第19話「ルーチェの過去、そして今」
なぜ私は生きているのだろう。どうして生まれてきたんだろう。誰を、何を、とは言えないが、とにかくこの生を呪わなかった日はない。捨てられて、食べ物も飲み物も無くて、知らない場所で、膝を抱えたままで。昨日も、一昨日もそうだった。今日も変わらず、明日からもずっとこのままで、いつか死んじゃうんだ。漠然と、そんな悲しいことしか考えていなかった。
今日もまた暑い日だった。猛暑日というやつらしい。強烈な日の光から逃れられる日陰は大人に占領されて追い出されて、仕方なく適当な所に座ってみた。土のはずなのにお尻が熱い。ギラギラ照り付けてくる日差しは痛い。
そんな真夏のある日のこと。その子は突然、ふらっと私の前に現れた。
「あなたのお名前は?」
女の子だった。きっと、私と同じくらいの年の。可愛い服、綺麗な髪、真っ白な肌。大切に育てられているんだろう。私とは何もかも正反対。そんな異次元の住人さんが、目の前で立ち止まってじっと見つめている。
「……ルーチェ」
本当なら知らん顔をするべきだ。後ろには大人が控えていて、答えたら最後、捕まって売り飛ばされる、そんな風に思った。でも何もかもどうでも良い。今ここで殺されればむしろ楽になれるんじゃないかって、そう思って、馬鹿正直に答えた。
「私はアデル。ね、ルーチェ。良かったら私の家に来ない?」
すると、とても嬉しそうに顔を綻ばせて、あり得ない提案をしてきた。
家に呼ぶ、だって。私の身なりは最悪だ。雨風と土埃でボロボロの布切れみたいな服、泥だらけの体、ボサボサの髪。こんな状態で、どうして家に上がってくれと言えるんだろう。やはり私を捕まえて売り飛ばす気なのだろうか、なんて疑いもした。
「……貴女の家に?」
でも乗りかかった船だ。行き先が地獄だろうが、はたまた天国だろうが、私には関係ない。ここで黙って座っていても明日まで生き延びられるかどうかもわからないのだから。まぁ、そうやって希望を見せておいて拉致するのが汚い奴らの手口なんだろうが、それでもさっき言った通り、死が早まるだけで関係のないことだ。
「私、友達が欲しいの。お父さんのお仕事であちこち移動しているから……友達がいなくて。だから、ずっと一緒にいてくれる友達が欲しいの」
なるほど、飛び付いてしまいたくなるくらい魅力的な話だ。世界は貧困に苦しんでいる。少なくとも、私が生まれて過ごしてきた環境はどこを見渡しても、今日食べる物にすら困っている人ばかりだった。それなのに、こんな何の価値もない私を連れていくって。そんなうまい話があるものか。
でも、もしも本当だったなら私は救われる。この子の暮らしぶりは全く想像できないけど、少なくとも雨風や土埃、それにこの痛い日差しを遮れる所にいられるのは間違いない。ひょっとすると食べ物や飲み物に困らなくなるかもしれない。
「……お願い、します」
「うん、よろしくね!」
だから、まだ、生きられる方に賭けたかった。
これがアデルとの出会いだった。アデルのお父さんは凄くいい人で、とても優しくしてくれた。学者さんらしくてよく難しい話をしていたのを覚えている。
そんなお父さんに憧れたようで、アデルの夢は学者さんになることだった。私も誘われはしたが駄目だ。文字とにらめっこすると頭が痛くなる。
「ルーチェ、何をしているの?」
アデルは勉強ばかりで、たまに遊ぶ時以外はやることがない。せめて家事をしたいと言って色々覚えたけど、毎日すぐに終わってしまう。鏡のようにピカピカに食器を磨き上げるのにも飽きてきて、仕方なく落ちている小石を拾って、浮かばないかな、とかやって遊んで過ごしていた。だから突然そんなことを聞かれて困った。困って、咄嗟にこう答えた。
「ま、魔法の練習……かな?」
「えっ、凄い! 魔法が使えるの!?」
「つ、使えないよ。練習しているだけだし」
魔法を使える条件って何だろう。それすらわからないのに、どうして魔法の練習なんて言ったのか。自分の吐いた言葉なのに自分自身が一番驚いている。
せがまれて仕方なく手ごろな小石を拾い上げて、キラキラとした目を向けるアデルの前で手を離す。ほら、やっぱり失敗した。そう言おうとして、言おうとして。
「落ちて……こない?」
何が起こったというのか。小石は宙に浮いたまま落ちない。私は何も細工をしていない。透明な台座に乗せるとか、糸で吊るすとか、そういう手品のようなことはしていない。アデルもまた同様だろう。だって、たまたまここに来ただけだろうから。
あぁ、そうか。アデルか。アデルには魔法を使えて、こうやってやるんだよって実演してくれたに違いない。
「浮いている! 落ちない! ルーチェってば魔法が使えるんだね! 凄い!」
そう思ったけど、この反応、絶対に違った。アデルは嘘を吐くのが苦手、というよりも吐いたことすらないから。じゃあ、何がどうしてうまくいったのかわからないけどこれは私の力ということらしい。
嬉しかった。いつ以来だろう、こんなにも嬉しいと思ったのは。魔法が使えたからではない。魔法なんてどうでもいい。アデルに褒められたことで、私にも誇れる何かがあるんだって、そう思えたから嬉しかった。
それからは魔法の練習に明け暮れた。大変だった。どうしてうまくいったのかもわからなくて、色々試して、安定して石ころを飛ばせるくらいになった。それが段々と木の棒に、鍋に、本にと、重い物でも大丈夫になった。その度にアデルは驚いてくれて、それが嬉しくて、毎日魔法の練習を続けていった。
幸せだった。こんな日々がいつまでも続いて欲しい。そう思っていた。あの日までは。
「……何、あれ?」
アデルに指さされて窓の外を見ると、真っ黒な空から突然、大きな光のようなものが降って来た。初めは何なのか理解できなかった。でも見つめていると、どんどん、どんどん、いや応なしに理解してしまう。あれは火だ。火の塊だ。
遠くに見える家はあっという間に燃え上がってしまうのが見えて、私たちはすぐに家を飛び出した。そう、今日は史上最悪の日。災厄の日。
振り返ると、私たちの家も燃え上がった。燃えていく。家だけじゃなくて、私の楽しかった日々まで無くなってしまう。でも泣く暇は無い。このままではアデルまで焼け死んでしまうから。
「あ……アデル……っ!」
「ルーチェ、走って!」
火の勢いは凄まじかった。とても逃げ切れなくて、火の海に飲み込まれて、私たちは焼けてしまう。
死んだ。そう諦めた。諦めたはずだったけど、恐る恐る目を開けると、辺りは異常な光景だった。いや、この突然過ぎる事態も異常なんだけどそうじゃなくて、私たちは火の海の中で生きていた。火が避けている。ぽっかりと私たちの周りにだけ穴が空いていたのだ。
「これ……お父さんの……」
アデルの胸元で、天使の翼が生えた女神のようなペンダントが藍色の光を帯びていた。四大将軍の証で本当に必要な時に所有者を守ってくれるらしい。
数日前、アデルのお父さんはお守りと言って、アデルにそれを渡していた。なぜこんな大切なものを、とアデルが聞いたところ、しばらく帰って来られなくなるからと。何をどこまで知っていて渡してくれたのか今となってはわからないが、お陰で私たちは何とか死なずに済んだ。
でも事態は悪くなる一方だ。酷い悪臭がする。見ると、人形のような何かが真っ黒になって、次第に白いものが見え始めていた。まだ私たちは生きているけど、このお守りの力が切れた時、私たちもあぁなってしまうのだろう。嫌でも想像してしまう。でもどうすることもできない。もう地平線の向こうまで火の海になっていた。
「諦めるのはまだ早いよ」
こんな絶望的な状況でまだ手立てがあると、そう確信した笑顔をアデルは見せてくれた。
凄いと思った。月並みだけど、本当にそれしか思い付かなかった。だって、ここから何ができるだろう。この訳のわからない暴力ではなく、自分自身の手で最期を迎えるくらいしかなさそうなのに。それなのに、アデルはここから挽回する方法があると言っているのだから。
「飛ぶんだよ、ルーチェの魔法で」
「わ……私? 私の魔法……?」
何を言われたのかわからなかった。私の魔法。魔法って、まさか、あの物を飛ばすやつのことか。確かによく練習はしていたけど物を動かす程度のもの。ただのお遊びでしかない。漠然と、アデルにもっともっと認めて欲しいなって、そう思いながらやっていただけで。
あ、と気が付いた。
そうか。今なんだ。アデルにあっと言わせて、そして同時に恩返しできる、最初で、ひょっとしたら最後になっちゃうかもしれない機会は。できるだろうか。あんなお遊びが通用するだろうか。
そんな臆病な気持ちを察してくれたのか、アデルは手を繋いでくれた。
「大丈夫。ルーチェが頑張っていたの、私はずっと見ていた。だから大丈夫。私は信じる。ルーチェも信じて、ね?」
私が信じられない私自身を、アデルは信じてくれる。どうしてだろう。嬉しいはずなのに、こんなに認めて貰えて凄く嬉しいはずなのに、涙がたくさん出てきた。悲しくない。悔しくもない。嬉しいはずなのに、どれだけ擦っても止まってくれない。
「アデル……ありがとう……!」
涙なんてどうでもいい。終われない。こんなところで終わらせたくない。この気持ちを。この時間を。そして何よりも大切なアデルを。だからアデルだけでも、ううん、そんな生温い覚悟じゃ駄目だ。例え私が死んでしまうことになろうとも構わない。アデルだけは絶対に守り通す。
「魔法陣展開!」
イメージしろ。無い頭を全部使って。鳥のように、あの空を自由に飛び回る姿を。あ、でも翼は無いんだ。これじゃあ飛べない。助からない。違う、発想を変えるんだ。飛ぶんじゃなくて浮遊する。一度の跳躍で天まで届いて、神様みたいに見下ろすんだ。空気は床で、階段で、椅子にもなる。あの空全てが私の庭。
「……よし、アデル!」
これでもかっていうくらいのイメージを浮かべて手を繋ぐ。情けない。ガタガタと震えが止まらない。でもアデルは全く震えていなくて、ただ微笑んでくれた。だから私も負けていられない。ぐっと強く、強く握りしめる。できる。信じろ。アデルが信じてくれた私を。今日を明日へ繋ぐために、こんな地獄、さっさと飛び越えてみせろ。
「魔法発動……エアリアル!」
私たちは浮かんだ。高く、遠くへと。
思い出していた。とても懐かしいあの日のことを。これが私の原点。騎士道がどこへ向かうのか。そのたったひとつの答え。だから私は逃げも隠れもしない。恐れもしない。アデルを守ることが私の生きる意味だから。
「やっと会えたね、アデル」
皮肉なことに、ここは私たちが暮らした家のあった場所。その跡地だった。辺り一帯は焦土と化していてその面影は全くないけど。
そんな光景が綺麗に見えてしまうくらいに、アデルの見た目は余りにも禍々しい。船の女神様と言えばいいのか、船頭にある女性像のような姿だ。淡いピンク色の大理石のような肌、深紅の目、大小様々な翼。周囲には12個のオーブがバラバラに旋回していた。
でもわかる。そこにアデルはいる。
「……ルーチェ」
目の前にピンク色の液体が降ってきてアデルの形をなした。見た目は普通のアデル。あれから5年。背は多少伸びたけど見た目は同じ。声まで同じ。そんな昔のままの姿で、声で、私を迎えてくれた。
「どうして……ここに来ちゃったの?」
「もう、アデルってば……それを不思議に思っちゃうの?」
「思うよ。だって、私はもう……もう……!」
次に出てくるであろう言葉は、聞かなくても何となく想像が付いてしまう。知っているから。これでも私は四大将軍で、聖天騎士団の二番席次で、アデルがどうなってしまっているのか知っているから。
でも、だからどうしたというのだ。どうして諦められるものか。
「アデルはアデル。私の大切な……」
「もうやめて! ルーチェにはわからない! 絶対に……わかって欲しくない……っ!」
アデルは悲痛な叫び声を上げると、両耳を塞いでうずくまってしまう。まったく、相変わらず嘘が苦手なんだから。これは拒絶じゃなくて優しさだ。私を巻き込まないように、遠ざけるようにって。もっとうまく嘘を吐けばいいのに。こうして会ってくれた時点で、もう本音には気付いているんだよ。
「アデル……泣きたいくらい頑張っていたんだもんね。ううん、もう頑張っていたなんて、そんなの違うね。そんな安い言葉なんか似合わないよね」
アデルの肩に手を触れるとビクッと反応したけど、ほら、拒絶はされなかった。そのまま優しく背中に手を回して抱き締める。温かい。この体は本当のアデルのものなのか、それともあの人が用意した偽物なのかはわからない。でもしっかりと温かい。ここにアデルはいるんだって、よくわかるくらいに。
「私は馬鹿だから……お父さんのような学者さんにはなれなかったよ。誰も……何も……助けられなかった」
「だから……お父さんになることにしたの?」
「お父さんは正しいって信じていた。皆のためになるって、正義のヒーローになるんだって、そう思ったのに……」
あの日から、アデルは何を思って、どんな日々を過ごしてきたのだろう。アデルのお父さんに追い出されてしまった私は知らない。その覚悟の大きさも、思いの強さも、アデルならきっと凄いんだろうって思うけど、到底理解なんてできないし、理解したなんて口が裂けても言えない。絶対に言えるものか、私なんかよりもずっと、ずっと辛い思いをしてきたに違いないから。
「私にも……お父さんや……ルーチェみたいな力があれば……」
「私はそんな大したことないんだよ」
「だって! ルーチェはただの兵士さんからどんどん昇進して、四大将軍にまでなって……! 私もなりたかったの! ルーチェみたいに、たくさんの人を助けられるような立派な人になりたかったの……っ!」
ほら、やっぱりそうだ。アデルは私なんかよりもずっと凄かった。たくさんの人を助ける。口で言うのは簡単だ。でも、それがどれくらい難しいことか。大災厄の前ですら自分の命を明日へ繋ぐのもやっとな世界が更に壊れてしまった。そんな絶望的な今を明日へ繋げる。できると言う奴がいるならやってくれ。協力は惜しまないから。でも生憎と誰にもできないから、こうしてアデルは泣いている。だから言わせない。誰にもそんな大口は叩かせない。
「それもこれもアデルを助けたいから。力になりたかったから。国も、そこで暮らす人も、正直に言っちゃうとどうでもいい。でもアデルだけは……幸せにしたかったから」
アデルの辛さをわかってはあげられない。でも力にはなってあげたいって、そう誓ったから。だから私は槍を取った。騎士の名を借りて、地位を押し上げるために全力を注いだ。その結果、助かった人たちもいたかもしれない。感謝されたことも少なくはない。そのどれもがどうでも良かった。だって、アデル以外なんて知らないから。私はそんな汚い道しか選べなかった。だからこそ私はアデルを助けたい。絶対に、何が何でも。
「……あの時、初めて声をかけてくれた時、私は確かに救われたよ。だから今度は私の番。見ていて。私が必ず、アデルだけは助けてあげるから」
「私……馬鹿みたい。ううん、本当に……救いようのないお馬鹿さん。皆が幸せになんてなれないんだよね。私は……ルーチェとずっと、ずっと一緒にいたかった。ただそれだけのはずだったのに、どうして道を間違えちゃったんだろう……。本当に馬鹿だなぁ」
そう言い残すと、アデルはピンク色の液体となって溶け出して、地面に吸われていってしまう。でも大丈夫だ。これまで迷ったつもりはただの一度もないつもりけど、でも、アデルの気持ちを受け取ったから。
その直後だった。目の前にいる女神像の目が光を帯びて、その口がゆっくりと動き出す。そこから放たれたのは、忘れもしない、アデルのお父さんの声だった。
「思い残すことはないか?」
この気持ちは何だろう。怒り。憎しみ。悲しみ。いや、そのどれもが違う。拾ってくれた恩は感じている。だからといって、アデルをこんな目に遭わせたのは許せそうにない。でも、そういう話でもないのだ。この人もまたアデルと同じように、世界を救うために並々ならぬ努力を重ねて、想像も付かないくらいの苦労を背負い込んでいたんだろうから。お門違いだ。私がアデルを守れなかったのを全て押し付けるのは。
「ありますよ。私もずっと……嘘を付いてきましたから。やり直せるなら巻き戻したいです」
「それは……アデルと出会う前か? それとも出会った時か?」
いっそアデルと出会わなければ良かったのだろうか。そうすれば私なんかに惑わされず、この人のような立派な学者さんになれていたのかもしれない。そういう意味では疫病神だったろう、私は。でも、私はアデルと出会えて良かったと思っている。そしてアデルもまた同じように思ってくれているという確信を持った。だったら、答えは決まっている。
「幸せだったあの日々に、です。さぁ、そろそろ始めましょう? 拾ってくれて、育ててくれて、本当にありがとうございます。でもアデルのために……もう一度死んでください!」
「……あぁ、そうしようか」
アデルの時と同じように空から液体が次々と降り注いできて、それらは人の形をなしていく。見慣れた甲冑をまとった騎士たちへと。その風貌までしっかりと認識できるところまで変化を終えると、その先頭に立つ者は仕草までよく見知ったものになってしまった。
「ロア様……」
「出る杭は打たれるもの。お前は騎士でありながら国のために尽くすという騎士としての務めを放棄して、アデルを救おうとしてくれた。故に皆の怒りを代弁しよう。甘んじて罰を受けよ」
ロア様だけではく、よく知る人たちも混じっている。明らかな強敵。でもだからどうした。アデルを助けるためならば例えリリス様であろうとも斬る。恐れる必要はない。私は一歩も引くことなく魔法陣を展開した。
優しい風が吹く。なんて心地いいんだろう。戦いの前にいつも感じる風が今日は一段と心地よく感じていた。なぜならここは最終章。追い風だろうが、天運だろうが、何でも良い。勝利をもぎ取れるのなら悪魔とすら契約しても良い。そんな覚悟を後押ししてくれているような気がした。
さて、目の前にいるのは嫌というほど見慣れた、かつての仲間もどきたち。顔に精気は無く、剣や槍をやっと握っているような状態で、ゆっくりと、ふらふらと迫って来る。
「ランスロット、セット。問題があるとすれば……」
情はある。助けられれば助けたいと思えなくもない。でもようやくここまで来たのだ。故にこの場は殺意が勝る。
「こちらの攻撃が効くかどうか……!」
先陣を切って突っ込んで来る騎士と対峙する。迫る剣。ふらふらのはずなのに、その太刀筋は鋭い。知っている。この人は相当な鍛錬を積んでいるのだと知っている。でも届かせない。身を反らして避けると同時にガラ空きの腹に一突き。騎士の体は一瞬痙攣し、そのまま脱力すると溶け出して消滅していった。
「いける……!」
十分な手応え。このまま敵陣へ突っ込む。突き出された槍を横から掴み、左から来た剣にぶつけて止める。どちらも獲物を取られれば赤子も同然、ランスロットで腹に風穴を空けてあげた。
「温いっ! こんなものが、聖リリス帝国の騎士様か!?」
右から攻撃がくるかと思いきや、まだ攻撃のタイミングを伺っているだけだ。そんな大ボケをかます輩に、ランスロットを顔面へプレゼントする。血の涙を流して喜んでくれた。
それからもしばらくは身を反らし、刃を殴り付け、体勢を崩したところに槍を突き出す。この繰り返しだ。たったこれだけで楽々倒せる。でも油断は禁物だ。戦場だから気を抜くなんてあり得ないとか、アデルを前にしているとか、そういう理由ではない。あの大群の中に、とてつもなく厄介な人が紛れ込んでいるのだから。
「名誉も誇りも無い骸ではこんなもの……ただ、貴方は違うかもしれませんね」
そんな奴らの中から遂にロア様が出て来た。歩き方、息遣い、手にする巨大な斧であるハルバート。どこを見ても紛れもなくその人である。兜で隠れてその表情は見えないが、仮に周りの騎士たちと同じく生気を失っていたとしても明らかに別格。全く油断ならない。
「弱いとはいえ敵だらけの中なのに……。ふふ、こんな最高のシチュエーションで、今日、貴方を超えましょう!」
ロア様だとすれば来るのは魔法。詠唱無しの速攻魔法に注意しながら突進する。迎撃は無い。黙って槍を構えて待ち構えられるだけであった。罠か。でも警戒しても何も起こらず、全く予想に反して楽々一撃目を叩き込める。
「へぇ、そんな状態でも反応しますか!」
受け止めてきた。二撃、三撃と繰り出してもことごとく弾かれる。この防御を打ち破るのは容易ではない。ただ硬いのではなく、技量が圧倒的に上なのだ。何をどう見切っているのか。素早く斬ろうが、重い一撃を放とうが、少し獲物を動かしただけで全て防いでしまう。どうやって倒すべきか、そう考えながら回避行動を始める。
「来た……っ!?」
如何に自我を失っていようともこんな深くまで敵を誘い込んだのだ。これは罠である。周囲に火の手が上がり、そのまま逃げ場を奪いにかかる。
そううまくはいかせない。何がきても良いようにと、既に飛行魔法であるエアリアルの使用準備を整えていた。咄嗟に身を引いて距離を取る。
「おっと、それは浅はかですね!」
その着地点で槍を構えていた敵にランスロットを投げて無力化する。この発言はロア様に向けたのではない。そこの騎士に言った言葉だった。ロア様はこんな稚拙な罠を張らない。自分自身の力で敵を討ち取る手段をいくつも持っているから。
ほら、そうこうしている内に詠唱が完了したらしい。ロア様は右手を突き出した。するとレーザーのような赤い光が真っ直ぐに放たれる。
「ヒートレーザー……!」
破壊力だけでなく瞬く間に敵を焼き切る火属性の上級魔法だ。本来、その詠唱時間は熟練の魔法師でも約20秒は要する。それをこんな短時間で放ってくるとは。
思わず失笑してしまう。本当に、あの人は別格だと嬉しさすら感じていた。だが、こんなものでは終わらない。真骨頂はここからだろうから。
「エアリアル!」
あえて空中へ逃げる。これは明かな悪手だ。空中には足場は無く、障害物すらない。格好の的になってしまい、逃げ場を放棄したも同然。だが、だからこそ相手の攻撃を誘えるというもの。
「流石はロア様ですが――」
2発目のヒートレーザーがノータイムで放たれる。ノータイム、そう、詠唱一切無しで放たれた。なぜなら、ロア様にはダブル・キャストという天才的な才能が備わっている。
これは一度の詠唱で2回魔法が使用可能というもので、ヒートレーザーのような上級魔法だろうと問答無用で2連射できてしまう。しかも2発目の発動タイミングを多少遅れされることもできるオマケ付き。
これを処理せずして勝利はない。だからこそ飛んで誘ったのだ。ここが勝負どころ。運命の分かれ目。迫る高速の光へ真正面から突っ込んで行きながら、ランスロット3本をぶつける。激突。一瞬の閃光と耳をつんざくような音が発せられる。結果、相殺。こちらは更に加速。そのまま一直線に空中を駆け抜け、そして、
「――温いですね!」
突き出されたハルバートもろとも、上段から力ずくで一刀両断。残りのランスロット4本全てを叩き付けることで強引にねじ伏せる。勝敗は決した。肩から腰にかけて綺麗に切り裂いて倒した。
「よし――っ!?」
勝利の余韻に浸るつもりはなかった。強大な敵に勝ったものの、目的はその先にあったから。でも、ここにロア様の頭脳が加わっていたらまず間違いなく敗北していたのは事実だろう。そんな尊敬の念もあって、勝った、そう考えてしまった。だから反応が遅れた。遅れはしたが、動物的な、いわゆる本能的な行動を取ることができたらしい。そう、気が付くと飛び退いていたのだ。それもエアリアルを使っての全力後退。それが功を奏した。何が起こったのか理解するよりも早く、目の前は焼け野原になっていたのだ。
「ほぉ、よく避けたな」
いや、芝生はそのままだ。騎士もどきだけが飲み込まれたのだ。あの日、何もかもを焼かれ尽くされた悪夢が、嫌でも思い出される光景が目の前に広がる。
いや、正確には違う。何を恐れているんだ、私は。目の前で起きたことをそのまま表現すると、紫色の巨大な球体が全てを飲み込んで、同色の炎で焼き尽くした。ほら、あの日のそれとは全く違うじゃないか。
「今のは……魔法……なの?」
それでも、どうしようもなく恐怖を感じてしまう。心臓が爆発するんじゃないかってくらい荒ぶっている。
何度も戦場に立った。今まさに激戦をひとつ乗り越えたばかりだ。でも、こんなにも死を予感したのは始めてだ。だって、魔法の権威と言ってもいいロア様の使う上級魔法は、先ほどのヒートレーザーだ。勿論あれ以外にも脅威的な魔法はあって、広範囲を殲滅するものもありはする。なんなら、多数の魔法師が協力して、それこそロア様に並びうる熟練した魔法師たちが集うことで初めて使えるレベルの魔法もありはする。だが、しかし。それすらあのレベルには到底及ばない。魔法をかじった程度の私でもわかってしまう隔絶した差があった。
「人形如きではお前には敵わぬらしいからな。私が直々に相手をしよう」
無数の影が姿を現す。それらはさっきの騎士もどきとは別の、言うなればゾンビだった。腐敗した肉体。漂う異臭。騎士たちと比にならないくらい生気を持たない屍の群れだった。群れ。そう、そいつらはどんどん地中から這い出して来て視界をあっという間に覆い尽くしてしまう。
これには思わず苦笑いしてしまう。あの化け物染みた魔法に加えて、ここでゾンビとは。絵本の中でしか見たことのない敵だけど、もしもその通りで、つまり死なない体だとすれば、こいつらを肉の壁にしてあの魔法の発動まで時間稼ぎされるだろう。今度こそ死んでしまうに違いない。
だからどうしたというのか。やるしかない。やるしかないのだ。理由は明快。アデルがそこにいるんだから、
「いきます――!」
恐怖に屈することなく、むしろ跳ね除けるように加速。ゾンビの群れに突っ込んで行く。速く、もっと速く。瞬く間に先頭集団と接敵。ランスロットを構えて、勢いを付けた渾身の一撃を容赦なくお見舞いする。そして発生させる。暴風を。人も家畜も家すらも、その強大な力で吹き飛ばしてしまうような、そんな圧倒的な力でゾンビたちを空中へ舞い上がらせる。
「エアリアル――っ!」
この浮かび上がったゾンビたちはもはや敵であって敵ではない。なぜならゾンビは翼を持たず、地から足が離れれば成す術がない。今や盾と化した。
その隙間を縫うように空中を駆ける。盾たちのお陰で迎撃は許さず、罠があっても解除可能。他に恐れるべきは、やはりあの大魔法か。でもあんな凶悪な魔法が連発できるはずがない。だからこそ騎士に時間稼ぎさせていたのだろう。そう推測、いや望みをかけて空を戦場に選んだのに。
「――え?」
現実は非情だ。目の前に広がった光景を目の当りにした瞬間、まずそう思い絶望する。迫って来る。紫色の光が、ゾンビたちを灰燼に帰しながら、無情に、着々と、轟々と。
逃げる。間に合わない。防ぐか。あれは防げるレベルではない。対処方法を検討すればするほどに絶望は強まっていき、仕方なく風の槍7本全てで防御する。結果は火を見るよりも明らかだ。ほんの1秒すらもたなくて、槍は触れたところから消滅。そのまま飲み込まれた。
「う……ぐ……っ」
全身に衝撃が走ったらしい。らしいというのは、一瞬、意識を失い欠けたからだと思う。それでも意識は何とか繋いだ。でも力は失ってしまったらしい。手足があるのか無いのかわからず、首を捻って自分の体を見ると、幸いなことに四肢はまだある。だがあちこちから止めどなく血が流れ出ている。助からない。どう楽観的に見ても助からない。それくらいの出血量である。
「……寝惚けるな、私」
助からない、だと。ようやくここまで来たんじゃないか。思い出せ。この日のために、アデルのために、どれだけ厳しく生きてきたのか。どれだけ死線を潜り抜けて来たのか。さぁ、力を込めろ。グッと、足に、腕に、渾身の力を。そうすれば、ほら、
「……あれ」
体が浮いてくれたと思ったのに、気が付くと顔が冷たかった。目の前は土。あぁ、そうかと理解する。倒れたのだ。立ち上がることができずに屈したのだ。アデルを前にしているのに。せっかく生き延びたのに。
「……そういえば、どうして」
まだ生きているのだろう。風の槍は一瞬で消滅させられて、他に防御手段なんて持っていないのに、どうして生きているのだろう。あの魔法は、人命までは奪わないとでもいうのか。馬鹿な。逆にそんな小細工をする必要がどこにある。それに、仮に奇特な特殊能力のある魔法攻撃だったとしても、これだけの隙があるのに追撃が来ないのはなぜなのか。
「……何、これ」
「むぅ……何と強固な。これがあの御方の守護という事か」
何とか前を見ると、藍色のシールドが展開されていた。その向こう側ではゾンビたちが蠢き、ひしめき合っている。誰かが守ってくれている。馬鹿な、誰がいる。助けてくれる人なんて誰もいないはずなのに。
「……あぁ、そうか。お守り」
リリスから贈られたお守り。四大将軍の証が胸元で藍色の光を発していたのだ。
その効果は知っていた。本人から聞いて、実際に体験した人の話も聞いて。知っていたのに全くあてにしていなかった。だから知らない。どのくらいの間、どれ程の攻撃までなら耐えられるのか。わからないけど、立ち上がるまでの間でいいからもってくれと願う。
「……負けられるか」
仲良くしてくれる人もいた。親身になってくれる上司もいた。今だって、こんなにも凄い人に助けられた。でも全てを切り捨てて、アデルを見失わないように努めてきているのだ。みんなの思いを踏みにじったのだから、なおのこと、負けてなんていられない。
集中しろ。渾身の力をこめろ。こんなところで寝ている暇なんて無いんだ。見ろ、よく見ろ。アデルはこんなにも近くにいるんだ。
「……こんな簡単なことでつまずいちゃうのか、私」
また倒れてしまう。当り前だ。体はほぼ死んでいるも同然なのだから。ここで終わり。この思いはここで終わりなのだ。
いや、まだだ。何のために戦ってきたのか、その答えは凄く簡単。アデル。アデルの笑顔を守って、そして夢を叶えるためのお手伝い。たったそれだけ。それ以外なんて何もない。なら、もっとだ。もっと迷いを断ち切れる。
「やれるか、じゃない。立てるか、なんて言うな。絶対に乗り越えるんだ。これを超えた先に、私の目指す未来があるんだから……っ!」
噛み締めろ、唇を。噛み切ったって構わない。力を込めろ、この膝に。2度と立てなくなっても気にするものか。そうだ、捨てろ。全てを捨てろ。今を越えられるなら、明日に繋がらなくてもいい。この命すら惜しくはない。
「……待たせたね」
立った。もはや立ちはだかるゾンビと遜色ない程にボロボロだろう。でも立った。風の槍を握り、しっかりと低く構えを取る。まだ戦う意思は尽きていない。
「嫌な世界だよね……」
これは涙なのか、血なのか、はたまた血の涙か。すくい取ってみると、頬を赤い雫が伝い落ちている。
いつもそうだった。どんな綺麗事を並べる人も、大そうな理想を語る人も、結局、肝心な時には誰も助けてはくれない。生きたいのなら、自分で何とかするしかない。生まれた時からそうだった。ずっと、ずっとそうだった。
今だってそうだ。これだけの力を持つリリスですら助けてはくれない。ただ守ってくれただけ。でも文句を言う筋合いはない。なぜなら、この世は弱肉強食だ。弱い者は食い物にされる。生き残るためには強くなければならない。それの何がいけないのか。駄目なことはない。それは自然の摂理。生きている以上、絶対に逃れられない絶対的な法則。だから誰も恨めない。憎めない。
「でも……生きたいよね。弱くたって、生きたいよ」
そんな悲しいことばかりの世界でも、弱くて、何の価値も無くて、今日を生き延びるのもやっとだったのに自分は生きている。なぜか。答えは決まっている。優しさという名の不条理によって救われたのだ。それならば今また、もう一度くらい、不条理なことが起こって何が悪い。
「だから……1人くらい、いてもいいじゃない。生きていいよって言ってくれる人がさ。あの日、私にそう言ってくれたみたいに」
だが、現実は非情なものだ。そうして覚悟を決めている内にも意識は途切れてしまいそうになる。余り感極まっている暇は無い。さっさとケリを付けなければ無駄死に。アデルの幸せを勝ち取る戦いに敗れてしまうから。
「いくよ……アデル……っ!」
藍色のシールドを解除。ゾンビの群れが雪崩れ込む。でも関係ない。狙うはただひとつ。アデル。そこを目指して突貫――
「……その覚悟、見届けました」
――だけど、風の槍はぴくりとも動かなくなった。見えたのは手。もう大丈夫。まるでそう言うように、しっかりと握り締められた手。そして、両翼が腰から生えた甲冑の後ろ姿だった。