第十九話 理想論
カセリア氏には珍しく、執筆ではなく読書にいそしんでいるようであった。すると、開けっ放しの部屋のドアからいつものようにアグア氏の姿が現れた。
「あれ、カセリア君珍しいね。執筆は?」
「ひと段落だ。それに、たまにはインプットもしないとな」ページにしおりを挟むと本を閉じた。「さて、お茶でも入れるとしようか」
カセリア氏は立ち上がり、キッチンへ向かった。アグア氏はテーブルに置かれた本を手に取って、タイトルを見た。「行政組織論……ね。また小難しいもの読むねぇ」
それからカセリア氏の方へ向き直った。「そういえば、先日の選挙投票は行った?」
「もちろんだとも。支持する党の、たかが候補者の名前を紙切れに書いて箱に入れるだけのことだ」
ちなみに、パラムレブ連邦では主に四つの政党——連邦第一党、国民自由党、社会改革党、国民労働党——が活動している。
「ちなみに、どの党に票入れたか聞いてもいい?」
「連邦第一党」カセリア氏は紅茶を準備しながら、そっけなく答えた。
「へぇ、意外だね。君のことだから、もしかしたら社会改革党に入れたのかと思ってた」
「御冗談を!」カセリア氏は語気を強めた。「あんな公約、守れると思うかね?」
「確かに、難しいかもしれないけど」
「だろう?」
「だからといって、期待を寄せない理由にはならないと思うけど。変化っていうものは必要だと思うし。支持は多いらしいよ」
「ごもっともかもしれんが、過大な理想を掲げて、一時の勢いだけで成し遂げられるとでも思っているなら、大間違いだ。それが政治にあるべき姿なのか、甚だ疑問だよ」
「カセリア君は小説の中だと、それなりの先進的思考を見せつけているのに」
「別に新しくはない」カセリア氏は紅茶の用意を整え、テーブルに戻った。「しっかり読んでいればわかる。あるいは皆、斜め読みだけなのか? それにとりわけ保守派の人たちは、内容を批判したがるようだが、そんなことしても本の売り上げ部数が増えるだけだ。たんに無視すればいいものを。その時点で、私の考えを認めているようなもんだよ」
それからお互い、椅子に腰を落ち着けて紅茶に手をつけた。
「それはそれとして、改革党の大げさな演説に感化される市民もたいがいだ。みんな、もっと長期的視野を持つべきなのに」
「辛口コメントだね」
「ここだけの話だ、アグア。他所で言いふらさないでくれ」
「それは大丈夫。君の無駄話はたいてい忘れるからさ」
「なんだって?」
カセリア氏は聞き返したが、アグア氏は聞き流した。
「まあ、大半の市民は日々の生活が満足に過ごせれば、それで充分だからね。最低限の知識だけで済ませてるんじゃないの?」
「ふん、知識過大な私の方が実は愚かなのかもしれん」カセリア氏はせせら笑った。「まあともかく、古きを顧みて新しきを知るというやつだよ。それに、政治家は保守的で充分。本当に必要な時が来れば、連中も多少は変わるだろう。
変化というのは、時として破壊でもあるのだ。変化を求める連中は自分たちで、まったく新たなものを創造するということに、忍耐があるか? そこが重要な点でもある」
「どうかな? あんまり考えてみたことないな」
アグア氏はゆっくりと紅茶を飲みながら、続きを聞いた。
「例えば、帝政崩壊から連邦へ、政治が移行した時のことを思い返してみればいい。しかも戦時中だった。よくやりぬいたものだよ。当時は思慮に富んだ決断力のある政治家、外交官、軍人が多くいた。そういう人達の意志を継いでいる者が、改革党の中いるかどうか……甚だ疑問だ」
「危惧しすぎじゃない?」
「心配のし過ぎで、問題が起きることは滅多にない。むしろ、楽観が蔓延することこそ、危惧すべきだと思うがね」
「でも、僕らにはどうしようもないんじゃない? そういう時代でもあるし」
「ああ……まったくだな」カセリア氏はやれやれといった表情を浮かべて、肩をすくめた。「それより、アグアはどうなんだ? まさか改革党に入れたのか?」
「いいや、僕はいつも国民自由党一択だよ」
「そりゃいい」カセリア氏は満足げな笑みを浮かべた。
「でも結果はどうなるかな? 国民労働党と社会改革党の連合は、今回けっこう躍進しているみたいだけど」
「先のことは分からないものだな」
「まあ、世の中がひっくり返るようなことは、無いと思うけど」
「そう願うとしよう」
「それにしても、まったく。カセリア君は帝政時代に思い入れが深いね。まるで、帝政時代を知っているみたいな口ぶり」
「そりゃ、そうじゃないか。君も僕も帝政時代に生まれた」
「よく言うよ。末期もいいところじゃないの。翌年に帝政は崩壊しているし」
「はっはっは。でも私の生まれた所は田舎だったからね。しばらくは世間は変わらないままだった」
「ああ、そうかいそうかい」
「なんだ……その適当な返事は? 君から聞いてきたんじゃないか」
「もう、君と話をしているとほんとに長らく帝政時代を生きてきた人のように思うときがあるよ」
「実際のところ私自身、年長に思われることも多々ある」
アグア氏はテーブルに置かれたままの本へ視線を向けた。「でも、帝政に問題が無いわけじゃないでしょ? 現に、議会政治が世界の主流だし」
「もちろん、帝政独裁政治が手放しで褒めらたものじゃないことくらい、分かってる。だが民主主義なんてものも、所詮は理想論に過ぎない。どんな意見だって、賛成と反対に分かれる。そう言った意味では、擬似民主主義国家しか存在しないものだと思うのだ」
アグア氏がまた何か言おうとしたが、制して続けた。
「ただ、重要な点はある。議会における議論の内容が簡潔に分かりやすく周知されることと、理論的な納得ができるかどうかということだ。あるいは、議論そのものが論理的かということだな」
「でも、難しいんじゃない? 周知するのも、大衆に理解させるのも。そもそも、農民なら収穫のことが関心事だろうし、工場労働者ならその年のボーナス、経営者は企業の売り上げ利益だろうし……国家の先行きとかそいうことは、教養に富んだ人なら別かもしれないけど」
「ある面では、」カセリア氏は紅茶を飲んで、言葉を選ぶように続けた。「改革党の人気が伸びはじめているのは、そういった庶民の身近な、具体的な点に対して言及しているからかもしれないな」
「なんだ、ちゃんと研究してるんじゃないの」
しかし、カセリア氏は苦笑を浮かべた。「まあだが、昔から言ったものだよ。理想は現実に成り難し、とね。詰まる所、理想はたんなる理想でしかないし、とりあえずのところ、いかにそこに近づくかという問題なのだがな。数学の方程式における近似解みたいなものだ。突き詰めると無限大に発散してしまうだろう」
「あるいは、原点に収束かな?」
「どっちにしても、ロクなことにならないように、回答願いたいものだ」




