第十二話 人間観察
パ連邦の首都アファルソエソル中心部にある大劇場のホール、観客席は舞台に向かって右側のガレリーの一角にアグア氏とカセリア氏は並んで座っていた。
舞台の劇は前半の中頃にさしかかっていた。
「うむ、劇を見るより、観客を観察する方がおもしろいな」
カセリア氏は小声でつぶやいた。彼はオペラグラスを覗きながらも、舞台とはまったく見当違いな方向へ向けていた。
「見てみたまえ、」
そうしてアグア氏の肩をつついた。「バルコンの、あの仕切りのある席、劇を見ることよりもイチャつくことに熱心な婦人と紳士がいるぞ」
「もう、カセリア君ね。せっかくなんだから劇の方に集中したら?」
カセリア氏はオペラグラスを下げてから小声で答えた。「まあ……それもそうかもしれんが、この物語はとうの前に原作を読んでいるからな。ごあいにく様、結末は知っているというものだ」
「ネタバレはやめてよ。でも、役者の演技とかさ。そいうのを見るというのも、」
アグア氏が言い終わる前にカセリア氏は鼻で笑った。「そりゃそうかもしれんが、私の想像力のことを忘れてもらっては困る。本を読んだときに描いた私の頭の中のイメージより迫力不足だよ、これは」
アグア氏は、返事の代わりにため息をついた。「誘ったのは僕の方だし……まあ、黙って大人しく過ごすなら、好きにして構わないよ」
それからしばらくはお互い黙って、アグア氏は舞台の劇をみるののに、カセリア氏はオペラグラスを除きながら観客席を観察することに集中していた。
カセリア氏は下階の方ばかり見ていたが、ふと同じ高さの他の席に視線を向けた。すると、ほぼ向かい側に位置する場所でカセリア氏と同じようにオペラグラスを舞台とはまったく違う方向に向けている人物がいた。そして直後、相手も視線をカセリア氏のいる方に向けた。お互いオペラグラス越しに視線が合った。
「おっと、私と同じことを考えている奴がいる」
ほんのしばらく睨みあったが、カセリア氏の方が先にオペラグラスを下げた。それからアグア氏の方に向き直った。
「今しがた、私と同じことをしているのがいたぞ」そう言って横から小さく突ついた。
「後にしてよ、今が見どころのとこなんだから」
「ああ……そうかい」
それからもう一度オペラグラスを覗きながら同じ場所へ視線を向けたが、相手もおなじように止めてしまった様子だった。カセリア氏もなんだか気まずくなったような思いになって、それっきりオペラグラスは下げたままで、劇に視線を向けて最後まで過ごしたのだった。
無事に劇が終わり、観客の拍手に包まれながら舞台の幕が降りたところで、カセリア氏は呟くように言った。
「まあ、こういう場所では、観客というのは見ると同時に見られる存在でもあるあるようだな」
「なにブツブツ言っているの?」
「ああ、なんでもないさ」
他のお客の流れに加わりながら、会場の外へ向かっている時だった。
「失礼ですが、作家のカセリアさんですよね」
突然横から、見知らぬ男性が声をかけてきた。カセリア氏は相手の雰囲気から、もしやと思った。
「ええ、そうだ。ともするとオペラグラスでにらみ合った方ですかな?」
「まあ、お恥ずかしい限りですが、まさしくそうです。お声掛けしようかどうか迷ったのですが……」
「気にすることはないさ。サインでもお求めかな?」
「ええ……それと、ご迷惑でなければ、何を思ってあのようなことをされてたのか、少しお話お聞かせ願いますか?」
「構わないが……それで貴方は、私のファンなのかね?」
「そんなところです。まさか人間観察をしていたら、お見掛けしたもので、それに僕と同じようなことをしているではありませんか。ちょっと驚きましたよ」
それを聞いてカセリア氏は苦笑した。
「まあなんてことはない、人を観察して……なにか執筆のヒントやインスピレーションでもあればと思ってのことだよ」
実際には、さしたる理由があるわけではなかったが、見られていた手前それらしい言葉を口にした。
「なるほど、大作家ともあれば、様々なところに観察の目を向けるわけですね」
「ああ、まあ、そういうことだな」
「それでサインもしていただけますか?貴方の著書でなくて申し訳ないのですが」
男は手帳を取り出して開くと、カセリア氏に差し出した。
「何にサインをするかなんて、気にしないさ」氏はサインをかきながら言った。「私の著書を買ってもらうだけでも充分だよ」
「次回作も、楽しみにしていますので」
「ああ、ありがとう」
男性はうれしそうな様子で二人の前を後にした。
カセリア氏とアグア氏は再び出口に向かって歩きはじめた。
「やれやれ……私もまさか見られているとは思わなかった。深淵をのぞこきこむとき、深淵もまたこちらを見ているというが……他人を観察するときも、相手はこちらを観察しているということのようだね」
「じゃあ、人間観察もほどほどにしないとね」アグア氏はちょっと皮肉を込めた口調で言った。
「ああ、まったくだ」




