第7話「騎士という者」
逃げろ、逃げろ、逃げろ。振り返らずに前だけを見て、一歩でも遠くへ逃げろ。ありったけの魔法をかけて速度強化して走り続けて、もう限界と、ようやく彼女は足を止める。
肩で息をしながら辺りを見渡せば、当たり前だが誰もいない。気の知れた仲間、厳しいけど信頼できる上司、そして、彼ら全てをまとめ上げる自慢の父親ロア。たくさんいた。いたはずだったのに気が付けば独り。皆を置き去りにして逃げ出してしまった。それだけではなく、世界の命運を左右する任務を放棄してしまった。色々な後悔の念が今になって強くなり、力なく岩影に座り込む。
「私は……何しているんだろ」
無理を言って部隊に入れて貰って、一生懸命に努力して、ようやく得た初任務だったのに。絶対に成功させて、もう無理なんてしなくていいよって、そう言いたかったのに。それなのに。もう会うことすら叶わないだろう。彼女はこの上ない絶望を感じていた。
どれくらいそうしていたのだろう。辺りは冷え込み、日はすっかり落ちてしまう。それでもまだ動く気になれなかったらしく、しばらくそうしていたのだが、空腹の音が鳴ってポツリと、
「……お腹、空いたなぁ」
そんなことを口にした。体は正直なものだ。どれだけショックを受けていても、深夜にもなると誰だってこうなるだろう。少なくとも彼女はそうだった。
彼女が腰ポケットをまさぐると、飴玉がひとつ出て来た。これはただの駄菓子ではない。出発前に小さな女の子に応援されて、選別として受け取った物だ。食べる訳にはいかない。
「他に食べる物は……何も無い、か」
後はティッシュとハンカチ、それに猫の絵が描かれたお気に入りの絆創膏だけだ。仕方ない。逃げるので必死で、荷物に手をかける余裕なんて無かった。それでもこの飴玉があるのは、お守りにと任務中ずっとポケットに入れていたからだった。
さて、無いとわかれば余計に腹は空くもので、空腹が強まれば強まる程にネガティブな感情が強まっていっていた。
部隊は自分以外全滅。親孝行もできなくなって、女の子に合わせる顔も無い。まさに絶望的な状況。余りにも凄惨過ぎて悲しいという感情すら薄れてしまったのか、呆然と、何もない地面をじっと見つめていた。
「新入り、よろしく頼むな!」
「正直に言うと戦場に出て欲しくはないが、私の娘だ。言っても聞かんだろうな」
「お姉ちゃん、がんばってね!」
黙っているとこれまた悪い方へ、悪い方へと考えがいってしまうらしい。まったく関連性のない場面ではあるものの、仲間たち、ロア、あの女の子の言葉が脳内でリピートされ始める始末だった。しかも無限とも言ってもいいくらいに力の源になっていただけに、その反動は大きく、別のことを考えて気を紛らわすということもできない。負のスパイラルに陥っていた。
「……ん?」
どこからともなく、焼き魚の匂いが漂ってくるのに彼女は気が付く。見上げると、もくもくと焚き火か何かの煙が立ち上っていた。こんな夜更けに一体誰が。野盗が稚拙な罠でも張っているのだろうか。そんな風に考えながらも、全く警戒心は湧いてこなくて、彼女はふらふらとそっちへ歩き出す。それから間もなく、メラメラと燃えている焚火を発見する。
「……旅人、かな」
周囲に人影は無い。野盗ならギラギラとした殺意が滲み出るものだろうが、今は人気すら感じられない。しかしこの焚火は明かに真新しく、火が点いてからせいぜい1時間しか経っていないだろう。だから絶対にいるはずなのだ。これを用意した何者かは確実に。
「まぁ、いいか」
一応の警戒はした彼女だったが、この焚火の主が仮に死神や悪魔だったとしても関係ない。これからどうしようかと考えてみれば、戻るか、逃げ帰るかの二つに一つ。戻るのはない。皆溶け出したんだ。悲惨な状態を見に行くだけになる。では逃げ帰るしかないのだろうが、惨め過ぎて到底できるはずがない。だから結論は、このまま果ててしまいたい。しかもそれっぽい正当な理由が無くてはならない。ならばこれは神の思し召しなのかもしれない。焼かれている魚に毒でも塗ってあれば万々歳だし、食べている後ろから襲われたらそれでもいい。いい。いい、はずがない。
「……良くないよ」
死を想像した時、彼女は両手で自分を抱き締めるようにして身を固くする。恐いのだ。騎士なのに、ロアも他の皆も死んでしまっているのに、自分だけが生き残っている卑怯な状況なのに、恐いのだ。死にたくないのだ。まだやりたいことがたくさんある。学びたい知識、鍛えたい技は勿論、行ってみたいところ、見てみたいもの、食べてみたい物、触ってみたい物、嗅いでみたい物。そういう魅力的な物がたくさんある。ならばなおのこと死ぬ訳にはいかず、彼女はギュッと両腕に力を込めながら一歩後ずさった。
その時だった。ガサリと葉が揺れる音がするや否や、スッと何かが隣に下り立つ。余りにも咄嗟のことで彼女は全く反応すらできないまま、耳元で囁かれる。
「生きたいんだね?」
ギクリとして彼女はようやく飛び退いた。そして自身の軽率過ぎた行動を恥じる。生きたいと思ったのならさっさとこの場を離れるべきだったじゃないか。それなのに一歩後ずさっただけだなんて、どうぞ殺してくださいとアピールしているようなもの。
しかし意外にも攻撃はされなかった。あれだけの隙だ。あのまま殺されても文句は言えないレベルだ。それを見逃す。一体何が目的なのかと声の主を探したのだが、さっきいたはずの所にはもう誰もいない。
「どこ探しているのさ?」
また耳元で声がして、今度は反射的に振り返る。すると、そこにいたのは少女だった。焚き火に照らされて見えたプラチナの甲冑と槍、そしてその顔はどれも見覚えがあるものだった。
「る……ルーチェさん?」
同じ16歳にして聖天騎士団の二番席次、そして四大将軍の一角にまで上り詰めた若き天才騎士、ルーチェであった。
ルーチェだと知っていれば彼女も警戒したのだろうが今は全くの無警戒。されるがままに、振り向いた瞬間に頬へぷすりと指を当てられてしまう。悪戯好きな性格なのは周知の事実だ。
「や、クリス。元気みたいだね」
元気なものかと怒鳴ろうとして、彼女、クリスはやめる。ルーチェに当たって何になる。八つ当たりもいいところだ。それよりも味方とわかれば視線は焚き火の周りへ、炙られ油を滴らせている魚の方へと向いてしまう。
「ほら、食べなよ」
ドカッと座りつつ、ルーチェは串に刺さった魚を一尾差し出した。
知らないはずがないだろう。今、聖魔導教団は大切な任務の最中だと。それでも、なぜこんな所にいるのか聞きもせず施してくれる。それに少し違和感を覚えつつ、でもお腹はとても空いていたから、とりあえず受け取りすぐにかぶり付いた。塩気がよく効いていてとても美味しい。一口、また一口と、熱いのにも関わらずハフハフとしながら頬張っていく。
「おー、いい食いっぷりだね」
ルーチェは何も聞かず、水やら果物やら携帯ビスケットやらまで出してくれた。お陰でクリスは腹一杯になるまで食べて飲むことができ、束の間の幸せを感じていた。そこでやめれば良かったのに、ひとつ満足すると別のことが気になってしまうようで、すぐに悲しい現実を思い出してしまい、顔を伏せる。
「……やられたんでしょ?」
聖魔導教団がやられた。そう言われてまた、より一層大変な事態に陥ったと理解する。こうしてはいられない。いられないけど、どうしようもできない。そんなもどかしさ、そしてやるせなさを覚えながら、クリスはコクリと頷くしかなかった。
「生き残りは私だけなんです。皆……溶けちゃいました。どうして私だけが……」
「ふーん……溶けた、ねぇ」
言ってからハッと気付く。人が溶けました。誰が信じるものか。見ていなければクリス自身だって、こいつは馬鹿なんじゃないかと疑うだろう。しかし事実は事実だ。まずは信じて貰えるように見たままのことを説明しなくては。まぁ、信じて貰えない可能性の方が高いだろうな、なんて考えながらクリスは事情を口にしようとしたのだが、
「その答え、知りたい?」
全く想定外の言葉が返って来た。余りの突拍子の無さに、クリスは少しの間、口をぽかんと開けて固まる。こたえ。こたえって、答えという字を書くのだろうか。辞書、辞書はどこだろう。答えって、疑問に対する解答以外の意味があるんじゃないだろうか。そんな訳のわからない思考をグルグルと巡らせていた。
「ぽいっと」
「は、はわっ!?」
開いたままの口に何かが飛び込んで来て、クリスは素っ頓狂な声を上げて飛び退く。幸い変なところへ入っていくことはなく、口の中でコロコロと転がっている。取り出してみると、それは一粒の小さなブドウだった。よくよく観察するとブドウよりも一回り小さな緑色の魔法陣が乗っかるように展開されている。
「な、何するんですか!?」
「ごめん、ごめん。でも窒息しないように注意はしたよ?」
そう、この魔法陣は風魔法のもの。風が発生してブドウが気管へ入るのを防いでいたのだ。そこまで入念に悪戯をするくらいなら何もしないで欲しい、とは言わない。今のおふざけで我に返ったのだ。そしてきちんと理解したのだ。ルーチェは何か知っていると。だったらブドウも悪戯もどうでもよく、その話を聞きたくなってしまっていた。
「そんなことよりも、何か知っているんですか!?」
「んー……全部が全部わかっている訳じゃないけどね。少なくともクリスだけが生き延びた理由はわかるよ。知りたい?」
それだけ知っても今は何にもならないだろうが、それでも、クリスは何でもいいから説明が欲しかった。この理不尽過ぎる現実をどうにかしたかったのだ。それは受容か、はたまた根本的な解決か。どうしたいのかすらわかっていなかったが。
「教えてください! どうして私だけが……!」
「あー、そんなに大声出さないでよ。これでも深夜だよ?」
「う……すみません」
まるで我が家のように振舞ってしまっていたが、忘れてはならない。ここは深夜の森の中。しかも焚火をしているのだ。野盗や獣に「どうぞ見つけてください」とでも言っている状況である。ここで更に大声まで出そうものなら、もう次の瞬間には襲われてしまうかもしれない。
「じゃあ、火を消しますね」
腹ごしらえは終わっているのだから、話をするだけなら火は必要ない。クリスは踏んで消すために立ち上がろうとしたが、それをルーチェは手で制する。
「あー、いいよ、いいよ。今更でしょ」
「そ……それもそう……ですか?」
クリスは首を傾げながらも座り直す。大声を注意したのに火を消さないからだ。だが、火に関してはまったくもってその通りだ。今更消して何になる。2人を狙う奴がいるとすれば、とっくの昔に狙いを定めているか、もう襲いかかっているだろう。しかし辺りを見渡せばとても穏やかで、少し冷たい風が吹き抜けると、さぁっと葉の擦れる音がする。
「この風を聞いていたいからさ、ごめんね。それに大声は苦手でさ」
「あぁ、そうでしたか」
確かに、風とそれに揺られる木々のざわめきはとても心地よいものだった。平時なら心を落ち着けることができ、とても安らかな気持ちになれるだろう。仕事の疲れも癒えるだろう。だが、今はそんな気分にはなれなかった。だからクリスはじっと、ルーチェの顔を見つめて言葉を待つ。
「本題に入ろうか」
その心中を察して小さく笑ったルーチェは、首の後ろへ両手をやって、何かを外して差し出す。女神のペンダントだった。両翼を広げた横姿の形をしている。
それを見て、クリスもまた同様にペンダントを外して差し出す。全く同じ物だった。だがこれは街で若い子に流行っているとか、騎士の証とか、そういう安い物ではない。その意味するところをクリスは知らなかった。
「これは証でありお守りでもある、リリス様から賜った四大将軍のペンダントだよ」
「よ……四大将軍の……!?」
そんな畏れ多い物をどうして持っているのか。それは、ロアに押し付けられていたからだ。更にこの戦いに参戦する条件として、このペンダントを身に付けるよう強く言われていたからだ。受け取った時はさぞ強力と謳われているお守りなんだろうなと、そのくらいにしか考えていなかったのだが、まさか四大将軍の証だったとは。
余りに衝撃的過ぎてクリスは動揺し、手から落としそうになってしまう。
「ほら、大事に持っていないと。それはお守りでもあるんだから」
「は……はいって、お守り?」
クリス自身も考えていたじゃないか。ロアが出発前にあれだけ強く言って渡してきた物だ。さぞ強力なお守りなのだろう、と。実際にその通りだった。これは四大将軍の証であると同時に強力な力を秘めたお守りだったのである。
「それはね、所有者のことを守ってくれる魔法のお守りなんだって。実体験したでしょ?」
「実体験……? あ……」
クリスはすぐに理解した。皆が一斉に溶け出したのにも関わらず、なぜ自分だけが生還したのか。答えはこれだったのだ。四大将軍を守るためのペンダントが、本来の持ち主ではない彼女を守ったのだ。
「いい父親じゃない?」
闇夜に浮かぶ月を眺めながら、しみじみとルーチェはそう口にした。彼女もまた思うことがない訳ではなかった。
ロアはとても優秀な人物だった。十年、いや、ひょっとすると百年に1人いるかどうかと言ってもいいくらいの。魔法の才能だけを見ればこの先、似た資質を備えた天才が現れるかもしれない。しかし彼はそれをひけらかすことを一切せず、常に同胞たちのことを案じて身を粉にする性格だったのだ。いるだろうか。そんな心優しい天才が。少なくとも過去百年にはいなかっただろうと、誰もがそう口にしていた。
「ぜ、全然良くないです! 私、一人前の騎士として認めて貰えていないってことじゃないですか!」
だが、ロアは少々親馬鹿で過保護なところがあった。目に入れても痛くない愛娘として、蝶よ花よと育てていたのもまた誰もが知っている。聖天騎士団や聖魔導教団だけでなく、一般市民ですら知っていただろう。
それをクリスは素直に受け入れず、だからこその参戦だったのだ、今回は。それが蓋を開けてみれば、絶対に死なないようにと四大将軍の証を押し付けられていた。四大将軍かつ聖魔導教団の団長でもあるロアが、この辺りの危険性を知らなかったはずがない。ならば、それはもう生存権の押し付けでもあっただろう。
「どうしてそう思うの?」
それだけ手厚く守られていて、何が不満なのか。ルーチェは本気で理解できなかった。また、理解したいとも本心では思っていなかった。恵まれた環境で何一つ不自由せず暮らせただろうに、それを自ら蹴ってまでクリスはここにいる。一方で、自分は槍を持たざるを得なかっただけ。足掻いて、もがいて、日々死ぬ気で努力を重ねて、そうしてやっとここにいるというのに。内心、少々憎らしくも思っていた。
「だって、私だけ生き延びろって言われたようなものじゃないですか! こうして1人だけノコノコと……!」
「貴女、相当誤解しているみたいだね」
これはもう気紛れとしか言いようがなかった。本当は腹を満たさせたら放り出すだけの予定だったのだ、ルーチェは。だがロアには世話になったからと、話まで親身に聞いてあげたら予想以上の世間知らず。正直に言ってしまえば開いた口が塞がらないというやつだった。だからここから先は出血大サービスである。
「いいよ、もう寝るしかないし、ひとつずつ説明してあげる。まず、やっぱりロア様はいい父親だよ。自分が生きるために子どもを餌にする奴ばっかりの世の中でさ、自分の命よりも我が子の未来に希望を見出だしたんでしょ? 立派な父親じゃない」
「だから、それは私を認めていないってことじゃないですか!」
「全然違うっての。どう言ったらいいのかなぁ」
ルーチェは小さく溜め息を吐きながら、もう言ってしまおうかと決意する。ここまで不快な思いをさせられたのだ。ちょっとくらい辛い現実を知らしめても罰は当たらないだろう。それに可愛い子には旅をさせよ、我が子を谷に突き落とす、なんていう話もあるくらいだ、なんて考えながら。
「そもそもね、前提からして間違っている。クリスは騎士のつもりだったんでしょ? だったらさ、皆が溶け出した現場にいたならさ、残って原因を究明するなり、敵を探して打ち倒すなりできたはずでしょ。それなのに一目散に逃げ出して、どうして一人前の騎士って胸を張れるの?」
「わ、私は! 逃げるつもりなんてなかったんです! それなのに、体は言うことを聞いてくれなくて……。逃げろって言われて、そう動いちゃっていて……」
「ふーん、わかっているじゃない」
クリスは目に見えてわかる程に項垂れていた。ちょっと言い過ぎただろうかと罪悪感を覚えないでもなかったが、何を馬鹿なことを、とルーチェは思い直す。彼女がいたのは戦場だ。それも未知の敵が潜む過酷な戦場だ。逃げ延びさせて貰っておいて恨むなど筋違いも甚だしい。甚だしいが、結果は結果だ。
「でも、それの何が悪いの?」
だからルーチェは助け船も出してやることにした。でも、いや待てよと、すぐに思い直す。これは助け舟なのだろうか。余計に傷付けてしまうんじゃないだろうか。これから話すつもりの内容を考えれば、そんな気がしてならない。でももう言ってしまったのだから貫き通すことにした。
「な……何を言うんですか? 誇り高き聖魔導教団の一員が、例え得体の知れない凶悪な相手とはいえ、背を向けて逃げ出すなんて……あってはならないんです」
「いやいや、それは綺麗事でしょ。そんな世界を救うみたいなこと、誰もできっこないって」
「そんなことはありません! お父さんも、聖魔導教団の皆も、これまでたくさんの人を守ってきたんですから!」
その目はとても澄み渡っていた。心からそう信じているような目をしている。救えると。実際に救ってきたのだと。聖魔導教団が、いや、ただの人が他人を。余りにも滑稽過ぎて、ルーチェは失笑してしまう。
「人はそんなにたくさん守れないよ。大体の人がひとつ、いいとこふたつが限界だって」
「そんなことありません! それに、ひとつは守れるってルーチェさんだってわかっているじゃないですか! だったら私たちは多くの人たちを……!」
「甘いっ!」
ルーチェは、自分でも驚く程に大きな声で一喝していた。余りにも甘過ぎてこのままいなくなってしまおうかな、とも考えた。だが憎らしさが勝ってしまう。我慢ならないのだ。こんな理想論者をこのまま帰してしまっては地獄が蔓延する。だから無駄としか思えない話を続けることにする。
「人が守れるのは大体ひとつ、いいとこふたつ。そのひとつは自分だよ。頭でどう考えていても結局は自分が一番可愛いものだからね。でも騎士は戦場に立つ。自分の命を手放して、それでも守りたいものがあるから、その何かをひとつに据えて剣を取るの。こんな所ではまだ死にたくない。命をかける程のことは別にある。そう思って逃げ出した貴女に、騎士をどうこう言う資格は無い」
「で……でも、それでも……」
「自分を守りながら他の何かを守れる人もいるよ? でもね、そういう人は英雄っていうの。一握りの、稀代の、それこそ貴女のお父さんみたいな、ね」
畳みかけて言ってしまってから、あぁ、そういえば助け舟を出してやろうとしたんだったなとルーチェは思い出していた。だが、結果は危惧した通り。現実を突き付けてしまっただけだった。さて、どうしたものか。このまま放置したら思い詰めて自殺してしまうかもしれない。それではロアに対して余りにも申し訳なさ過ぎる。そこで、今度こそきちんと助け舟を出すことにした。
「でもね、さっきも言ったけど何が悪いの? 生きたいって願って何が悪いの?」
「それは……そうかも、ですけど……」
騎士なんて大それた仕事に憧れながら頑張って来たのがクリスだ。いや、クリスに限った話ではないのかもしれない。毎年入る新人の多くは、絵本に出て来るような英雄の華々しい武勇に憧れて、自分も将来そうなりたいという夢や希望を持っているとルーチェは聞いていた。それがどれだけ分不相応だったとしても、それを理解できないまま一生を終える者も多いのだと知っていた。今、クリスは何の疑問も持たずに夢に向かって突き進んでいるのだから、それを変えてあげるのは面倒。だったら、ここはこんな具合で終わらせようかなと、ルーチェは言葉を続ける。
「心から譲れないものを前にしたら、何も考えずに立ち向かうものだよ。逃げようとか、何がなんでもやってやるとか、そんなことを考える余裕も無いって。そういう気持ちになれる何かを持てたらクリスも騎士になれるよ、きっと」
「……そう、なのかもしれません」
「大丈夫。いつか絶対に譲りたくない何かができれば、その時は逃げたりなんてしないよ。その選択も含めてロア様のお墨付きなんだから、その命、無駄にしちゃ駄目だからね?」
「……はい」
なんて悪い奴なんだろうな、とルーチェは内心で苦笑いしていた。ここまで諭しておきながら、見ているのはクリスではなく、その後ろにいるロアだけなのだから。でも文句を言われる筋合いはないはずだ。この弱肉強食の世界で、何の見返りも無く、とりあえず今日を生き延びる手助けをしたのだから。
「それじゃあ、はい、これ」
ルーチェは適当に食料と水分を見繕ってまとめて麻袋に押し込めると、ポイっとクリスの前へ放った。これだけあれば首都に戻れるだろう、そんな量である。そして火を踏んで消すと、自分の荷物を手に立ち上がる。
「少し休んだら国に帰るといいよ。例え敗走したのだとしても、その報告があるか無いかで、また要らない犠牲が出るかもしれないからさ」
「要らない……犠牲……」
そのくらいはクリスにもわかっていた。なぜならこの戦いは聖戦だから。リリスやフィリスへ捧げるための、言ってしまえば失敗は許されない大切な戦いなのだ。それなのに誰も戻らない。定時連絡も無い。恐らく全滅したんだろうとは思うだろうが、何がどうなっているのか首都に残っている者たちは知りようがない。まだ戦っている最中かもしれないし、相討ちかもしれないし、本当に皆殺しにされたかもしれない。ひょっとすると寝返った可能性だってある。だが、そのどれも根拠のない推測で、実際のところを確かめるために偵察が出る。そうなればロアたちのように溶け出して死んでしまって、絶望を繰り返していく可能性は大いにあった。
「そういう意味じゃ、貴女の足はこの国の未来すら左右するよ。だから帰るべきだって」
「わかり……ました。でも、ルーチェさんはどうするんですか?」
「決まっているでしょ? 私は行くよ、じゃあね」
手を振りながらルーチェは行こうとするが、手を掴んで止められる。振り返ると妙に決意に満ちた目を向けられていた。これは面倒なことになったと、ルーチェは小さな溜め息を吐いた。
「あの、私も行かせてください! 話を聞いて、本当はどうするべきかわかっています! でも、このまま帰ったら私は立派な騎士になれない気がするんです!」
天啓的な騎士に憧れる若者だ。同い年のはずなのにこうまで違うのかと、ルーチェは嫌悪感すら覚えた。だがまぁ、本来はこうあるべきなのだろう。自分が擦り切れてしまっている異端者なのだろうと思い、努めて優しく手を振り払ってから明確に拒絶する。
「立派な騎士になりたいんだって? ごめんね、私は騎士になんてなりたくない。騎士じゃなくちゃできないことがあったから、仕方なくこういう道を歩んでいるだけなの。ここはその終着点に続く最後の道。だから邪魔はしないでくれない?」
「そ……そんな……」
「生まれた場所、出会った時が違えば、私たちはもっと仲良くなれたかもしれないけどね。残念ながらこの世界はそんなに素敵な場所じゃなかったみたい。だからごめんね、バイバイ」
そう言ってルーチェはそのまま歩き出した。今度は手を掴まれることも、呼び止められることもなかった。それに少しだけ胸を痛めたものの、ここまで来てためらうことなんてありはしない。あの日から過ごしてきた日々の意味は、この先にあるのだから。そう自分に言い聞かせながら、ただひたすらに歩を進めたのだった。




