあきれるよ」
「ん?」
「あんな内容の本じゃぁね」
「だが、あれは架空の世界の話だ」
「でも、多くの人は自国の風刺だと思っているよ」
「まったく、あれが政権批判と思うなら、後ろめたさがあることを自覚しているということだ。あるいは……空想と現実の区別がつかない愚か者。そのどっちかだ!」
カセリア氏は声に出して笑った。
「どっちにしても、問題ありの政府かもね」
「まったく! その通りだ」
駅に着くと、カセリア氏はアグア氏に別れを告げた。そうして、隣国のサモ公国へ向かう列車に乗り込んだのであった。
サモ公国のとある港町で、カセリア氏は一人の男から唐突に声をかけられた。
「あんたが、プロパガール・カセリアだな?」
「ああ、そうだ」カセリア氏は、こんな状況でプロパガアルだと訂正するのも面倒に思った。「そうか、ともすると……君が、フィエル・ウルバノ大尉かね?」
「まあ気軽に、フィエルと呼んでくれや」
「そうかい。では、フィエル君。約束を反故にしてすまなかったね」
「いいや、あんたの方が一枚上手だったわけだ。これでよかったんだよ。結果オーライさ」
そう言われたものの、彼がどういう状況にあったのか、カセリア氏には分からなかった。
「まあ、それなら良かった」
「ところであんた、どうしてドミナーレ社の株式を大量保有しているんだ?」
「あれだ、資産運用というところだな。お金でお金を生むにはこれほど手っ取り早いことはない。ああ、それと正しくは保有していた、だ。つい先日に過去の話になったんだ」
「なんだって?! それは話が違うじゃないか。ドミナーレ社の内部情報を知るためには、総会へ行かなければならんのだろ」
「まあまあ、落ち着きたまえ。それに、君らに頼まれてスパイみたいなことをするなんて約束した覚えはない」
「まったく! こちらも相応のだな、」
「そうカッカとすることもあるまい。そうだ、これを渡しておこう」
カセリア氏は上着のポケットから、小さなメモ切れを差し出した。
「私は、日記やら記録を付けるのは苦手だがね、細々とメモは取るほうだ。だがその一部は、置いてきてしまった。あまり読めたもんじゃないかもしれんが、いろいろ書いてある。保管場所は、某銀行の貸金庫」
大尉が渡されたメモには、支店の名前と幾つか番号の羅列が書かれてたいた。
「いろいろ書いてあるか……なるほど。まあ妥協点としては及第点だな」
「役に立つかは知らんよ」
「なら、役立てるまでだな」
「ところで疑問なのだが、どうしてそこまで、ドミナーレ社の内部情報を欲しがるんだね」
「この戦争の発端へ、政治的に一枚噛んでるからだよ」
「ほう……そんなことあり得るのか?」
「あんたが知る必要はないさ」
「そうかい」
それからカセリア氏は小さく咳払いをした。「さて、では私は、そろそろ行ってもいいかね?」
「まあ、いいだろう。だが、どこへ向かおうっていうんだい?」
「私が行きたいと思うところ」
「ふん」大尉は少々不満そうだった。「これ以上の協力は仰げそうにないな」
「世の中、期待以上のものを得るのは難しいものだ……」
カセリア氏は荷物を持ち直し、そこで思い出したように付け加えた。
「それと最後に、話は変わるが、君も何か資産を持っておく方がいい。現金じゃなくて、金やダイヤにでも替えといた方がいいぞ」
「けっ、たいした貯蓄も持っていないさ。それにこれから仕事が忙しくなる。余計なこと考える暇も無いね」
「仕事か……羨ましいね」
カセリア氏はくるりと大尉に背を向けて、出港を控えている船に向かった。




