第十五話 理髪店
今朝から曇りがちな天気であった。外は僅かに小雨が降りはじめていた。カセリア氏はペンを手にしていつものように、窓際のテーブルにつき、紅茶を傍らにして原稿用紙に向かっていた。ちょうどお昼どき、雲はさほど厚くないようすで、曇りにしては外は明るい感じだった。
朝は、毎週お決まりの青果市が開かれていて通りは賑わっていたが、今は天気のせいもあって露天商たちは早々と引き上げたようだった。通りの路面は濡れていて、閑散としていた。
雨に濡れた路面から立ち上る匂いが、開けてある窓からかすかに感じられた。
それはカセリア氏の記憶の奥深くに入り込んでいった。
「やれやれ、明日は晴れるといいがな」
カセリア氏はペンを置くとため息をついた。
匂いや香りというものは、記憶と強く結びつくものだった。雨に濡れた地面の匂いは、カセリア氏に少年時代や学生時代のことを思い起こさせた。
カセリア氏は窓に近づいて、人気のない通りを眺めた。
「学生時代のみんなは、どこで何をしているのやら」
彼はぼそりと呟いた。知人は多い方であったが、親友と呼べる人は少なかった。特にこうして、首都に越してからはすっかり疎遠になっていた。
「あーあ、気分転換がしたいところだが、雨の日の散歩はどんなのものか……」
カセリア氏は再び机のところに戻ると椅子に座り、書きかけの原稿を読み返した。今日の最低限のノルマはすでに書き終えていた。ほんのわずかに手直しをすると、ペンを置いた。
それから前髪に手を触れながら呟いた。
「うむ。そう言えば、前髪が少し鬱陶しくなっていたな」
若干くせ毛の頭髪は、前髪だけではなく全体的に伸びてボサボサという表現が適当だった。
「床屋にでも、行くとするか」
午後、カセリア氏は外套を羽織って傘を手にアパートを後にした。
大きなガラス窓から店内を覗くと、店主は隅の椅子に座って手持ち無沙汰な様子で新聞を読んでいた。
待ち時間はゼロだなと思いながらカセリア氏は傘をたたんで、店の入り口ドアを開けて入った。
「おやこれは、久方ぶりですね。カセリアさん」
気さくな性格で中年過ぎの店主、クーペ氏は新聞から顔をあげて応えた。
「ああ、なかなか不精なものだからな」
「それにしても、わざわざ雨の日にお出かけですか?」
「なんてことはない、ただの気まぐれだよ。それにこういう日の方が店は空いているだろうと思ったまでだ」
「たしかに。ご覧のとおりです」
クーペ氏は苦笑しながら新聞をたたんで立ち上がった。
「どうです? 執筆活動の方は」
「ああ、おかげさまでね」カセリア氏は椅子に座りながら答えた。「次の作品も雑誌で連載が決まった」
「よかったですね。それじゃ、毎週買って読まないといけませんな」
「気を使わせてすまないな。初回でつまらないと思ったら、途中でやめてもらっても結構だからな」
「はっはっは、謙遜されますね。それに読んでみないことには分かりませんよ、先のことは」
「まあ、好きにしてもらってくれ」
「さてと。それで、髪型はどうされます?」
店主はそう言いながら、カセリア氏の頭髪に櫛を通そうとした。だが、絡まって少し引っ張られた。
「あ、痛たた」
「おっと、これは失礼」
「いや、なんてことはない大丈夫だ」
「今日はこんな天気ですからね。湿気でくせ毛に拍車がかかっているようです」
「ああ、そのようだ」
「どうです? 思い切ってさっぱりしますか?」
「そうだな。たまにはスパッと短めに仕上げてもらうとしようか」
「ではそうしましょう」
クーペ氏は長年、理髪師として仕事をしているだけに、その手さばきは慣れたものであった。
途中で髪型の具合について短い言葉を交わす以外には、おおむね静かに進んでいった。クーペ氏は真剣なまなざしでハサミを動かし、カセリア氏は何か考え事をするかのように軽く目をつむって全てを任せている感じであった。
小一時間ほどでクーペ氏は仕事を終えた。
「カセリアさん、どうです? たまにはその口髭もバッサリ剃ってみては」
「いやいや」カセリア氏は苦笑した。「たまに考えることはあるが、遠慮しとくよ」
「ですが、きれいに剃れば実年齢より若く見えること間違いないでしょう」
「おそらくね。ただ、私は若くみられるのが好かないのかもしれん。それにトレードマークとしては、これほど手軽なものもないだろう」
「それもそうですね」
「まあ、いずれにしても髪型は文句なしだ」
そうしてカセリア氏は椅子から下りると、ポケットから紙幣を取り出して店主に手渡した。
「ご利用をどうもありがとうございました」
クーペ氏は受け取った代金をレジに仕舞いながら続けた。「それにしても、私はお客様の髪を切る仕事。カセリアさんは文章を繋いでいく仕事。おもしろいですな。やることは正反対でありながら、何かこう一つのかたちをつくるということに変わりがないというのは」
「それは興味深い表現だな」
「それともカセリアさん、あなたも言葉という山から物語を切り出してこられますか?」
それを聞いてカセリア氏は軽く笑った。
「さあ、どうだかね。やはり言葉を寄せ集めてるという表現がぴったりかもしれん」




