第19話「紅蓮飛竜隊の末路」
轟々と気流の乱れる音がする。その主は紅蓮飛竜隊であった。マグマのような赤い色を帯びた両翼で、音速にも迫る速さで空を駆け抜ける。ここは彼らだけの戦場だ。この圧倒的なスピードと、そこから繰り出す一撃離脱の戦闘スタイル。これで勝てない相手はほぼいなかった。だからこそ、その構成員たちは些かも顔を曇らせていない。既に勝利を確信している者までいた。特に顕著なのが、一団を率いて戦闘を飛ぶ彼、紅蓮飛竜隊の隊長ローレンだ。体型は太り気味ではあるものの、その往年の力は衰えていない。腐っても上に立つに相応しい疾走を見せる。
「全軍に通達! 間もなくイース・ディードだ! 容赦なく躊躇なく蹂躙せよ!」
まだ豆粒ほどに小さく見えるものの、ものの1分もせずに領土を分かつ関所に辿り着く。前回の反省を生かし、今回はこのスピードのまま一気に飛び越える腹積もりであった。もしもルーチェが警備兵と共に待ち受けていたとしても、この勢いに対抗することはできないだろうという自信に基づいた行軍である。
「隊長、敵の姿が無いようですが」
「ふん、どうせ臆して逃げたのだろう!」
関所の上に人の影は見えない。ルーチェすらいなかった。尻尾を巻いて逃げたのだろう。そう思い気を良くしたローレンは、後方へ振り返り大声を張り上げる。
「我ら紅蓮飛竜隊に敵は無し! 恐れおののく下等生物共を駆逐しろ! 誰がこの世界の覇者として相応しいのかを示すのだ!」
この状況、そしてローレンの言葉を受けて、兵たちの士気はうなぎ上りに高まる。雄叫びのような返答をした後、より一層翼に力を込めて、各々さらに加速した。その様は彼らの心身の高ぶりをよく表している。
だがそれ故に彼らは見落とした。見落としてしまった。それは幻想だと。まだ、ただの一度も勝利を収めていない彼らが一体何を誇れるというのか。何の根拠も無い虚勢に過ぎないことをまだ知らない。気付かない。
今まさに紅蓮飛竜隊が関所を飛び越えようとした時だった。カルマはその大軍を見上げ、ニヤリと悪魔の笑みを浮かべる。おかしいから。余りにも滑稽だから。自らの力量を見誤り、我先にと勇んで墓場へ転がり込んでくる愚か者共を、どうしておかしく思わないことがあろうか。いや、ない。
「――ようこそ、地獄へ」
その言葉は1人残らず全員の耳に届いた。いや、誰もが届いた気がした、に留める。当たり前だ、ここは空。あんな少女の声など聞こえるはずがないのだから。だから越えてしまう。一線を。踏み込んでしまう。無限に広がる絶望の世界へと。
「こ……ここは……」
そこはイース・ディードなどではなかった。いや、皆の常識としてあるはずの自然環境ですらなかった。辺り一面、謎の赤い線が網目状に、そして無尽蔵に走っており、そのどれもが脈打っているかのような動きを見せる。大地はなく、どす黒い液体が流れているだけだ。辺りにはむせ返るほどの血の臭いが充満している。明らかな異常。形容し難い沸き上がる感情に、竜人たちはただただ戸惑い、止まってしまう。
「ふふ……待ちわびたぞ、咎人よ」
「だ……誰だっ!?」
その小さな凛と響く声にローレンたちは即座に反応し辺りを見渡す。そんなことをせずとも目の前に彼女は座っていたというのに。はたと気付くと、彼らはその光景に釘付けとなる。
彼女は翼を持たない。それでも空間中央に佇んでいる。その腰の下にあるのは、椅子でも、普段彼女が座っているケロベロスでもない。周囲を走る赤黒い網目状の何かの終着点。酷く歪な楕円形のそれは、医学的な知識を持つ者ならば直ちに理解するだろう。心臓だと。まだ生きている、しっかりと脈打っているそれだと。
彼女はおもむろにその心臓に手を突っ込むと何かをすくい出すように取り出した。それは金色の杯であった。中身は言うまでもない。どす黒いそれを恍惚とした表情で、くい、と飲み干す。口の端から零れ落ちる雫を指で拭き取り、それすら美味しそうに舐め取りさえもした。
「お前は……た、確か、データにあった……」
悪魔的な所業にたじろぎながらも、ローレンは思い出す。あの子は魔王の配下の1人。名はカルマ。ヴァンパイアの少女だったか。同一時刻に複数個所で見かけられていたことから、分身を作り出せるのだろうとは考えられていた。
「な……なるほど、魔法でこんなけったいな世界を創ったのか」
自身の分身を作るなど、当り前だが容易なことではない。少なくともローレンは聞いたことも無かった。まぁ、そもそも攻撃魔法ばかり研究していた竜人たちにとって、そんな小細工染みた魔法など取るに足らないものだったが。ただ、今ばかりはその認識を少しだけ改めざるを得なかった。
「いやはや、その苦労には素直に感嘆の念を送ろう」
ローレンは魔法の仕組みに関しては疎いが、この禍々しい世界を創造し維持することについては、間違いなく凄いと言わざるを得なかった。世界を作り出したのか、それとも変貌させたのか、はたまたこの場にいる全員に同じ光景を見せる幻惑か。いずれにしてもこの規模はただ事ではない。だからこそ、こればかりは素直な感想であった。
でもだからどうしたというのか。ローレンは念のために一度振り返る。そこにはたくさんの同胞たちが控えていた。紅蓮飛竜隊の全員が揃っているならば何も問題など無いのだ。戦いは数。いかに個が優れていようと、10万対1では勝負にすらなるまい。
「だが、いかに策を弄そうとお前は1人。たった1人でこの数を相手にするなど無謀ではないか?」
大そうな余興を用意されても結局のところ勝敗には影響しない。多少の損害は出るだろうが、それはまぁ、こんな大がかりな魔法を見せてくれた駄賃として払おう。そんな風にローレンは考えていた。
さて、一方のカルマは大変に満足であった。口角を鋭く釣り上げて悪魔の笑みを浮かべる。いつか内に芽生えたこの感情。際限なく膨らんでいくこの醜くどす黒いものは、もう臨界点に達しようとしていたから。奴らは侮辱した。ユウを、仲間を、そしてユウに育まれた大切なカルマ自身さえも。そして今また、身の程も弁えずに言いたい放題されている。いや、させていた、というのが正しい。
少しズレた例えだろうが、空腹は最高の調味料と言う。ならば蹂躙の最高のスパイスはなんだろうか。その答えこそ、カルマの心の中に色濃く渦巻いている殺意に他ならない。
「いや……存外容易いやもしれぬぞ? 己の矮小さを知れ、小わっぱ」
「ふん、そこまで言うなら望み通りにしてやろう! 全軍、構え!」
竜人たちの返答はまばらで、明らかに力のこもっていないものばかりだった。それもそのはず。ローレンと違い、彼らの多くは既に恐怖に体を支配され、戦意を喪失していたのだ。この異様な光景、そしてカルマのあの血を啜る行為を見せ付けられて、それでもなお正常でいられる方がずっと異常。味方が多いからまだ狂う者はいないが、これが1人だとしたら発狂してもおかしくない。
「何だその返事は!? 我らは誇り高き紅蓮飛竜隊だぞ!? それに見ろ、相手は1人だぞ! しかもか弱い魔法師ではないか! 臆する理由がどこにある!?」
「そ、そうだ! 俺たちは紅蓮飛竜隊だ!」
「あんな小娘1人に負けるはずがない!」
「やらなきゃやられる! 皆、行くぞ!」
ローレンのかけ声から始まり、互いに気持ちを奮い立たせる言い合いが始まる。これまでの弱気はどこへやら、涙目になる者、口元が震える者など様々いるが、一様に武器を握り直して戦意を取り戻していった。やらなければやられる。そんな恐怖心に突き動かされた偽りの士気であった。
それでも士気は確かに高まった。彼が片手を上げると一斉に前屈みになる。攻撃準備が整う。
「随分と手の込んだこけ脅しご苦労。だが我ら紅蓮飛竜隊に小細工など通用しない。抗いようのない絶対的な力の前に消し飛ぶがいい!」
合図を受けて竜人たちは飛びかかる。勝つために、いや、もはや生きるためだけに。格好は間違っても付いていない。とめどなく涙が溢れる者、目をギュッと瞑る者、震えて武器を持っているのがやっとの者など、とても無様。ローレン以外は皆、戦士としての矜持を捨てて獣と化した。生存本能をくすぐられて飛び出した小動物のように我武者羅に飛び立ったのだ。
「――愚かよのう」
だから彼らは認識できなかった。突然、火山でも噴火したかのように、地面を流れる黒い何かが噴き上がる。それを浴びた竜人たちは次の瞬間、忽然と姿を消していた。先陣の異様な光景を見てしまった後続は思わず急停止。すぐに辺りを見渡しても、恐る恐る地獄の沼を見下ろしても、影も形も無い。まだ死体があれば平静を保てたかもしれないというのに何もあってくれなかった。もう駄目だ。跡形もなく殺される。そんな恐怖に完全に支配された彼らは怯えて動けなくなる。
「な……何をしている!? さっさと行く……ぞ?」
一番の先頭にいたローレンはあえて無事に残されていた。そのため後方で何が起こったのか見ることすら許されなかった。悲鳴が聞こえて振り返った時には、もう味方がごっそりと減ってしまった後である。そしてそれを目の当たりにした同胞たちが真っ青になってうずくまっているのである。
「お……お前たち、何があった!?」
「え……得体の知れない何かが……」
「何を言っている!? ちゃんと見たんだろ、お前たち!?」
「それが……」
見た。確かに誰かは見たはずだった。でもお生憎様、彼らは見る権利を自ら放棄していた。目を閉じたり、下を向いたりして、前方を見ることもできない状態で突っ込んでいただけなのだ。お陰で味方が攻撃されたというのに、カルマの攻撃手段を全く把握できていない。でもこれだけは言える。火や氷といった明確な脅威ではない。もっと凶悪な何かだ。だってそうだろう。その手の攻撃を受けたら死体が残る。焼け焦げていたり、凍死していたり、あるいはバラバラになっていたかもしれない。それでも死体は必ず見つかるはずだ。
変な話、死体があってくれたならその惨状から脅威を推察する事ができた。でも残念ながら、それすら許されずに突き付けられたのは、塵ひとつ残さず消されるという未知の凶器。未知。これが駄目。理解不能故に手遅れ。植え付けられた恐怖は決して拭えない。
「お、おのれ……! 構えろ! それが紅蓮飛竜隊の隊員の姿か!?」
どれだけ怒鳴られようとも、それに応じた者は半数にも満たない。むしろ、よくこれだけ応じたと褒めても良いくらいだ。死を予感してしゃがみ込んでしまってから立ち直れる者がどれだけいるものか。もっとも、そんな類まれな勇敢な竜人たちですら完全に腰が引けてしまっている。その顔は涙や鼻水でグシャグシャだ。もはや戦いにすらならないのだが、それでも撤退の命令だけはローレンは出そうとしない。
「これ程の力の差を見せ付けられてなお歯向かうとは、脳みそにカビでも生えておるのか?」
「ば、馬鹿にするのも大概にしろ! 俺たちは世界の平和のために剣を取っている! 誰が屈するものか!」
もはや地の底まで戦意が下がってしまった竜人たちは、ローレンの言葉を聞いて目に光を宿す。そう、これは魔王を討つための行軍だ。同胞たちのため、果ては世界すら守るために、全世界を代表してやって来ている。ここで引いたらどうなる。約5年前の大災厄を思い出せ。あの悲劇を再び起こそうとでも言うのかと、口々に言い合いながら奮い立つ。
「そ、そうだ……! 俺たちが諦めてどうする!」
「お、俺たちは世界最強の部隊だ! ここで退いてどうなる!?」
「やってやる、俺はやってやるぞ! 世界を守れるのは俺たちだけだ!」
互いに鼓舞する台詞を吐きながら、竜人たちは戦う決意を固め直した。そもそもの覚悟が間違っていたのだ。ここまで取り乱してしまったのは、相手は雑魚と侮っていたから。予想外だっただけ。これはあくまでも戦争だ。現実をきちんと認識してしまえば、本物の戦場に出たのだと思えば、この程度の苦難はあって当たり前。まして魔王を相手にするのならなお更ではないか。
「――健気じゃのう」
ポツリ、とカルマは呟いた。その一言だけで固め直したはずの戦意をごっそり削ってしまう。力なく落下していく者、失禁してしまう者など、脱落者は少なくない。
だが、この程度で彼女が満足できるはずもない。胸を食い破らんとするような殺意は、弱った小動物を更に痛めつけるだけでは満たされない。しかし甘美ではある。その絶望に満ちた顔をもっと見たくて、ドスの利いた声で続ける。
「そうでなくては困る。これからが本番じゃからのう」
「ぐ……怯むな! 構え直せ、同胞たちよ! 忘れるな、相手は1人だ! かかれ!」
ローレンの言葉を受け、微かに残った勇気を限界まで振り絞り、一部隊が勢いよく飛び出す。槍を突き出しながらの渾身の突撃だ。その勢いは平時を凌駕していた。火事場の馬鹿力というものだろうか。とにかく、生きたいという強い思いに体が限界を越えて応えていた。
そんな全力以上の攻撃を前にしてカルマは何もしなかった。手すら使わずに黙ってその身で刃を受け止める。
「よし、やった――」
皆、歓喜しかけた。どう見ても刃はカルマに深々と突き刺さっていたから。胸や腹、首など、傍目には急所をいくつも貫いている。そう見えてしまった。
でも現実は非情だ。くつくつと、カルマの口から狂気に満ちた笑いが零れる。
「――気は済んだかのう?」
カルマは死んでいなかった。全身を貫かれながらも無傷。まるで水でも通したように血の一滴も垂れていない。服にすら切れ目ひとつ入っていなかった。
逆に竜人たちは手元を見て絶句する。貫いた槍はたちまち腐敗していき、やがてボロボロと崩れ落ちてしまったのだ。
「ば……化け物……っ!?」
ここまで胸の内に留めていた、決して放ってはいけない絶望のワードが遂に飛び出してしまった。誰の目にも明らかだから。あれはわざとなのだと。罠だったのだと。でも気付くのが遅過ぎた。竜人たちは槍を捨てて逃げ出そうとしたが間に合うはずもない。またしても噴き上がった何かに飲み込まれ、1人残さず綺麗に姿を消してしまった。
「これはまた酷い言われ様じゃのう。ワシはな、主らの心意気に感銘を受けてチャンスをやったのじゃぞ? 勝てぬとわかりながらも立ち上がるその武人としての姿……どうして敬意を払わずにいられようか?」
「戯言を! お前は魔法師! 俺たちの超速攻撃に手も足も出せなかっただけ――!」
その瞬間、ローレンの肩から鮮血が飛ぶ。犯人はカルマだった。鋭利な爪をあえて正面から突き刺していたのだ。なぜ急所ではなく肩なのか、それはローレンが間一髪で避けたからではない。あえて外されただけで、攻撃の初動からここに至るまで、いや、痛みを感じるまでローレンは全く気付けなかった。目で追えなかったのだ。
「もう我慢の限界じゃ。それ以上ワシを侮辱するでない。この身、この力は魔王様に育んで頂いた宝。貴様らなぞ、あらゆる分野で遥かに超越すると知れ」
「お……おのれ!」
ローレンは手にしていた槍を振るうも、カルマはそれを素手で受け取めて、刃を握り潰した。
彼の武器は隊長クラスにのみ与えられる国宝クラスの名刀だ。鍛冶屋の道に一生を捧げた匠が、生涯最高と烙印を押した程の槍であったのだ。それを彼女は易々と粉砕してしまったのである。
「そ……そんな……そんな馬鹿な……っ!?」
ローレンは刺さったままの爪で肩が裂けるのも気にせず、刃を失った槍を抱えてうずくまってしまう。カルマがその力を宝と言うのなら、これは彼にとっての宝。力そのもの。先代の竜神から賜った家宝であり彼のプライドの源でもあった。それが、今、無残にも砕け散ったのである。
そんな無様な姿を見せられた彼女は小さく溜め息を吐くと、爪先の血を払いながら竜人たちの方へ目を向けた。もう戦意は一切合切無いようで怯えおののく者ばかりである。
「一応、確認しておくかのう。ワシらは魔王様の命により命を奪うことを禁じられておる」
その唐突な言葉に竜人たちは安堵する。この異常空間、そして常軌を逸した存在を前にしていたのだ。先の発言から配下たちは魔王の命令に絶対順守すると彼らは理解していた。そして、その魔王の名を嘘の材料にすることも無いと確信を持てている。言わば忠誠という名の保証付き。ただの敵ならばこちらを惑わす言葉にしか思えなくても今は別。助かった。そう瞬時に思い至ったのだ。もっとも、そう簡単に済まされる話でもないだろうとも予想が付いていた。なにせ既に犠牲者は出ているのだから。竜人たちは生唾を飲んで次の言葉を待った。
「ただし、全く無傷で帰しては腹の虫が治まらぬ。生かしはする。じゃが感謝できる狂人はおるまい。それだけは魔王様の名にかけて誓おうぞ」
そんな彼らの様子から、その心情が手に取るようにわかっていたカルマはあえてユウの名を出して宣言した。するとほら、彼らは力なく崩れた。自ら池に飛び込む者まで現れた。命あっての物種と言うが、生きている方がよほど辛いような状態にさせられる。そんな想像をさせられてはもう無理。限界。理性は崩壊。後は転がるだけ。地獄へ。死へ。その方がまだ良いと思ってしまう。
既に半数を割ったものの、まだ死ぬこともできず、しかし立ち向かう勇気も出せない者たちだけが残る。彼女はこれからそれらの処理をしなくてはならない。処理。そう考えているが実際には有効活用。締めに使うための下処理である。
「黄昏で嘆き苦しむ亡者共に告ぐ。朽ちてなお奇跡を渇望するならば天上を見上げよ……」
それは目であった。正気を失い血走っている眼が、荒れ狂うどす黒い液体の中に無数に現れて竜人たちを捉える。カルマの詠唱に呼応して更にその数を増していく。
「ひ……! な、何だよ、あれ……!」
「目……だ。目だっ!」
とうに限界を迎えていた彼らの精神状態ではもはや現実を直視できるはずもなく、理性が更に崩壊した。まともな悲鳴を上げられる者はまだ良い方。気が触れてしまい、笑い出す者、泣き出す者、言葉にならない悲鳴を上げる者など、発狂してしまった者が続出し始めた。
「……怯むな」
そんな中、刃を失った槍を呆然と見つめていたローレンが一言呟く。それを皮切りに彼の目には闘志が戻っていき、体や言葉にも力がこもっていく。
「怯むな……怯んでは駄目だ。そうだ、まだ終わった訳ではない! 同胞たちよ、聞け! あれは魔法だ! 幻覚、こちらを惑わす狡い手口! 翻弄されるな! 詠唱を止めればあのまやかしも霧散する!」
「そ……その通りだ。騙されては駄目だ」
正直、カルマは驚愕した。ここまで完膚なきまでに叩き潰したというのに、ローレンの号令ひとつで、まだそんなことを言える者がいたのだから。それも1人2人とかいうレベルではない。実に百人近くが立ち上がったのである。
「一点集中突破で行くぞ! 陣形を魚鱗陣へ!」
少数ながらも前方に突出した形の隊列を組み一斉に槍を構える。左右や後方からの攻撃など一切顧みていない。カルマにのみ狙いを定めた決死の覚悟の表れだった。後は言葉など要らない。死の恐怖を超越した彼らの意思はとても深い部分で共有されている。何の合図も無しに一斉に竜人たちは突撃を開始する。
「……その意気は嫌いではないがのう」
詠唱の途中だというのに、カルマは一旦止めてそんな言葉を呟いた。敵であるはずの彼らに素直に敬意を払いたくなったのである。だが勝負は別だ。何より、そんな敬いすら霞むほどの怒りを彼女は覚えている。手を休めることはなく詠唱を直ちに再開。迫る竜人たちはあの噴火であっさりと処理した。
さて、この勇敢な最後の攻勢は一部の者で行われている。傍観している者が大多数だ。だからこそ、傍目で絶望しながら呆然と見つめていたからこそ、ようやくその脅威の正体がわかった。何が起こっているのか理解できた。手だ。どす黒い腐った手が地面から伸びて、兵たちを鷲掴みにするとそのまま引きずり込んでいったのだ。
「……生を浪費する愚者どもは、さぞ美味だろう」
悪いことに、あの目が何なのかすら判明してしまう。勇敢な者たちはまた1人残さず引きずり込まれた。その行方を目で追ったからこそ理解できたのだ。そう、あの液体らしきものに触れた者は周囲に浮かぶ目と全く同じ形相を浮かべ、声を上げることすら許されずに顔だけ水面から覗かせていたのである。死んではいなかった。でもあの苦悶に満ちた目は、ただの死体が見つかる以上の絶望を覚えさせた。
呆然自失の彼らを前にカルマは詠唱を終えた。展開されていた魔法陣から魔力が降り注いでいく。降り注いだのだ。あのどす黒い死の沼へと。
「そら、今日は馳走じゃ。その心を満たすまで存分に食い荒らせ。召喚。トワイライト・プレデター」
すると、それらは汲み上げられたように無数の線を描きながら宙へ昇りカルマの周りを蠢き回る。それは地獄の再現と言っても過言ではないだろう。亡者たちのうめき声のような音を発しながら、ゆっくりと、まるで血の池の中でもがき苦しむように旋回する。
「地獄の宴の開幕じゃ。これに触れたらどうなるか……既によくよく理解しておろう? さぁ、命を惜しまぬ者のみこやつに剣を向けるが良い」
生死すら左右するような重大な局面を前にすると、人は立ち向かうか、立ち止まって固まるか、逃げるかするだろう。まぁ、そんな正常な思考について考える必要なんてもはやないか。立ち向かえる勇者たちは1人残らず消え、御覧の通り逃げ場はあの地獄の池だけ。そんな選択肢から選べるだけの余力を残している者は1人たりともいない。
本来はここまでの魔法を使う必要などない。明らかなオーバーキル。死体蹴りのような状態だ。それでもカルマにはここまでやってしまうだけの理由があった。
「くそ……お前ら、いつまで泣いているんだ!? それでも誇り高き紅蓮飛竜隊の一員か!?」
もう気力を奮い立たせているのはローレンだけだった。しかし彼に尻を叩かれて無理矢理立たされた者は片っ端からあの手に鷲掴みにされ、地獄へ引きずりこまれていく。そんな光景を見せられては、例え喉元にナイフを突き立てられようとも立ち上がれないだろう。
「お……お願い……します、助けて……」
「何でもします……だから……どうか、どうか……!」
戦えなくともまだ動ける者がいたらしい。武器を捨て、紅蓮飛竜隊の誇りや戦士としての矜持すらも捨てて、顔を涙と鼻水でグチャグチャにしながら懇願する。土下座。空中ではあるが、膝を折り、深々と頭を下げる。この謝り方はそう表現する以外にないだろう。
「ふむ、いいじゃろう。ワシは寛容じゃ。チャンスを与えようぞ。闇に飲まれし亡者共も聞け。ただひとつだけ現世に戻る方法がある」
カルマはこれを待っていた。こちらから提案するのではなく、向こうから涙ながらに請われるのを。時は来た。ゆっくりとその手を動かし、周囲に声をかけ続けているローレンを指さす。
「ワシはあれが憎い。ただただ憎い。故にこれより処断する。道を開け、座して見守れ。さすれば解放するのじゃ、この地獄から」
「な……! ふ、ふざけるな! なぜ俺なんだ!?」
「戦犯が抜け抜けと何を言う?」
「せ……責任は俺にあると言うのか!? 全責任は代表者である……っ!?」
言い欠けたローレンだったが、カルマはそれ以上口にすることを許さない。トワイライト・プレデターを使役し、どす黒い手で顔を覆い隠してしまう。
彼は必死に抗う。が、無駄。引き剥がそうともがくものの、爪が剥げるほど強く掴んでいるのに手はビクともしない。
「さて……今一度聞け、これに踊らされた憐れな竜人たちよ。この男は全ての責は代表者にあると言い欠けた。否、断じて否じゃ。ナディアは魔王様と和平交渉をしておった。無用な争いは望んでいなかったのじゃ。ほれ、どうなのじゃ。ワシの言葉に間違いはあるか?」
どよめきが走る。こんな目に遭ってまで戦う理由はなかった、騙された、等々の言葉が吐き捨てられた。自分勝手である。ローレンが先導していたとはいえ、ナディアの言葉すら無視して独断先行し、こうして開戦を求めたのは彼ら自身でもあるというのに。そんな自らの責任を棚に上げて彼に責任を押し付け出す。
「そ……そうです。あの日、ローレン様は……ローレン様に、俺たちは攻撃させられた!」
「そ、そうだ! それもこれも全てはローレン様のせいだ!」
「ナディア様はお優しい御方だ! 戦争など、そもそも望むはずもない!」
清々しい程の手のひら返しであるが、これこそカルマの望んだ状況。どんな綺麗事を言っても命がかかれば誰もが自己保身のみ考える。それは生物としての生存本能。生への渇望ほど信頼できる要素はあるまい。だからこそ彼女は恐怖で支配した。するとほら、こんなにも忠実な下僕が出来上がる。
「忘れるでない、竜人たちよ。この暴挙を止められなかったお主らにも責はある。ふふ、気が変わったのじゃ、贖罪の機会も与えようぞ」
カルマは腰の下にいる心臓をポンと軽く叩いた。それに呼応するかのように大きな呻き声を上げ、黒い海そのものであるトワイライト・プレデターは色々と吐き出した。解放したのだ、竜人たちを空中へと。これまで地獄の淵で特上の絶望を味わっていた彼らはげっそりとしていたが、ここまでの話を聞いて、ローレンに対して明確な殺意をその目に宿していた。
「あそこに天下の大罪人がおる。あれを捕らえて連れ帰り裁判にかけよ。殺してはならぬ。必ずお主らの信じる正義の法とやらで裁くのじゃ。それが約束できるなら、この地獄は終わりを告げよう。さぁ、行け。生きたければのう」
もはや、いささかもローレンを畏れ敬う者はいない。彼こそ諸悪の根源だと信じて疑っていない。この強固な願望へ本能的に従って、竜人たちはもう止まらない。
「話は済んだぞ、ほれ、ローレン。何か言うてみるがよい」
カルマは拘束を取り払い、竜人たちの前へローレンを差し出す。そして再び金の杯を手に取ると、まるで酒でも楽しむかのように恍惚とした表情でどす黒い何かを飲み始めた。その肴は言うまでもない。
「お……お前たち、馬鹿な真似は止めろ! 上官に楯突くなど深刻な軍規違反だぞ!」
「何言ってんだよ、ナディア様の御心を踏みにじった逆賊が!」
「そうだ、恥を知れ!」
「お前のせいでどれだけの同胞が苦しんだと思っているんだ!?」
竜人たちは競うように飛びかかり、ローレンを力ずくでねじ伏せて後ろ手に拘束する。どこからかロープを取り出す者もいて、直ちに簀巻きのようにしてしまった。
「……如何に大軍であろうと、戦う意義と意思、そして指揮官を根こそぎへし折ってやればゲームセットじゃ。さて、次は地上戦じゃのう。アザレア、そしてフェンリス」
カルマは満足し、ローレンへの興味を失ってしまう。乱暴に杯を放り投げると、どす黒い沼へと身を投げた。そして液体に触れるかどうかのところで霧散してしまう。
言うまでもないことかもしれないが、ここまで彼らを弄んだのは彼女に洗脳されたドッペルゲンガー。当の本人は変わらず関所の壁の上でそれを見物していたが、今度は仲間の活躍へと目を向けたのだった。




