第二十話 A子の冷却
A子は、頬に伝う涙を拭いながら、T輔夫妻にちらりと目をやった。
「あんたね、どうするつもりなの?父親になった自覚あんの?ほんっとサイテーね。」
R菜に罵られてうなだれているT輔の姿に、A子の気持ちも急激にクールダウンしてきた。
あんなに言われて可愛そうだけど、なんで私、この人のこと好きだったんだっけ?
不思議なことに、怖いくらいに割り切れてしまっている。
ズボン破れの男の人が眩しすぎて、一気に現実に引き戻された。
そんな自分が恐ろしくもある。
T輔もサイテーだけど、私もサイテーだ。
騙されてるのにいい気になって、バカみたい。情けない。
そしてなんて単純なのか。
とはいえ、楽しい想い出、幸せだった瞬間、それはそれ。
これからはまた、前をむいて行こう。
新しい自分のために。
それでいい。
しっかりしなきゃ。
次の瞬間、R菜の声が、A子の頭上を飛び越えていった。
「ちょっとG男、どこ行くのよ?」
…ん?ズボン破れちゃったあの人、G男っていうんだ。
G男は、キャッチし損ねたネックレスを取りに行こうと、エスカレーターで一階へ降りていくところだった。
なんて気の利く人なんだろうか。
ヒーローみたい。
おっと、だめだめ、簡単に惚れちゃ。
ちょっと待って、T輔の奥さんとG男さんて、どういう関係?
「お知りあい、なんですか?」
「弟だけど。何か?」
えー?!なんとなんと、この鬼婆みたいな人があのズボン破れのG男さんのお姉さんなの?
「お、弟さんなんですか…。実はわたし、彼には何度か助けてもらってるんです」
A子が言うと、R菜は
「は?」
と首を傾げたが、不機嫌な顔のままで、それ以上何も言わなかった。
そんな怖い顔してたら、また、浮気されるぞ、なんて、ありがちなこと考えてしまう。
ネックレスは、玄関ホールの宙を舞い、ロマンスグレーの紳士の頭上で、天使の輪のように輝いていたが、完全に着地する寸前に、一人の女性の手によってキャッチされていた。
エスカレーターの方から、
「ナイスキャッチ!」
というG男の声が聞こえてきたので、一階ロビーを見てみると、紳士が四十代半ばの女性の方を振り返って、ひと言ふた事、何か会話をしているところだった。
女性の手に、ネックレスらしきものが光っている。
お礼いわなきゃ。
「すいませーん、ワタシですー」
A子がロビーの二人に手を振ると、
「あ、はーい」
と、見上げてきた女性の声が、返ってきた。
A子は、
「いま、行きまーす」
と言って、冷めたミルクティーを飲み干してから、エスカレーターへと駆け出した。




