第二十三話 予防医学
いつものように、アグア氏がなにげなくカセリア氏のアパートの部屋を尋ねると、カセリア氏は少々やつれた表情で寝室から現れた。
「カセリア君どうしたの? いつもよりも、辛そうな顔してるけど……」
「まあね、ちょっと風邪気味だ。今朝から頭痛がひどいんだ、まったく」
「ふーん」それからアグア氏は、大股で一歩退いた。
「僕にうつさないでね」
「いやいや、とんでもない。今回、くしゃみとは無縁だ。それに熱も大してない」
「それじゃ風邪じゃなくて、ただ偏頭痛じゃないの?」
「いや、鼻がつまってて、昨晩は寝苦しかった。喉も痛い」カセリア氏は大きくため息をついた。「まあ、鼻風邪というやつだろう」
「病院には行ったの?」
「いいや。今朝は市販の薬を飲んだところだ。そのうちに効いてくるだろう」
「無理しない方がいいよ。まあ……診察や処方箋も安くはないかもしれないけど」
「まさか、とんでもない! 金銭が問題じゃないさ」
「じゃあ、なんなの?」
「病院はだな、医者という鼻持ちならないインテリ集団と、患者という暇を持て余す人々が集う場所だ。そんなところ、わざわざ行く必要なんてない……というか、行きたくないね」
「前に、なにかあったのかい?」
「さあ、どうだかね……」カセリア氏は、はぐらかすようなようすだった。
「ま、カセリア君らしいね。でもちょっと、言い過ぎじゃない?」
「ああ、そうだな。技術が求められる歯医者と、手術をする外科医は別かもしれん」
「はいはい。カセリア君が医者嫌いってことは、充分に分かったよ」
アグア氏は、少々あきれたようすをみせたが、カセリア氏は構わずキッチンに向かった。それからいつものように、紅茶の準備をはじめた。
「カセリア君、僕はすぐおいとまするよ。別に無理しなくても」
「いいや、自分用に飲むやつだ」カセリア氏はきっぱりと言った。
「ああ。そうなの」
それからアグア氏は続けた。「それにしても、確かに医者も病院もたいていは、患者を治療することだけしか考えてないからね。予防医学がもっと広まればいいのに」
「なんだそれは?」
「予防医学だよ。僕の知り合いで、広めようとしている医師がいるんだ」
「どんなことをするんだ?」
「まあ、病気にならないようにするには、どういうことを心掛けるとか、怪我をしないためにどういうことを気を付けるのか、とかみたいな。病気になってから治療じゃなくて、未然にならないようにするにはどうするのか? っていう、そんな感じかな」
「ほう、いわば啓蒙活動といったところか」
「そうだね」
「なるほど、賢いやり方だ。だが、それで病人や怪我人が減ったら、医者や病院、あるいは薬屋は、商売あがったりになるのではないか?」
「どうかな? 病気予防屋みたいな、新しい職業が生まれるかも」
「つまりは、仕事の鞍替えで万事解決というわけだ」
そこでカセリア氏はゲホゲホと咳き込み、アグア氏は玄関のほうへ、さらに退いた。
「じゃあ、僕はこれでおいとまするからね。しっかり療養を」
「ああ、」カセリア氏は咳ばらいをして答えた。「お気遣いどうも」
それからアグア氏は、アパートの部屋を後にしたのだった。
カセリア氏は、用意した紅茶にハチミツとジャムをたっぷり入れて、一人でゆっくりと味わった。
「予防医学か……」
ぼそりと呟いた。
「予防医学とは、これをネタに一本なにか書けないものか……書けそうな気もするぞ」
カセリア氏は原稿を出してきて、ペンを手に取った。
しかし、白紙の原稿に向かっても、頭痛が思考の邪魔をするばかりだった。
「いや、ダメだダメだ……予防どころではないな。今日は止めだ。大人しくベッドで療養することにしよう」
そうして原稿もペンも仕舞うと、頭を抱えるようにして寝室へ戻ったのだった。




