第十八話 娯楽について
午後の昼下がり、アグア氏の屋敷にある広間の一つでは、ピアノの演奏が響いていた。ピアノは純白で染み一つなく、磨き上げれた光沢を放っていた。
椅子に座ってピアノに向かっているのはアグア氏本人で、軽やかな手つきで鍵盤と戯れていた。軽快な演奏曲は、部屋に心地よい響きをもたらしていた。普段はクラシックなピアノ曲を演奏することが多かったが、今回はアグア氏自身の作曲したものだった。
一方で、部屋の隅にはカセリア氏の姿もあった。隅に置かれている椅子に深く腰掛けおり、半ば目をつむっていた。が、演奏にはしっかりと聴き入っている様子であった。
全ての演奏が終わると、アグア氏はカセリア氏のほうを向いて訊いた。
「どうかな?」
聴いていたカセリア氏は目をぱっちりと開いた。
「うん……なかなかいいじゃないか。ワルツのイメージかね? なんというか、休日の朝にでも聞くのが良さそうな感じだ。まあ、もう少し力を入れて弾いてもいい気がするな。あくまで、私が思うところだが」
「貴重なご意見をどうも」
それからアグア氏はピアノの鍵盤の蓋をそっと閉じた。楽譜を大事そうな手つきで革のケースに収め、部屋の向こう側に置かれている棚に行ってケースを上段に収めた。
「さてと、そろそろコーヒータイムにはいい感じの時間かな?」
「そりゃいい」それからカセリア氏は懐中時計を取り出してチラリと確認した。「まあ、私はティーなわけだが」
ちょうどそのタイミングで、執事がコーヒーと紅茶の用意を整えて部屋に運んできた。
カセリア氏はその姿を見ると、ニヤリと笑った。
「仕事の出来る執事の、ご登場のようだ」
「アグア様にはコーヒーを、カセリア様には紅茶の用意ができております。それと少々の菓子も」
「ありがとう、バトラー」
「素晴らしいな。相変わらず毎度の機会を心得ているようだが」
「当然でございます」執事はいつもの泰然とした様子だった。「それが、わたくしのこなすべき仕事一つでもございます」
「羨ましいね」カセリア氏はアグア氏と執事を交互に見ると小さく笑った。「君たちは……主従関係というよりも、なにか息の合うコンビみたいな感じだな」
それを聞いたアグア氏はそっと口元を緩めた。
「僕は、安っぽいオペラの舞台脚本みたいに、召使をこき使う傍若無人な主人のようなふるまいはしたくないからね。品位と謙虚を重んじるよう心がけているよ」
執事も穏やかな口調で答えた。「わたくしは真摯に仕事に向き合い、カリエンテ家で務めを果たすまででございます」
それらを聞いてカセリア氏は小さく笑った。
「二人とも素晴らしい心がけだ。私だったならば、尊大と目立ちたがりなふうに振舞うに違いない」
「さてさて、とりあえず一息入れよう」
執事の方はその間にもテーブルに用意を整えて、そして軽く頭を下げて部屋を後にした。
そうして二人は、静かにそれぞれの飲み物を味わった。
「カセリア君は、何かこう、純然たる娯楽みたいなのは最近はどうだい? 僕はこうして、ピアノ演奏とちょっとした作曲だけど」
「娯楽か……正直なところ、あまり考えたことがないな」それから少し考えた様子で続けた。「ああ、ごくたまには美術館に行って絵を観ることがあるな」
「へぇ」
カセリア氏は紅茶を飲む手を止めて、ティーカップを置いた。
「実を言えば、画家になりたかった」
「え?」
「印象派の画家たちが描くような、淡く美しい絵を描きたかった」
「だったら、描けばいいじゃない?」
「ああ……まったく、私に絵心が少しでもあればな。美術教師が匙を投げるほどだったからな。きっと前衛的抽象画家も驚くだろう」
「それ、ほんとうなの?」
「いやはや、冗談だがな」
「はぁ」アグア氏は少々呆れたようすだった。「まったく妙なこと言いだして、どこまで本当で冗談か分からないよ」
それに対して、カセリア氏はいたずらっぽく笑った。
「まあまあ。じゃあ、次は真面目にだな。あれだよ、時たまの週末に、バーで同業者と一杯飲むこともそうかもしれない」
「お酒飲めないんじゃなかったの? いつだったか、ひどい状態を目にした気もするけど」
「あれはとんでもない例外だ。私だって飲むときは飲む。飲めないといったことは、一言もないぞ。嫌いなわけわけでもなしに」
「ふーん。何を飲むんだい?」
「ブランデーだ。たいていはダブルを一杯。多くても三杯までだな」
「たったのそれだけ?」
「私にはそれで十分さ」
「じゃあ、やっぱそんなに飲めないんじゃないか」
パラムレブ連邦では往々にして大酒飲みの人が多いのは事実であった。本当かどうかは別として、地域によっては一日に水よりもビールを飲む方が量が多いなどと言われる地域もあった。
「まあ、私にとっては酒はどちらかというと、飲むというより嗜むものという認識だ」
「ふーん」
カセリア氏は再びティーカップを手にすると、一口飲んだ。
「どのみち……あまり私は、仕事だ趣味だとか、そういろんなことを区別したり区切りをつけるタイプじゃない。それに今のところ、思うように自分の人生を進んでいる。そうすると、人生そのものがひっくるめて娯楽みたいなものだ」
「かもしれないね」




