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魔王と配下の英雄譚  作者: るちぇ。
第2章 暁の竜神
37/51

第13話「温泉」

 数メートル先が見えない程の湯けむり。心が溶けてしまいそうな癒される香り。そして体の芯までポカポカしそうな温かさ。これこそ日本人に生まれて良かったと思う娯楽のひとつ、温泉である。

 簡単に体を流してから足先を浸けてみる。思わず情けない声が出てしまう。これだよ、これ。オヤジ臭いかもしれないけど、足先から全身に快感が駆け抜けていくこれは他では絶対に味わえない。そのまま肩まで浸かると、溶けてしまいそうな温かさが余りにも心地良くて、思わず長く息を吐いてしまう。


「……いい湯だなぁ」


 俺は温泉が大好きだ。よくお気に入りの所へ行ってはこんな感じで気持ち良くなって、家の風呂が少し物足りなく感じたものだ。

 普通のお湯と温泉は全く違う。体の温まり方が段違いで、少し浸かっただけでも湯冷めしにくい。しかも心地よい疲労感が得られるのが大きい。この適度な疲れを覚えてからベッドに倒れ込んでみろ。もうね、これ以上の快楽を俺は知らない。

 加えて、この湯は恐らくアルカリ性の成分なんだろうとわかる。お湯が少しトロトロしていて、肌がツルツルになっているからな。酸性や中性よりもアルカリ性の方が好きだからたまらない。

 まとめると、この温泉はとても良い気持ちだ。


「そうで御座いますね、我が君」


 長い髪を後ろで束ねたウロボロスが隣に入り、ピッタリとくっついてくる。これを幸と見るか不幸と見るか。後者にしたら誰に刺されかねないのだが、だからといって幸運とは思いがたい。さっきまでとは打って変わって、妙に緊張してしまってリラックスし切れない。この世界に来てから初めての温泉だというのに。


「なぁ、ウロボロス。やっぱり水着だけでも着てくれたりしないか?」

「何を言うのですか、我が君。裸の付き合いは大切と本に書いてありましたよ」


 誰だ、そんな嬉しい、あ、いや、邪な教えを説く本を書いたのは。天晴れ。じゃなくて、ちゃんと書いておけ。裸の付き合い云々っていうのは同姓に限るのだと。そうしないとこんな素敵なハプニングが起こっちゃうだろう。


「それは燃やせ。邪教が記されている」

「何と、左様でしたか。ではこの後に夜を共にする展開も……?」


 あぁ、その発言と本気過ぎる眼差しで理解した。ウロボロスが読んだのはエロ本だ。きっとこの温泉は前座で、夜を共にする方を事細かに記しているに違いない。

 本当に誰だよ、そんな本をウロボロスに渡したのは。これはあくまでも予想でしかないが、温泉の後にイチャイチャする内容だったからまだ良かったものの、最中に事が始まっていたら終わっていた。


「無しだ、無し。大体な、そういうのは大切な過程があった上で初めて成り立つんだぞ。温泉は合意の上で脱ぐ場所じゃない。不適切だ」


 そのエロ本を抜きにしても、なんなら据え膳食わぬは男の恥と言うけど、このままベッドインは何か違う。あくまでも今は温泉で気持ち良くなるのが最優先。そこで居合わせた裸の人たちに欲情するなんて言語道断。そういう邪な考えはタブーだ。


「なるほど、流石は我が君です。しかし私はいつでも準備万端です。いつでも間違いを犯してくださいませ」


 そう言われても困ってしまう。ただ単にヘタレなのかもしれないけど、ひとつだけ弁明させて貰えば、ウロボロスをそういう目で見たくないんだよな。大切に育てた娘って感じがどうしても拭えないし。

 待てよ。世の中にはそういうのが大好物の変態紳士も数多くいるはずだ。つまり支持者がいるという訳だ。そうとわかれば、いや、そうに違いないから思わず生唾を飲んでしまう。ウロボロスの体を本気で見たくなってしまう。


「……お、温泉に入っているんだ。もっとくつろがないと」


 でも何とか自制する。勝ったのだ、この肌色の誘惑に。褒めてくれ。え、誰にだって。そうだなぁ、この世全ての人に。でも、うーん、どうだろう。いないとは思うが、このシーンを覗き見して良からぬ妄想をしている人がいるとすれば、滅茶苦茶怒られる気がするなぁ。というか、俺だったら「そのままいけよ!」とか言いそうだ。


「むぅ……畏まりました。しかし御身の傍は離れませんよ? これはゼルエル様とデートしていた罰でもあるんですからね?」


 そんなことを上目遣いで言われながら密着具合を高められる。もうね、滅茶苦茶ペッタリしている。この上のランクになると、もはや抱き合う形になるしかない。それくらいギュッと、色々と女性らしいものが惜しげなく押し当てられている。

 対して、誠に遺憾ながら明確な抵抗はできない。今回ばかりは断れない事情、ゼルエルとデートしたのがバレてしまったのである。もうね、思い出したくもない程に怒られた。泣かれもした。どうにか埋め合わせさせてくれと必死にお願いし続けること約1時間、ようやく提案されたのが一緒にお風呂であった。


「……心頭滅却、精神統一、南無阿弥陀仏」


 突っぱねられない以上、ここはもう気合で乗り切るしかない。集中しろ、俺は温泉に入っている。大好きなおっぱ……いや、温泉に触れている。いかん、いつも以上にウロボロスが艶かしくて敵わない。汗が滲み出てほんのりと上気した肌が殺人的だ。


「悪霊退散、邪心滅殺、ガチムチレスリング……」


 間違いが起こらないよう、咄嗟に思い浮かんだイメージを最大限に強める。裸の筋肉マッチョメンが意味もなく取っ組み合いをする光景を、これでもかと盛大に酷い絵面を思い浮かべる。


「さて、ウロボロス。話をしようか」


 極めて紳士的になれた気がする。この流れならいけるだろう。どんなに真面目な話をしても、もう惑わされないはずだ。


「まず、随分といい仕事をしてくれたな」

「お褒め頂き光栄です。温泉に関する文献が少なかったものですから、このようなものしか用意できず申し訳ありません」

「何を言っているんだ。こんなにいい湯は中々に無いぞ」


 温泉を楽しむ要素はいくつかあるが、何を差し置いても無視できないのは泉質だ。お湯には大別すると酸性、中性、アルカリ性の3種類がある。更にそこから分岐する。同じ酸性度でも微妙に含まれる成分が違うのだ。それで肌がスベスベになったり、逆に荒れてしまったりする。

 ではこの温泉はというと、さっきも少し触れたがアルカリ性である。しかも強過ぎず弱過ぎない絶妙な濃度なのだろう。湯上りはきっとお肌がツルツルになっているに違いない。この効能は反則級だ。ぶっちゃけ一般開放すれば一生食っていけると思う。


「……って、そうじゃなくて」


 湯が素晴らしいのはもっともだけど、そっち方面に進むのは脱線というやつである。

 チラリと横目で確認する。ウロボロスは凄く幸せそうな表情をしてくれている。これで満足してくれただろうか。許してくれるだろうか。

 そんな風に考えていた時だった。目が合うと、ウットリとした表情をして額を肩に乗せてくる。


「今は我が君と2人きりです。これほど幸せなことはありません」


 その瞬間だ。あの光景がフラッシュバックする。ウロボロスが倒れて、目が覚めた時もこうしてくれた。額を合わせて心からの笑顔を見せてくれた。

 何を愚かなことを考えていたのだろう。ウロボロスに許して貰う、だって。馬鹿が。忘れたとは言わせない。一体どれだけ支えられてきたと思っている。それを思えば、どうしてここで「もう満足かな」とか、「許してくれないかな」とか考えられるものか。きっかけこそゼルエルだったけど、これは数少ない恩返しのチャンスではないか。

 もっとも、気恥ずかしくはある。これから提案することは、きっと一波乱を起こすだろう。でも大切なのは俺が満足するかどうかではなく、ウロボロスが嬉しいと思ってくれるかどうかだ。


「あー……その、何だ。たまには髪でも洗わせてくれないか?」

「髪を……!? それはもしや、恋人同士がするイチャイチャシーンのあれですか!?」

「別に友達とか親子でもよくある……」

「あぁ、ここで私は大人の階段をまたひとつ駆け上がるのですね!」


 たった一段じゃ済まないだろ、駆け上がったりしたら。行かれ過ぎないように細心の注意を払いつつ、こんなにも嬉しそうにしている気持ちに全力で応えたい。

 湯槽から上がり、ウロボロスは洗い場に置かれた風呂椅子に腰を下ろす。狙ってはいないんだろうが、腰をくねらせたように見えてとても艶かしい。竜の尻尾と翼がある以外は、その体付きは女性そのものだからな。


「お、おい……ウロボロス、普通にしてくれよ、普通に」


 そうとわかりつつも、思わず突っ込んでしまう。これは余りにも刺激的。目の毒過ぎる。

 そんな俺の苦悩を知っているのかいないのか、ウロボロスは心底不思議そうな顔をしながら振り返ってくれる。


「何か不都合が御座いましたか?」

「あぁぁ……こっちを見るな! 髪が洗えない!」

「も、申し訳ありません」


 何を緊張しているんだ、俺は。娘みたいなものなんだろう。いくら大切な所は人間の女性そのものだとしても、ウロボロスはウロボロス。欲情しちゃいけない。仮に、その、最愛の人というやつだったとしても、今は恩返しをする時だ。なおのこと性的興奮を覚えるのは失礼である。


「じゃあ……まずは髪から洗うからな?」

「その……誠に恐縮ですが、よろしくお願い致します」


 今度は顔だけこちらを振り返ってくれる。いつものような暴走振りは見えない。頬を赤く染めて、心なしか瞳が潤んでいるように見える。

 ほら、俺が挙動不審だから不安にさせちゃったじゃないか。折角の機会なんだ。誠心誠意、真剣に洗わないと。


「あ……うん。まずはシャワーを……」


 何、これ。結われた髪を解いて貰うと、しっとりと汗ばんでいるはずなのに凄く綺麗に見えた。触っていいのかとすら思えてしまう。でも洗うのならこのままではいられない。恐る恐る触れてみると、絹か何かと疑ってしまうくらい柔らかい。こんな美しい髪を、がさつな俺なんかが洗っていいのだろうか。良くない。指紋すら付けるべきではない。なんて、そうも言っていられないよなぁ。


「あ、あのさ、ウロボロス。恥ずかしながら……他人の髪を洗ったことがないんだ。だから、その、良ければ色々と教えてくれないか?」


 節約のため980円カットの床屋にしか行ったことのない俺に、この髪はレベルが高過ぎる。初期装備で魔王に挑む馬鹿がいたら止めるだろ。それと同じ。この国宝級の質感に触れていいのは一握りの匠だけだ。


「お気になさらず、如何様にでもなさってください」

「で、でもさ……こんなに綺麗な髪だぞ? 俺なんかが汚しちゃ駄目……とは思うけどさ、何とか頑張ってみたい。だから頼む、教えてくれ」

「どうぞ、思うがままになさってくださいませ。我が君色に染め上げて頂ければ、これ以上の幸せはありません」


 何てことを言ってくれやがるんですか、この人は。今まで散々大変な目に遭わされてきたけど、そんなのがどうでも良く感じるくらいキツイぞ、それ。どこの世界に、そうだな、例えばモナリザの絵画を触る阿呆がいる。

 心臓の鼓動がうるさいくらいに高まる。自分でもわかるくらいに鼻息が荒くなる。手が言うことを聞かず小刻みに揺れる。喉が鳴る。でもやるしかない。やるしかないんだ。


「そ、そこまで言うなら……」


 髪を洗うんだ。まず濡らすところは男女共通だろう。とりあえずシャワーを出して、さぁ、と。ちょっと待て。どこからかけるべきなんだ。頭頂部からか。毛先からか。はたまたその間からか。ひょっとしたら頭皮を濡らさないように、髪だけお湯を馴染ませてあげるんじゃないか。

 悶々と考えに考える。でもわからない。判断材料がない。くっそ、こうなるとわかっていたら、オシャレ雑誌のひとつでも読んでおくべきだった。


「……ふふ」


 おかしそうに笑われる。でも仕方ないだろう。どうすれば髪が痛まないのか、綺麗なままでいてくれるのか、皆目見当も付かないんだ。適当にはやりたくないし。


「私は今、とても幸せで御座います」


 苦しんでいると、思いもよらない言葉をかけてくれた。幸せだって、この状況が。嘘だろ。俺はまだシャワーをかけることすらできていない。


「……まだ何もしていないじゃないか」

「いえ、伝わっています。私のために真剣に悩んでくださっていることが。こんなにも思って頂けるのです。どんなに上手に洗われるよりもずっと価値のある至福の時間です」


 そういうものなのだろうか。床屋とかでこんな風にされていたら、いくらヘアスタイルや良い洗い方なんかを考えてくれていたのだとしても、早くしろって言ってしまいそうなものだけど。

 あ、と気付く。大切なのは髪を洗う云々ではない。真剣に思い悩んでくれることが一番なのだ。例えば、プレゼントを貰う時を想像してみる。余程欲しい物でない限り、嬉しいと思える条件は個人的にはひとつ。一生懸命に選んでくれたということ。自分のために時間を割いて頭を悩ませてくれたということだ。きっとそれと同じなんだろう。


「しかし困りました。このままでは我が君が風邪を引いてしまいます」

「それはウロボロスも同じだって。悪いんだけど、簡単にでいいから洗い方を教えてくれないか?」

「そうですね……はい、畏まりました」


 言われた通りに入念にシャワーで流して、しっかりと泡立てて髪を洗って、たっぷりのお湯をかけて洗い流す。水切りしてからトリートメントも忘れずきちんとやって、これでいいのか。


「よし、できた」

「ありがとうございました。今日という日を一生忘れません」


 まるで我が子を抱くように髪をなでるウロボロス。かなり満足してくれたようだ。でもいくら嬉しいからって、自分の髪を大袈裟に扱うかね。何だか少し恥ずかしい。まぁ、それだけ嬉しそうなら俺もやったかいがある。

 さて、問題はここから。当り前だが俺に洗えるのはここまでだ。髪も髪でハイレベルだったが、それ以外、つまり体を洗うのは不可能と断言できる。要求される前にと、そそくさと自分の体を洗う体勢に変えた。


「その、我が君。体は洗っては頂けないのでしょうか?」

「ごめんな、流石にそれは無理だ」

「むぅ……遠慮なさることなどないのに」


 視界の端で、ウロボロスがこちらを見ながら残念そうにしている姿が見えてしまった。その一瞬の記憶を必死に消そうとしながら自らに言い聞かせる。

 見るな、見てはいけない。負けるな、勝て。意思とは裏腹にそちらを向いてしまいそうな目を制するべく、首を回して見えないように努める。するとどうだろう。体がプルプル震えてしまう。見えない力に引っ張られているような感覚だ。くそ、そこまでして見たいか。ウロボロスのナイスバディを。


「そ……それはまたの機会で。ほ、ほら、湯冷めして風邪を引いたら大変だろ?」


 体に力を込めていないと間違いを犯しかねない状況だ。このまま俺自身の作業に取りかかるのは困難極まりない。ならば、どう足掻いても見えない状況を作ってしまうしかない。

 具体的には泡だ。ウロボロスの髪は洗い終わっている。次に洗顔を済ませてくれれば、最後は体のはず。洗えば泡が付く。見えなくなるだろう、色々と。その時が勝負だ。


「……残念です。次こそは必ずお願いしますね?」

「まぁ、考えておくな」


 考えて終わるけどな、とは言わない。いや、正確には考えることすら禁止だ。良からぬ妄想を膨らませたら敗北は確定的。過ちを犯したいという欲求が強まってしまい、歯止めが利かなくなるかもしれない。あちらさんのストッパーは致命的にガバガバなんだ。俺まで駄目にしたら終了のお知らせだろう。

 さて、後はタイミングの問題。そう思ったところで、この作戦の致命的な欠陥を発見してしまう。ウロボロスの状況を確認できないで、どうやって泡々になったところを見極められるだろう。あえて言おう。詰んだ。


「その、ウロボロス……」


 こうなったら聞くしかない。体を洗い始めたか、と。泡でいっぱいになったか、と。そう一瞬考えたけど、ちょっと待て。ウロボロスは賢い。自分自身の欲望を叶えるために、知力を遺憾なく発揮してくれるに違いない。要は、俺に裸を見せるように本気を出してくれるだろう。そうなってしまっては遅い。


「はい、如何なさいましたか?」

「い……いや、何でもない」


 どうしたものか、と考えて、ヒントをひとつ発見する。会話だ。会話ができるということから、今、ウロボロスは洗顔をしていないのだろう。もう終えたのか、もしくは準備中か。

 では、今は何をしているのか。聞き耳を立ててみると、何やらシャワシャワと、もしかして泡を立てている音が聞こえる。可能性はふたつ。手で泡を立てているか、体を擦っているか。くそ、どちらなのか直ちに判断できなければ取り返しの付かないことになってしまう。


「……そうだ」


 今、俺は抗えている。肉体で肉的欲望を制御できている。それは何も、この首を初めとする四肢や体幹に限るまい。目もできるはずだ。最も凶悪な働きをしようとしている目もまた、瞼を断固たる決意の下に閉じれば屈服するに違いない。

 作戦変更だ。泡だの大切なところが隠れればいいだの、今思うとそれは悪手。考えてもみて欲しい。俺はウロボロスの火照った肌を見ただけで幾度となく負けそうになったんだ。むしろ逆。絶妙に危険な部分を隠しただけの艶やかな肌を見てしまったらもう耐えらなかっただろう。だからこその作戦。目を本気で瞑ったまま全身を洗ってしまえば万事解決する。

 ただし、普通にやっては駄目だろう。何せ、今は全身のフルパワーでもってようやく拮抗できている状態。目如きの筋肉ではあっという間にバランスが崩れてしまう。そこで、これだ。


「……まさか、こんな手を使う日が来るとはな」


 皆、誰しも経験があるだろう。風呂に入っていて、目を開けたくても開けられなくなる状況を。それもとびきりキツイやつが。その答えがこれ。シャンプー。こいつが目に入ろうものなら、例え世界一の美少女が裸でいるとわかっていても刮目するなんて不可能だ。


「じゃ……じゃあ、俺もささっと洗おうかな」


 片手を動かしてみる。ゆっくりと慎重に。なぜだろう。手の動きに合わせて体が少しずつ回転しやがる。ウロボロスの方へ向きやがる。畜生、シャンプーが遠い。遠過ぎるぞ。


「よし……取った……!」


 何とかゲットしたシャンプー。後はこいつを頭からかけて適当にささっと洗って、両眼をカッと見開いて洗い流すだけだ。直接擦り込むのも一瞬考えたけど、それは余りにも恐いし、何より頭がおかしくなったんじゃないかとウロボロスに心配されかねない。熱でも測られたら終わりだ。今度は額を合わせにくるだろうからな。第一、あの剛腕でロックされながら真正面を取られたら、例え見えなくてもジ・エンドだろう。


「えぇい、ままよ!」


 ワンプッシュ。頭に乗せる。シャワーをかける。3秒で洗う。それ以上は無理。体が言うことを聞かない。視界の端に捉えそうな気がする。そこからまたシャワー。ここだ。見ろ、俺の生存をかけた全力を。


「……て、あれ?」


 よくよく考えたら、この泡で全身を洗ったことにしてもいいのではないだろうか。幸いなことにシャンプーをそのまま頭にかけて流したから、体中にも薄く広がっているだろうし。いやね、普段ならこれで終わりなんてあり得ないよ。でもね、この非常事態なら十分な戦果ではないだろうか。


「そうだな……なんて俺は浅はかだったんだ」


 冷静になって考えてみろ。自らシャンプーを目に入れるなんて愚行、どのネジが外れたらやるんだよ。俺は正常。ちょっとだけ危険地帯を歩いているだけの、正常な人間です。

 ならば、ここはシャワーで一気に洗い流せ。もうこうなったら多少見えても構わん。流し終わると同時に湯船へ突入してしまえ。敵前逃亡は罪ではないぞ。


「あ、我が君……?」


 ミッションコンプリート。人として大切な何かを幾度となく失い欠けた、非情に苦しい戦いは終わったんだ。

 ドッと疲れが出て来る。でも気持ちのいい温泉のお陰で、この疲労感すら溶け出してしまいそうな心地よさを感じる。本職の人たちには申し訳ないかもだけど、これが戦士の休息とかいうやつかもしれない。


「お早いですね。湯冷めされたのでしょう? 申し訳ありませんでした」


 そう言うウロボロスも、もう洗い終わったらしい。シャワーで体の泡を流している。なんて綺麗な背中だ。乙女の柔肌というやつだろうか。真っ白で艶やかで、思わず手が伸びそうになるくらいだ。

 と、そこで重要な問題に気が付いた。今、ウロボロスは泡を流している。終わったら当然、湯船に向かって歩いて来るだろう。どうやって。決まっている。真正面から堂々と。

 いかん。これは墓穴。俺が湯船に行くのなら、自分でスピードを調節できるから一瞬で終わっただろう。でもウロボロスは違う。すぐにでも俺の隣に来ようとする意味では素早い動きだろうが、何の淀みもなく一直線に突っ込んで来るだろう。正解はウロボロスが終わるまで、あそこで固まっていることだったのかもしれない。


「あぁ、そうです。私としたことが大切なことを忘れていました」


 何、その不穏な発言は。ここにきてまだ何かやろうと言うのか。やめてくれ、俺のライフはもうゼロだ。

 戦々恐々としながら身構えていると、ウロボロスはおもむろにタオルを手にした。そして胸元辺りから下へ垂らすと、くるりと振り返る。丁度良いところがきっちりと隠れていた。


「殿方の中にはただ裸になるよりも、こうして多少見えない方が好ましいという方もいらっしゃるのでしょう? 我が君は如何でしょうか?」


 どっちでも最高です、とは言わない。というか、どれだけ勉強熱心なんだよ。このまま俺の趣味嗜好を一切教えないでおくと、そういう知識がどんどん増えていって大変な事になる気がしてきた。

 だからといって、今、この場において教えるのは駄目だ。どっちかというと裸派。そう宣言してしまうとタオルが無くなって終わりである。


「……ひとつだけ言っておきたいことがある」


 その時だ。趣味嗜好を完全に暴露することなく、欲望に負けるリスクを減らしたまま、かつ今後の被害を抑えることができるかもしれない。そんな画期的な発想が、この土壇場で思い浮かんだ。


「俺はな、奥ゆかしい女性が好きだな」

「奥ゆかしい……女性ですか?」


 ウロボロスの顔がマジになる。そういえば好みの話をしたことはなかったからな。そうか、だから暴走していたのかもしれない。俺に好かれよう、愛されようとしたくても目指すところがわからないから、不安や焦燥感を強めていたのかもしれないな。なるほど、ならこの話をきちんと決められれば絶対に双方のためになる。


「恥じらいって言えばいいのかな? いや、狙ってするなら出し惜しみって感じか? 例えばそうだなぁ。いつでも見てくれ、どうぞどうぞと出されるリンゴと、これは滅多なことでは出さないからなって言われるリンゴがあったとしよう。どっちが美味しそうに思える? いや、どっちに興味を持ちやすい?」

「それなら、余り出して頂けないリンゴの方でしょうか?」

「そうだよ。実際はどうあれ、特別感があるからまるで高い価値があるように思える。その点、お前はどうだ?」


 ウロボロスの目が大きく見開かれる。そして自分の体を見下ろして、タオルをギュッと掴むと、胸元の辺りからしっかりと隠そうとし出した。その瞳は潤んでいて、頬がほんのり赤く染まっている。


「こ……これで宜しいでしょうか?」

「あ……あぁ、うん」


 これは演技なのか、それとも素なのか。わからない。断言できないくらい自然な状態に見えてしまって、思わず目を反らしてしまった。

 これは思わぬ収穫、いや誤算だったけど、お陰でウロボロスは恥じらいを覚えてくれたに違いない。そうなれば、ほら、色々な場面で痛い思いをしなくて済むようになるかもしれない。これぞ一石二丁というやつか。

 何はともあれ急場は脱した。ウロボロスはそのまま、つまり裸を見せないようにしてくれながら、そっと湯船に浸かってくる。ただ、くっ付くのはやめてくれないらしい。淀みの無い動きで横に座って肌を合わせられる。


「……まぁ、別にいいけどさ」


 そういえば、どうしてか知らないけど、ウロボロスには本心を見抜かれてしまうんだった。確かに、恥じらいを持って欲しい、そしてその先にある平穏無事な生活が欲しいというのは紛れもない願いだ。でも情けないことに、こうしてくっ付くこともまた、内心では小躍りしたいくらい嬉しいのもまた事実。そういう微妙な心を読んだ上で、対応してくれているのかもしれないな。


「……我が君。失礼とは重々に存じておりますが、御尋ねしたいことが御座います」

「な、何だよ、改まって?」


 これまでの幸せそうな雰囲気はどこへやら。神妙な面持ちでこちらをじっと見つめている。腕を取られるものの、その力加減がいつもと違って、もしかしてこれは、震えているのか。あのウロボロスが。

 一体、何を言われるのか。ウロボロスはこれだけ大胆なことを喜々としてやってのけるが、ここで愛の告白的なことはするまい。こんな場所だし、それに偏見かもしれないけど、こういうのは男からして欲しいって考えていそうな気がする。俺がそうなんだから、ウロボロスも同様のはずだ。弱い根拠かな。大丈夫、ウロボロスに限ってはこれ以上の理由はあるまい。

 では、どんな話が飛び出すものか。わからない。想像も付かない。仕方なくじっと話してくれるのを待つ。


「我が君は……これから何を成されるおつもりですか?」

「こ……これから?」

「はい。この世界で、その、どのような道を歩まれるのでしょう?」


 な、なんだ。そんなことか。どんなことを聞かれるのかって、思わず身構えてしまったじゃないか。なんて、そんなことと思ったけど、冷静に考えなくてもとても壮大な話だな。

 これから、か。俺は魔王ユウになって、強大な力と絶対的に信じられる皆を得た。この世界についてはまだまだ知らないことばかりだけど、俺たちに敵なんていないと思う。力ずくで何でもできてしまうだろう。これからも、ずっと。


「……そうだなぁ」


 何でも好き放題にできる反面、世界から注目されてしまっている。今後も同様に振舞うなら、いや、もはや避けられないだろうな。アデルやルーチェを助ける過程であれだけ介入して、その上、これから紅竜同盟とも深く関わっていくのだから。

 このままではもういられない。皆と好きなように生きていく。そんな風に漠然と、のらりくらりとやっていくのはもう無理。そろそろこの世界における俺の立ち位置を明確にしておくべきだ。


「ウロボロス……お前を心から信じて、あえてこんな言い方をさせて貰う」


 もっとも、俺に取れる道なんてそう多くはない。馬鹿だからな。政治家や学者の言っていることのほとんどを理解できないくらいに。俺にできることは良くも悪くも決まっている。


「俺は魔王だ。自分以外の全てを蹂躙することで欲望を叶えてきた悪者だ。振り返ればいつもすぐ側に、積み重ねてきた絶望と死体の山がそびえ立っていただろうよ。その蛮行は俺自身でさえ悪と言い切れる。魔王と蔑まされたのも頷ける」

「それは……っ! いえ、何でもありません。話を遮ってしまい、申し訳ありませんでした」


 よく堪えてくれたな、ウロボロス。お前が否定したいのはよくわかるよ。こんな言い方をしてしまったら、俺は、お前たちと一緒にいることを後悔しているように聞こえるだろうからな。


「ごめんな。俺がちゃんとしていれば心配させずに済んだのに。でも、それでも俺はこの道を取りたいと……いや、取るしかないと思っている」


 それは一体なぜなのか。自分自身でもよくわからない。昔の俺は特に不自由などしていなかった。友達もいたし、家族もいた。これといってトラブルを抱えることなく日々を無難に過ごしていた。

 それなのに、どうしてだろうな。何かが足りない。何かが違う。そう思いながら、でもこれといって打ち込めるものはなくて、悶々とすることが多かった。人はそれを厨二病と呼ぶのかもしれない。でも俺は意気地が無くてそんな恰好をできなかったし、特に憧れることもなかった。

 そんな時だ、ドミニオンズに出会ったのは。感動した。この世界ではない全く別の世界で、たくさんの人たちが思い思いに生きている。ここは自由だ。そう思って、毎日毎日遊んで、強くなるために努力して。気が付くと上位プレイヤーになってチヤホヤされていた。

 いつかは忘れた。でもおかしいって気付いた。顔付きが変なんだ。誰も彼ものが明らかに媚びを売ってくるから。どれもこれも背筋が凍るような酷い表情ばかりで、どこを見てもそうだった。強者に弱者が群がっているだけ。強者は弱者を従えて鼻高々と横柄に振舞っている。

 ここも違ったのか。本能的にそう思った。でもドミニオンズに費やした時間は大き過ぎて、どうしてもスッパリ辞めることはできなかった。ダラダラと更なる強さを追い求めた。そして知ったんだ、ウロボロスの一件を。あの最悪のイベントを。


「正直に言っちゃうとな、もういいかなっていうのが本音だったんだ」


 現実はどうか知らない。でも少なくともドミニオンズはこんなにも腐っていた。だからせめて、最後にやってやろうと思ったんだ。純粋に弱者を救うために、飛び切りの強者がなりふり構わず世界と戦う。そんな夢物語が本当にあったらいいなって、ここは自由な世界なんだからって、そう願ったから。

 失望されただろうか。そんな理不尽な理由で助けたって知って。そう心配したけど、ウロボロスは静かに首を横に振ってくれる。


「我が君が選ばれたのはとても過酷な茨の道。強者が弱者を救うという、強者からすれば不合理な、しかし私たちからすればこの上ない救いでした。偉そうなことを言うようですが、それは誰にでもできる決断ではありません。だからこそ、ドミニオンズは間違っていると思ったからこそ、我が君は魔王を受け入れられたのでしょう?」


 魔王。その称号は俺が名乗ったのではない。そもそもドミニオンズとは「天使たち」という意味。あの世界で俺たちが歩むのは、神々に仕える者としての物語。間違っても魔王などという役職なんて無いし、俺だって名乗ろうとは思わなかった。でも俺の振る舞いは大変に不興を買ってしまったらしくて、神々に仇なす者、という侮蔑の意味を込めて、魔王とされてしまった。


「救って頂いた身分で語る話ではないと承知した上で……処刑すら覚悟の上で、あえて申し上げます。もう良いのではありませんか? 我が君は……本当は魔王になどなりたくなかったのでしょう?」


 魔王になりたくなかった、か。そうだな。俺は凡人だ。漫画やアニメの悪役ヒーローみたいな立ち位置を取れるほど器用じゃない。好きで悪者になりたいなんて思っていなかったよ。


「……否定はできないよ。俺は今でも嫌だ。色んな人に悪口を言われて、恐れられて、睨まれて……もうたくさんだ」

「それでしたら……」

「でもな、俺は後悔だけはしていない」


 ウロボロスの手を取って、カルマたちと一緒に戦ってきたあの日々は、それまでのどんな時間よりもずっと最高だった。心躍るってやつだろうな。ドキドキして、寝ても覚めてもドミニオンズのことが頭から離れなくて。これが俺のやりたいことだったんだろうなって、それだけは今もなお確信している。


「だから俺はやめたりしない。ここで引いたら絶対に後悔すると思うから」

「我が君……畏まりました。私もまた全力でサポートさせて頂きます。この世界でもまた、その奇跡を成せるように」


 奇跡、か。確かにそうなのかもしれないな。ドミニオンズでもそうだったように、これは現実でも変わらない。強者はただひたすらに上を求めて歩き続ける。後ろを、追いすがることもできないような弱者には目も向けない。それができる奴は極一部で、何の見返りも無く救いの手とやらを差し伸べられるのはもっと少ないんだろう。

 そう考えれば俺は特殊ケース。いや、こう言っても過言ではないのかもしれない。人の理から外れた異端者と。しかもたちの悪いことに、異端者なら異端者らしく狂ってしまえばいいものを、何度も何度も楽な方へ逃げたくなっている。

 俺は弱いからな。何度決意を固めても、面と向かって見えてしまう蹂躙した人たちの苦痛に歪む顔が、吐き出される呪詛が、後々になってどうしようもなく恐ろしく思えてしまう。本当にこれでいいのかとその度に悩んでしまう。


「ありがとう、ウロボロス」


 だからこそお礼を言いたいと思う。こんな狂っている俺をそのまま受け入れてくれて、理解してくれて、その上で支えてくれようと言うのだから。普通なら頭がわいたとしか思えない無理難題を、こんな馬鹿げた願いを肯定してくれるのだから。


「お前が傍にいてくれれば真っ直ぐに、今も昔も信じた道を突き進める。何度でも戻って来られる。だから頼む。これからも傍にいて欲しい」

「……はい、喜んで」


 そう言って、ウロボロスはギュッと腕を組んでくれる。なぜだろうな。さっきまでと違って変な感情は全く湧かない。この温もりがとても力強く感じられる。そして「大丈夫、絶対に上手くいく」と、何の根拠も無いのに思えてしまった。

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