第16話「決戦前夜」
この会議に意味は無い。開戦前の、いや、紅竜同盟にとって最後の会議であるというのに、必要としているのはローレンを初めとする開戦を望む者たちだけだった。
仮にもここは同盟だ。ナディアが皆の総意として開戦の宣言をして初めて合法的に戦争となる。つまり、ナディアのゴーサインを貰ったらもう用は無いと言って飛び出して行ってしまうだろう。
その御旗たる彼は平然とした顔で臨んでいる。それもそのはず。先の独断専行の理由を追及されなかったからだ。もはやそれを非難しても無意味。彼の力は肥大し過ぎており、ナディアがどうこう言ったところで、謝罪の言葉をひとつ貰うのが恐らくやっとだろうから。
「……こんなに腐っていたんだね、ナディア」
誰にも聞こえない声で、レヴィは悔しさを押し込めながら呟く。わかってはいた。覚悟もしていた。でも実際に見てしまえば、こんなにも苦々しい気持ちになってしまうものだろう。
戦は数と言うが、何事においても群れれば正義になってしまう。代表のナディアの言葉すら足蹴にして、あいつはまだここにいる。誇り高き紅竜同盟はいつからこんなにも腐敗していたのだろうか。今となっては、それを振り返る暇すら無い。
「ナディア様、各部隊の出撃準備が整いました。民も開戦を心待ちにしております。予定通り、明朝の正午に作戦を開始します。宜しいですね?」
全く悪びれもしないローレンは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。この一戦の意味を考えれば仕方の無いことだろう。何せ、相手は大災厄の元凶かもしれない魔王なのだ。我らこそ世界最強の軍隊と自負している彼らが指をくわえて見ているなんて、そもそもおかしい話である。
「……その前にひとつ、貴方個人に問いましょう」
「はい、何で御座いましょう?」
ナディアはじっと、ローレンの目を見つめた。どこで何を間違えたのか、その目付きは戦士のそれではなかった。自分の権力を高めることに躍起になった政治家気取りのそれである。それを改めて確認し、心の中で涙を流しながら、表には出さずに問う。
「今一度、民の思いに耳を傾ける事はできますか?」
先ほど、ナディアは見て来た。民はこれまで通り普通の暮らしをしていた。魔王に絶望して怯える者は、少なくともあの茶屋の一件に限れば、ただの1人もいなかった。仮に不安に駆られている者がいれば、戦士であるレヴィを見れば何かしらアクションを起こしそうなものである。しかし、そんな素振りはおろか、民は皆、笑っていた。幸せそうに過ごしていた。一体、どこのどいつが開戦を望んでいたというのか。
「これは異なことを。既に総意は確認済みではありませんか。それに……」
ローレンが手招きをすると、従者たちが映写機を持ってくる。映し出されたホログラムによると、竜神山の麓には竜人の民が多数集まっていた。開戦を望む看板や段幕を手に、今か今かとナディアの宣言を待ち望んでいるようだ。
「これはリアルタイムの映像です。ご覧ください。何を迷うことがありましょうか」
なるほど、大変に都合の良い話だ。タイミングよく今だけ過激な思想を持つ民だけが集まるはずがない。どう見てもやらせ。しかし、ナディアはそのことには触れなかった。ナディアがそうなのだから、レヴィ、メグ、ナーガたちは唇を噛み締めて我慢するしかない。
「貴方の思いは十二分に伝わりました。しかし、これを見せられては奇襲とはいかないでしょう。如何なる敵に対しても相応の対応を取らねば、竜神の威信に関わります」
「む……なるほど、一理ありますな」
民の声を重んずる、篭の鳥のナディアだ。この映像を見せれば即開戦の宣言を出す。そう踏んでいたのだろう。ローレンは当てが外れて露骨に嫌そうな顔をした。
「魔王に対し、開戦の意を告げる特使を派遣しましょう。ローレン、貴方に任せますよ。それが済み次第、戦となります」
「わかりました。では、直ちに出立します!」
しかしナディアの意図を曲解して、途端に機嫌を良くした。最も足の早い部隊に特使を任せるということは、その心は開戦に傾いていると言っているようなもの。そう思ったのはローレンだけではない。彼を取り巻く者たちも、一様に歓喜していた。
「では、本日はこれにて閉会とします。一同、ナディア様に礼」
レヴィの苦々しい言葉で開戦直前の会議は終わる。ローレンを筆頭として、多くの将兵たちが意気揚々と退室していった。
彼らの出陣を見守るように、ナディアは一歩も動かず、目を反らすこともせず、見送った。残った者は極僅かだ。レヴィ、メグ、ナーガの3人と少しの兵たちのみである。
「私たちも戻りましょうか、レヴィ?」
「申し訳ありません。私は所用が御座います」
いつもなら声をかけずとも付いて行くレヴィが断った。しかしナディアは全く驚かない。むしろ、ここに残るのだろうと聞く代わりに問うたのだ。なにせ、メグとナーガまで意味ありげに残っているのだから。
「わかりました。行ってらっしゃいな」
「ありがとうございます。では、失礼します」
それから少しして、ローレンを長とする使節団が完全に出払うのを待ってから、レヴィ、メグ、ナーガの3人は数人しか入れない小さな会議室へ集まる。そこは窓すら無い密室空間。他に参加者はいなく、警備する者もいない。極秘の話し合いである。
蝋燭の灯火に照らされながら、3人は顔を突き合わせるようにして狭いテーブルに着く。
「開戦前の忙しい最中、時間を割いてくださりありがとうございます」
主催者のメグが頭を下げる。というのも、各部隊の隊長は最後の調整に入っているべき時で、こんな集まりに参加する余裕は無いはずだからだ。
「いや、構わない。この戦いに意義は無いのだから」
もっとも、それは通常の戦いの場合。敗北がわかりきっているこの状況、一体何に怒れと言うのかと、ナーガは口惜しげに付け加えた。
「その通りです。正直に言うと初戦、つまり開戦と同時に勝敗は決するでしょう。本来ならば、ですが。レヴィ、あれを」
「これは……地図か……」
ナーガは重い体を無理に引きずるようにして、テーブルの上に広げられた地図を覗き込む。見たことのない地形。しかし、所々に知っている地名が書かれており、それが目に入るにつけ、次第に彼の目に生気が戻り始める。終いには食い入るようにして見入っていた。
「まさか、これはイース・ディードの地図か!?」
「は、はい。その通りで……」
「どうやってこれを!? 入手ルートは!?」
指が食い込むほどに肩を鷲掴みにされながらも、レヴィは痛みよりも恐怖をまず覚える。そして理解する。歴戦の戦士が敗北を悟り絶望していても、これを見るだけで一気に復活してしまうのだと。戦争における地図の重要性を改めて理解したのだ。
「そ……その、ルーチェから貰いました」
「ルーチェ……? まさか、元四大将軍のルーチェか!? この赤丸は何だ!?」
「は、はい。そこは家があるから攻めないで欲しいと」
ナーガは唸り声を上げ、座り込む。家を攻められたくないから地図を渡す。なるほど、普通に考えればあり得ない話だ。でもルーチェは別。特に、あれほど執心していたアデルを救った今、それは信じるしかない事実。
「取り乱してすまなかった。そうか、これは間違いなくルーチェが用意した物だろう。それで、奴は他に何と言っていた?」
レヴィはあの時のやり取りをなるべくそのまま伝える。ルーチェの生い立ちから戦争に必要なことまで、何が必要とされるか判断できなかったから。
そのお陰で、ナーガは更に確信を強めることができていた。この地図に込められた意味は、自分たちを攻撃するなと、その意思表示以外に無いのだと理解した。そして同時に、相変わらず突拍子の無い奴だと苦笑いしつつ、その性格に感謝していた。
「そうか……よくわかった。メグ?」
メグはそんなナーガの心の動きをよくよく観察していた。表情、仕草は勿論のこと、目の動き、呼吸状態、汗のかき方に至るまで。それらを見極める必要があった。なぜなら、ここから話す内容は、ナーガが気持ちで負けていては話にならないからだ。大丈夫だと思えるまでそうした後、そっと地図の一点を指さす。そこには黒い丸印、つまり、ユウたちの居城が示されていた。
「敵の本拠地がわかるならば、こちらにも勝機はあります。ナーガ、貴方にその役目を任せたいと考えておりますが、どうでしょう?」
「よくぞ……俺を選んでくれた。この恩は一生忘れない」
ナーガは涙ぐみ、震える声でそう答える。それを悟られないよう、うつむき隠そうとした。だが溢れ落ちる涙はどうしようもなかったようで服の裾で強引に拭い取っている。
「あの……どうするつもりなんですか?」
2人のやり取りを理解できないレヴィは尋ねてしまう。こんな絶望的な状況に加えて、ナーガが取り乱す程の内容なのだろうとはわかるが、そこまでなのだ。人生経験がそもそも乏しい彼女に察することはできない。
そんな未熟者に対し、先ほどとは違いナーガは穏やかな口調で答える。
「そうか……そうだな。後世の指導もまた、あの御方に託された使命。順を追って確認しようか。メグ、作戦内容の変更部分を説明してくれ」
このまま普通に答えても良いが、と、メグは思案した。ナーガは酷い有り様だ。目を乱暴に脱ぐい拭って、大人泣きを何とか抑えようとしている。ここは本題にすぐ入る前に、もう少しいつもの様に戻ってくれるよう、少しだけ冗談を言うことにした。
「あれ、私もまだ若いんですけど?」
もっとも、これは事実なのだが。ちょっと膨れて見せると、ナーガは多少なりともその意図を理解したらしい。相変わらず目は真っ赤だが、何度か深呼吸して気持ちを入れ替える。
「そう言うな、お前は特別だ」
「はいはい、人使いが荒いですね」
メグは苦笑いして見せてから、今度は大丈夫だろうと、もう一枚の地図。サウス・グリードのものを取り出す。そして2枚の地図を繋げて起き、その結合部分を力強く指し示した。
「ここに、2領を隔てる防壁があります。主戦場は恐らくここでしょう」
「えっと、どうしてそんなことが言えるの?」
メグは意に介した様子はない。というより、質問されなければ説明する意味もないのだから、むしろ歓迎する気持ちで、しっかりと補足説明をする。
「魔王軍と出会うと予想される最初にして最後のポイントですから。魔王はイース・ディードを救うばかりで、支配はしていません。ならば、此度も無益な被害は避けたがるでしょう」
「ふーん……最初で最後のポイント、魔王は被害を避けたがる」
レヴィは素直に聞き入れ、まるで一言一句を暗記するように、口ずさみまでした。事の重大さは彼女なりによくわかっている。どの情報が必要になるかわからない以上、全てを頭に叩き込む。そんな意欲の表れだった。
「ここまでは作戦通り。まず間違いなく、ここで私たちは果てたでしょう」
それについてはレヴィも反論のしようがない。紅竜同盟の勝ち目は薄い。薄い、か。そんな表現ですら盛り過ぎ。贔屓目に見ても皆無だと、よくわかっていた。
「しかし、敵の本拠地がわかるならば話は別。当初の予定では玉砕覚悟の一転集中突破が目標でしたが……」
メグは関所の防壁をなぞるようにして、指を這わせながら続ける。
「数ではこちらに分があります。正確にはあるだろうとの楽観的な予想ですが、ある程度の数を動かせるのは事実。その利を生かし、このように戦線を引き伸ばしてあげれば、魔王軍はどう出るでしょう?」
「勿論、迎撃に出るよね?」
「えぇ、しかも、わざわざか弱い戦力を広げて見せるのです。こちらの狙いは防御の薄い箇所を崩すことと思われるでしょう。向こうは少ないカードを切って対抗してくれる。すると当然、城が手薄になります。そこを叩く」
甲高い音を立てながら、メグは城を叩いた。
如何に敵が強大であろうとも、守る兵のいない城など、ただのハリボテもいいところだ。多少の罠、迎撃システム、そして予備兵力等々は考えられるが、ウロボロスたちを突破するよりはまだ分の良い賭け。そう判断してのことだ。
「で、でも……そんなに上手くいくの? ローレンの奴は聞かないんじゃない?」
「はい、彼には好き勝手にやって貰いましょう」
「え……どういうこと? 戦線を広げるんでしょ?」
「はい。好き勝手に暴れて貰いましょう。ハエというのは、案外厄介なものですよ」
つまり、紅蓮飛竜隊が先陣を切って突っ込み、後方の紅蓮牙竜隊が戦線を広げる。駒の少ない魔王からすれば、これ程面倒なことはない。本来ならば出したくない戦力すら、城から引っ張り出す可能性もあるということだ。
「なるほど……。でも、仮に占拠できたとしても、すぐに奪還されるんじゃない?」
「えぇ、力ずくで取り返されるでしょう。その前に戦争を終わらせれば良いのです」
「ど……どうやって?」
「和平交渉を結びます。こちらに相手の城という切り札が来れば、多少強引でも何とかなるでしょう」
こちらも相当の打撃を受けるだろうが、城を返還すれば、多少の言い分は通るだろう。何も無ければ戦犯として処刑されかねないナディアの命すら、救うよう要求することも不可能ではないかもしれないのだ。
そこまで説明されて、レヴィはようやく納得した。他に手は無さそうだと。何もかもに確固たる根拠は無いものの、何もせず蹂躙されるよりはずっと良い。
「作戦内容はこんな具合だ。わかったらレヴィ、お前はナディア様の傍にいてやってくれ」
「なっ……!? この戦力が少しでも欲しい時に、どうして私を使わないんですか!?」
それは怒りの篭った疑問であった。この話し合いには全く付いていけなかったものの、槍の振り方くらいはわかる。そんな自分を、なぜ邪険にするのかと。ナディアを思う気持ちなら、誰にも負けないというのに。
「ナディア様は強い御方だ。しかしまだ若い。1人で全てを背負い導くには若いのだ。その重荷を少しでも分け与えてくださればと日々苦心してきたものだが……遂に叶わなかった。だが憎らしいことにお前はできる。レヴィ、お前にしかできないんだ」
「ナーガ様……でも、私だって……」
それは、レヴィもまた自信のないことだった。これまでの日々を思い出せ。ナディアとずっと一緒にいたものの、彼女の弱いところを見たことはほとんどなかった。どんな絶望的な状況でも常に余裕そうに微笑んでいた。自分自身の望みなんてほとんど口にもしなくて、やっと本心を聞けたかと思えば、子どもっぽい要求しかされなかった。
「何も難しく考える必要はない。自然体のお前がナディア様に必要とされている。傍にいて、笑い、泣き、怒りをぶつける。そのどれもがナディア様のためになる」
「そういう……ものなの?」
「現に、ナディア様に必要とされ続けてきただろう? その年で親衛隊の隊長などという大役を任されたのが良い証拠だ」
そうなのだろうか。確かに親衛隊の隊長なんて、身に余る役職だとはレヴィ自身も思っていた。でも引き受けたのは、何度も頼まれて折れたからだけではない。
レヴィは漠然と思っていた。ナディアは人形のようだ。本当に生きているのかわからないと。何人もの毒見を経た後の食事を前にしても、竜神祭の屋台がとても賑やかであったとしても、一切ワガママを言わず、皆の前では微笑みを絶やさなかった。代表として自分自身をよく抑えていた。
でもレヴィは知っていた。ナディアがよく侍女たちの談笑に耳を傾けていたことを。そしてそんな時には、皆の前にいる時とは全く違う、少女らしい楽しそうな笑顔を浮かべていたことを。
「貴女がその地位に立つのはナディア様にお願いされたから……本当にそれだけでしょうか?」
全てを見透かしたような質問をメグからぶつけられる。
そうだ。お願いされたからだけ、なんてことはあり得ない。なぜナディアだけがこんな目に遭わなければならないのか。ナディアだってこんなにも生きている。ただ代表という役割に縛られているだけで、女の子らしく色々な物に興味を持ち、素敵な笑顔を浮かべられるはずなのだ。気が付くとそんなことを思い、やがて怒りを覚えていった。そして同時にナディアのために何ができるのかと考え、心の支えになりたいと思うようになったのだ。
「しかし……あえて貴女の思いを一切無視して考えてみましょうか」
「ど、どういうこと?」
もう迷わない。大丈夫、ナディアのために。そう決意を固めかけた矢先、まさかの待ったがかかってしまう。何が始まるのかと、レヴィは小首を傾げた。
「貴女の思いは今更確認せずとも十分にわかっています。ならば、次はナディア様の思いを考えてみませんか?」
「ナディア様の?」
「はい。思い出してください。貴女は一度や二度ではなく、何度も、何度も頼み込まれたのでしょう? 私ですら知っている話です。それはもう、耳にタコができる程に聞いたのだと思います。そこまで断られても、何度も、何度も貴女の所にしか行っていないのですよ。私やナーガではなく、当然ローレンでもなく、貴女でなくては駄目だった。これを信頼と言わず、何といいますか?」
「私が……ナディアに信頼されて……」
槍の振り方は知っているが、実際はまだまだ大したことがない。一兵卒に毛が生えた程度。間違っても、ナーガはおろかローレンにも敵うまい。頭も優れず、こうしてメグやナーガに教えて貰ってばかりだ。そんな自分のどこに、ナディアは信頼を置いているというのか。
「力も知略も経験もはっきり言ってまだまだ。そんな貴女でも、いや、貴女でなくては駄目だと、あのナディア様がワガママを言われています。ありのままの貴女こそ、ナディア様が最も必要としているのですよ。自信を持ちなさい、レヴィ。あの人の隣に立てるのは貴女しかいません」
「メグ様……ナーガ様……」
レヴィはふぅ、とひとつ息を吐き出した。まるで自分の中に溜まった悪い気を追い払うかのように。
信頼されている。そうだ。あのナディアに必要とされて、それに応えたいと思ったから、自分はここにいる。そう誓ったはずだ。
「わかった。ナディアのことは任せて!」
無理に背伸びをしようとしても駄目。ルーチェに惹かれて頑張ろうとしてみたけど、戦いのことは、やっぱりこの2人に任せればいい。今の自分にできること。それはナディアの傍にいること。きっと悲しんでいる。代表としての務めを果たしながら、心の中では泣いているはず。ナディアはそういう人だから。それを知っているのは自分だけだから。
こんな所にはもう留まれない。居ても立ってもいられず、レヴィは部屋を飛び出す。行き先は迷わない。こういう時、ナディアがどこにいるのかなんて、簡単に想像できたから。
残された2人はその背中を見送ると、互いに顔を見合せ、苦笑を浮かべていた。
「若いなぁ……レヴィは。そうは思わないか?」
まるで孫か何かを見守るような温かい目付きのナーガであった。
本心では、あらゆる意味でメグも同意見だ。若さ故に何にでも全力でぶつかれる。一切の採算を考えず、前へ、前へと。そういう風に羨ましく思ってしまいながらも、唇を尖らせない訳にはいかなかった。
「だから、私も若いんですけど? 耄碌するのは戦いが終わってからにしてください」
これでも、メグはレヴィよりも年下である。まだ結婚すら許されない年頃だというのに、もうお婆ちゃん扱いではたまったものではない。
「ははは、そう言うな。この負け戦、格好を付けるためにはお前の力が必要不可欠だ」
ナーガは心からおかしそうにひとしきり笑った後、どこか遠い目をして微動だにしなくなる。まるで死を覚悟したかのような、いや、そんなレベルではないか。死を受け入れ、その上で何かを成そうという、そんな強固な意志を固めようとしているかのような表情となる。
「喜々として死ぬつもりですか、ナーガ様?」
「何を今更。この戦いで生き残るなど……」
「そうではありません。いえ、それはそうなのですが、貴方もあるのでしょう? ナディア様に対して思うところが」
「……お見通しか。本当に、お前は何歳だ?」
きっぱりと言い切られて、ナーガは小さく笑みをこぼす。そしてポツリ、ポツリと語り出した。大切な思い出を懐かしむようにして、ナディアに救われた話を。
ナーガは5年前の大災厄以前から紅竜同盟に所属する戦士。当然、あの日も出陣しないはずがなかった。それでも生き延びたのには訳がある。
全軍出動の号令が先代にかけられ、ナーガもまた戦地へ赴こうと廊下を走っていた時のことだ。
「待ちなさい、ナーガ」
当時、まだ10歳をようやく超えたばかりのナディアに、ナーガが呼び止められた。この一大事だ。一刻の猶予も無く、如何に彼女であろうとも足を止める余裕は無かった。そのはずなのに、幼いながらも放つ、隠し切れない王者のオーラのようなものに引き止められたのだ。
「これは命令です。ここに残りなさい。この戦、今は大敗するでしょう」
「何を馬鹿なことを……。お父上を信じていないのですか?」
先代の代表はとても優れた人物だった。人徳があり、誰からも好かれると同時に崇拝される、まさに王。そのような命令は決してないが、彼が万が一死ねと命じれば、喜んで死にかねない狂信的な者も少なくない。そんな偉大な先代の命令にケチを付けるのかと、ナーガは憤る。
「敵が強大過ぎるのです。とにかく、今は動くことを禁じます」
「申し訳ありませんが、この国難に背を向けることはできません。代表の元へ馳せ参じさせて頂きます」
話を終わらせ、ナーガは走り出そうとした。しかし、その裾をナディアは掴む。いや、足にしがみつく。
なぜ、そこまでして止めるのかと、いよいよナーガの怒りがピークに達した。足下を見下ろし、力ずくでも引き剥がそうとした時だった。ナディアの懐から、ギラリと光る銀色の何かが顔を覗かせる。短刀。銀紙にくるまれた飴か何かと見間違えたのかと、一瞬、ナーガは考えてしまった。それくらいあり得ないことだったのだ。ナディアは、剣はおろかナイフすら危険と言われ、手にすることを許されていないはずだったから。
「どうしても行くと言うのなら、私を刺し殺して行きなさい」
ひょっとすると、生まれて初めて刃物を手にした日かもしれないというのに。ナディアはすっと少し離れ、全く震える様子もなく、堂々と、ナーガの方へ柄を向けて差し出した。
「な……何を馬鹿なことを!?」
「そうですか、ならば――」
ナディアは迷いも躊躇いもなく、真っ直ぐに喉元へ向けて刃を振り下ろそうとする。その動きに淀みは一切無く、死のうとしていた。
「お待ちください!」
刃先を血が伝う。微かに当たった喉から流れ出ていたが、薄皮一枚切れた程度であった。間一髪。ナーガの反射神経が僅かにでも鈍ければ、ナディアは絶命していただろう。ナーガは深々と手に刃が食い込むのも忘れ、ほっと安堵する。
「止めましたね? 私の決定を」
ナディアはふてぶてしくも、そう言った。余りの態度に、ナーガは不敬とわかりながらも、抑え切れない怒りをぶつけてしまう。
「なぜこのようなことをなさるのです!? 御身を大切になさってください!」
「それは貴方にも言えることですよ、ナーガ。貴方が私を止めたように、私もまた貴方を止めたい。これは負け戦。父上も理解している」
「それはあり得ない! 我ら紅竜同盟に限って、そのようなことは!」
「えぇ、そう誰もが信じるからこそ、父上は死地へと赴く。それは間違いであり、同時に正しい代表としての生き方です。しかし私はまだ代表ではありません。故に、過ちに酔しれる者を一人でも多く引き留めようとしています」
話をしていて、ナーガは気付く。ナディアの着ているドレスには足跡が点在していた。ふと冷静になってよく観察してみると、顔や腕には痣がいくつもある。殴られ、蹴られ、それでも1人でも多く引き留めようとしていたのだと、その姿が何よりも物語っていた。
「まさか……ここで何人もお引き留めに?」
ごくり、とナーガの喉が鳴る。そうなのだろうと確信しつつも、どうしても信じられないのだ。
止まるものか。ナーガがそうだったように、将兵たちは戦場へと急いで駆けつけようとしている。流石にナディアに声をかけられれば足は止めるかもしれない。耳を傾けるかもしれない。でも内容がこれでは、こんな目に遭うのは火を見るよりも明らかではないか。それだけ皆は殺気立っているのだから。はっきり言って馬鹿げている。正気の沙汰ではない。
「私は次の代表です。民を守る義務があります。戦地に立つことが父上の戦いならば、貴方たちを救うことが私の戦いです」
ナーガはただただ息を呑む。その目に魅せられる。ナディアは偉大な父親の下、英才教育を受けて育ったのだろう。しかし、悪く言えばそれだけだ。何でもかんでも周りの者が世話をして過ごしてきた箱入り娘。篭の中の鳥。それは仕方のないことだ。生まれてから10年、ずっとそうして過ごしてきたのだから。世間知らずな小娘になるのは必然。
そのはずなのに。ナディアの目は10歳の少女のそれではない。長年戦い抜いてきた歴戦の、英雄と謳われるべき一握りの戦士のそれすら凌駕する。少なくともナーガには生涯その目はできないだろう。そう強く確信してしまう程の決意に満ちた瞳に惹かれ、言葉に詰まる。固まる。その頬を涙が伝っていることに気が付くまで数分はかかってしまった程に。
「……わかりました。そこまでの覚悟があるのなら、地獄の底まででもお付き合いしましょう」
この時、ナーガは決意した。生きようと。例え戦場に赴かずに罵られようとも、最悪の場合は処刑されようとも、それでも構わないと。なぜならこれは、生粋の王たるナディアに命じられた誇るべき選択なのだから。
「貴方は生きなさい、ナーガ。後世のために尽くすこともまた、大切な戦いですよ?」
そう言ってナディアは笑みを浮かべる。邪気が無く、心の底から嬉しいのだろうと察することができるものである。それすら少女の領域を遥かに凌駕し、神々しくすら見えたのだった。
「ふふ、走馬灯のようなものか。まさか、ここまで鮮明に思い出すとは」
ナーガはあの日の事を思い浮かべながら、懐かしみ、同時に決別する。あの日の誓いに。いや、ともすると殉ずることになるのだろうか。生きること、そして後世のために尽力すること。この2つを命じられているのだから、全く不忠にはならなさそうだ。
「まぁ、怒られるだろうな、俺は。この救われた命……無為に、いや、またしてもと言うべきか。投げ捨てるのだから。しかし、お陰で後ろめたさも無くなった。聞いてくれてありがとう」
黙して耳を傾けていたメグは、小さく頷くと、目を反らしながら口を開く。
「それは良かったです。では、お返しと言っては何ですが、私の話もしておきましょうか。ふふ、そうは言っても、すぐに済んでしまいますが」
「いや、そのようなことはない。実力だけでここまで上り詰めたその話、大変に興味がある」
「そうですか、では」
これまで誰にも語ったことのない話なのだろう。メグは珍しく言葉を選びながら、ゆっくりと、静かに話し始める。
メグがその才能を開花させたのは、いつのことだったか。物心がつく以前か、それ以降かすら曖昧である。ただこれだけは覚えている。大の大人たちがこぞって勝負を挑んできては、それら全てを打ち負かし続けてきた。勝負は問わない。将棋やチェスのような戦力ゲームは勿論、ポーカーやブラックジャックなどの賭け事であろうと、ただの1度も負けなかった。次第に対戦相手のレベルは上がっていったらしい。初めはそこら辺で威張っている大人たちだったが、我こそ知略に自信ありと豪語し、実際にその手の大会で成績を残している者もやって来る。
「……チェックメイトです」
対戦相手のレベルが上がったらしいと言った。そう、実際はどうあれ、らしいと言うに留まってしまう。関係ないのだ、メグには。
「ば……馬鹿な、この俺すら、こんな小娘に」
世界大会の金メダルやトロフィー、賞金王などを名乗られようと、最初の頃に戦っていたそこら辺の大人と違いはない。全員、例外なく打ち負かす。完膚なきまでに叩き潰す。そうしてやってきて、メグは智将の道を志すようになった。この力がどこまで通用するのか、紅竜同盟の中で試したかったから。
「駄目だ、駄目だ。実践はお遊びとは違うぞ」
「そうそう、お嬢ちゃんはおままごとでもして遊んでいなさい」
お払い箱だった。それもそのはず、メグはまだ子ども。しかも女である。いくら駒遊びで最強であろうとも、その才能をきちんと評価されることはなく、どこに行っても子ども扱い。稀有な実力を持っているのに、拾い上げられることすらなかったのである。
「私は女で、そして子どもです。どれだけ努力を重ねようと認められることはありませんでした。あの日、ナディア様に出会うまでは」
ある日、いつものようにチェスの大会に出場していた時のこと。メグは当然のように相手を圧倒した。常勝無敗が普通。それ以外は誰も期待していない。だから、どんな美しい手を見せようと、ちょっと劣勢になってみせてから逆転しようと、歓声は上がらない。評価もされない。つまらない、ただの作業を繰り返した。
それは勝負の後のことだ。蜘蛛の巣が張り、埃まみれの、見るからに使われていない倉庫で、メグは帰り支度をしていた時のこと。突然、外が騒がしくなる。
「お待ちください、そちらは汚い所です!」
汚い。そうか、自分はそんな所に押し込められているのか。他の選手たちは豪華な個室を与えられているのに。メグは顔を曇らせた。さっさと出て行こう。こんな所にいても悲しくなるだけだから。そう自分に言い聞かせ、コートを羽織った時だった。扉が開け放たれたのである。
「あ……貴女様は……」
純白のドレスに身を包んだ、この国の代表の娘、ナディアであった。埃が舞う室内に対し、一切表情を歪めることなく、一歩、また一歩と歩み出す。
「先ほどの戦い、見せて貰いました」
「あ……き、恐縮です」
なぜ、どうして。余りの驚きにメグはやっとそれだけ吐き出すと、はたと膝を折って頭を垂れた。いや、垂れようとした。
「それには及びません」
「いえ、そういう訳には……って、何を!?」
ナディアは埃の積もった床に、さも当然のように膝を着き、頭を垂れたメグと視線を合わせたのである。これには、遅れて入ってきた従者たちが悲鳴を上げた。
「ナディア様! そのような御戯れは御止めください!」
しかし、全く意に介した様子もなく、ナディアは一言、
「貴女、凄いのですね」
「……あ」
そんな言葉をかけてくれたのだ。この状況、そしてこの態度。わざわざそう言うためだけに、こんな所まで足を運んだのは明白だ。他の誰でもない、自分のために。その言葉が、権威ある者に認められたということが、どれだけメグの心を救ったか。生まれて初めて、メグは涙を流した。世界王者に勝った時ですら、こんなにも嬉しくはなかったというのに。
「貴女の立場は知っています。女、子どもだからと門前払いされたのでしょう? 誠に申し訳ありませんでした。今の紅竜同盟では、貴女は正しく評価されることはないでしょう。しかし願わくば、私個人に仕えて頂けませんか? 決して、悪いようにはしませんので」
「でも、私は……お遊びしかできなくて……」
「ではこう言いましょう。メグ、貴女はこれからの世に、絶対になくてはならない人材です。他の誰でもない貴女が、私は欲しい」
そこまで語り終えると、メグは気恥ずかしそうに頬を赤らめた。初めて過去を打ち明けたのだから、いくら冷静沈着な彼女でも仕方あるまい。いや、むしろそうあるべきか。なぜなら、それだけ彼女にとっては大切な話。自身の命と同等かそれ以上の出会いだったのだから、淡々と、スラスラとなんて言える訳がない。
「ナディア様と出会って、召し抱えて頂いて……どれだけ救われたことか。私の生きた全てが初めて肯定され、認められさえしたのです。だからこそ、私は何も迷いはしません。剣は取れませんが、例え最後の1人になろうとも足掻いてみせましょう」
「そうだな……我々は幸運だ。あの御方は物事の本質を見ようとしてくださる。断じて通例や慣例だけで判断しない。歴史を紐解いても、あのような王は2人といまい」
「わざわざ過去の文献をひっくり返さずともそれは明白です。今を見るだけで良いのですから」
「なるほど、今以上に歴史の答えは無いと言うか。真にその通りだ。ナディア様が2人いたならば、世界はきっと恒久的に平和だっただろうに」
どちらともなく時計を見る。もう時間は無い。まさに無駄な足掻きでしかないが、メグが言ったように、最後まで諦めるつもりはどちらにもない。出撃準備を万全にするにはもう行かなくてはならなくて、それはつまり、きっと今生の別れとなるだろう。
ナーガはおもむろにグラスを2つ、そして高級な葡萄酒が入った小さなボトルを取り出す。
「こんな時だ。一献どうだ?」
これは戦士たちの神聖な儀式だ。互いに華々しい武勇を飾れるよう、景気づけするために行われる。出陣直前に兵たちの指揮を高めるためのものならば、相応に大きな樽が用意される。しかし、このような小さなボトルの時はまた別の意味も込められる。きっとまた再会しよう、友よ、と。
基本スペックの高い竜人たちの間では珍しいやり取りだが、全く無い訳ではない。当り前の話だが、戦は命のやり取りをするものだ。いかに竜人であろうと死ぬ時は死ぬ。他の種族と変わらず、最悪の場合は全滅することもあるのだ。驕りを捨て、万全の気持ちで臨めるようにする。そんな遠回しな思いも込められた、真摯な杯である。
「辞退します」
それを、メグは拒んだ。その意味、知らぬはずがない。加えて今のナーガがどのような意図で申し出たか、それすらよくよく理解しつつ断固とした意志を示す。
「私はナディア様が認めてくださった自分を大切にしたい。それが、今の私にできる数少ない御奉公なのですから」
こんなにも大人ぶっているが、メグはまだ子どもだ。酒を飲んで良い年齢ではない。別に罰則はなく、往々にして守られない決まりではあるが、それでも、メグはただの一滴すら口にしたことがなかった。大げさな、と笑う者は多いだろう。しかし戦士のように剣を握れず、侍女のようにお世話も満足にできない彼女にとっては、ここだけは譲れないところだった。
初め、ナーガはショックだった。もはや彼の中では、気心の知れた、絶対にまた再会したいと強く願った友であったから。しかしその目を見て、その思いを聞いて、むしろ嬉しくすら思った。些細なことではあるものの、一切の妥協なく忠義を尽くそうとする姿勢がよく表れていたから。
「その忠心、見事だ。そこまで考えが及ばなかったとは、俺は自分が恥ずかしい」
「何を言うのですか。戦士とは、仲間と酒を酌み交わして士気を高めるのでしょう? そのようなありがたい心遣いを足蹴にした小娘を許してくださったのです。立派な器をお持ちではありませんか。やはり、ナディア様の目に狂いはなかったということでしょう?」
「こんな俺すらも、ナディア様に報いていると言ってくれるか。ありがとう、メグ。俺は、お前と出会えて良かった」
生まれた時は違えども、2人の間に年などという余計な差などありはしない。2人は最後に熱く握手を交わし、部屋を出て行く。言葉はない。だが、どちらにも強い確信があった。自分が思っていることを、相手も思っているだろうと。願わくば、またいつか、どこかで巡り合おう。事実、一言一句そのままに心の中で言いながら、2人は自身が率いる部隊へと急いだ。




