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愛と勇気のお尻の縫い目  作者: 二蝶いずみ
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第四話 N香の困惑

 え…なにこの、かねかねカイロおじさん。

 もしかして某カイロメーカーの社長とか?

 いやそういうことではない。

 この人は明らかに怒ってる。

 待合の他の患者が好奇の目を向けてくる。

 ここは素直に引き下がるとするか。

「…失礼しました。」

 そう言うしかなかった。


 N香はそれから、待合のソファに座って順番が呼ばれるのを待っていたが、気まずい空気に耐えきれず、立ち上がろうしたそのとき、隣の老婦人が声をかけてきた。

「知らないほうが幸せってことも、あるんじゃないかしら」


 ぎょっ、とした。

 知らないほうがいいですって?

 ちょっと待ってくださいよ。

 知らずに、他人から笑われる方がいい?

 これは人類の課題だ。

 言うのも自由、言わずに黙っておくのも自由。自由だからこそ、悩ましき問題なんである。



 N香は、シメのブラックコーヒーを飲み干すと、今後の身の振り方について考えながら、駅へと向かった。

 遊歩道の上を、進行方向から一羽のハトが近づいてきた。ハトは、N香の前で立ち止まると、N香のほうをキョロっと見上げた。

 

 おばさんの好きなようにすればいいんじゃない?


 ハトがそう言っているように見えた。


 帰りの電車で、とある若者に目が止まった。

 スーツに身を包んだサラリーマン。

 そこそこ経験を積んだ、外回りの営業、といったところか。

 冬だというのに、額に汗をにじませている。

 ズボンのポケットから何度かハンカチを取り出しては汗を拭いていたが、電車がガタンと大きく揺れた衝撃で、彼はハンカチを床に落としてしまった。

 彼はすぐにしゃがんで、そのハンカチを取ろうとした。


 そのときだった。


 N香は気づいてしまった。


 営業マンの、ズボンのお尻の縫い目が、ビリビリに破れていることに。

 

 あらら、これまた、派手に破れちゃってるわぁ。


 トントン、といつもの調子で肩をたたいて声をかけようとしたN香は、コンマ一秒後、はたとその動きを止めざるを得なかった。


 メールか何かの着信があったようで、スマホの画面を見ている彼の表情が、なんとも、幸せに満ちた笑顔になっていたのだ。


 破れた縫い目は気になるが、私がこの営業マンにそれを告げたところで、彼に本当にメリットはあるのか…?

 何があったか知らないが、本人は今あんなに幸せそうな顔をしている…

 何だろう、産まれたての子猫を愛でるような、宝くじにでも当たったかのような、えも言われぬ笑顔…

 ズボンが破れているとわかれば、彼の笑顔はきっと消え去ってしまうだろう。


 知らなければ楽しい。

 知れば、気にして恥ずかしくなるだけ?

 言わない方が、彼は幸せなのか?

 私は、いままで、そんなこと気にしたことなかった。

 言うのも自由だが、言わないのも自由。

 どっちでも良いことを私は、まるで英雄気取りで、会う人会う人に伝えていたということか。

 N香は困惑した。


 しかしなんて嬉しそうな顔して笑うんだろう、この若者は。

 きっと、何かすごくいい知らせが来たのね。

そんなに、幸せなら、ズボンのことは、私の胸の中に仕舞っておくことにしてみるか…

 N香にとって、それは自分への挑戦だった。

 一度口から出かかった言葉を我慢するのは、実に耐え難い。


 電車を降りて、自宅への道すがら、また一羽のハトに出会った。

 ハトは、N香に見向きもせず、誰かが撒いていったパンくずをなんともせわしそうにつついている。

 あっちむいて、こっちむいたら、ハトはもうさっきのことを、忘れてるらしい。

「…ねえハトさん、あの子のズボン、派手に破れてたよ。」

 ハトは一瞬食事の手を止めて、N香の方を見上げたが、次の瞬間にはくるっと背を向けてしまった。

 それがどうした、と言わんばかりに、知らん顔してパンくずをたべている。

「ふ、ふふふっ」

 なんだかおかしくなって、N香は吹き出した。声に出して笑ったのは、久しぶりかもしれない。

「…お節介おばさんは、そろそろ卒業かな。」


 N香はひとりごちて、夕食の献立に思考を巡らせた。

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