実験体は愛に狂う④
ルカは仰向けに倒れ込み、天を仰いだ。空から砂埃と瓦礫の破片が落ちてくる。
「終いだ」
喉元に剣の切っ先を突きつけられているが、ルカには反抗する力がもう残っていなかった。
「うう……」
ルカは狼の姿から、元の赤黒い液体の塊へと姿が戻っていた。眼鏡はもうどこかに吹き飛んでいて、自分の顔にかかっていない。
人間の形すら保つことができず、ドロドロと液体が流れ出ているのを感じた。
「ううう……」
指一本動かすことができない。
目の前に偉そうに立つ女をすぐにでも殺してやりたいのだが、それは叶わぬ願望だ。首を切られたくらいで絶命することはないだろうが、きっとこの女とその仲間は、ルカを灰燼に帰すなり、氷漬けにするなり、どんな手段でも確実に命を断ってくるはずだ。
「まだ口を動かせるなら、質問に答えろ」
「……」
「お前が口走った所長とはなんだ?」
「……」
口を動かして声を出すことはできる。
しかし、威圧されていようが脅されていようが、マールの質問に対して答える口を持ち合わせていない。
「噂は聞いたことがある。国が隠れて進めている非人道的な実験。それらを取り仕切るラボラトリーという研究所があるとな。つまり、お前をこの姿に変えたのがラボラトリー……その所長ということではないのか?」
ラボラトリーはまことしやかに人々の間で囁かれる謎の組織だ。
噂では国が幻想の塔で不穏な研究を行っているという話しになっている。
「お前が素直に、その所長とやらの正体……ラボラトリーの居場所を話すというのなら、これ以上危害は加えん。拒否するならば、どんな手を使っても洗いざらい吐いてもらうぞ」
その目は本気だった。
情報を手に入れるためなら拷問も辞さないだろう。
だが、
「舐めるな……誰が話すか……」
ルカはそう言って不敵に笑うと、一瞬のうちに体を大きく膨らませた。
「!?」
それはまるで大きなシャボン玉のようで、赤黒い液体がみるみると膨張していくではないか。
マールはその異様な光景に危険を察知したのか、一足飛びで退く。
(ああ、所長……素晴らしいです……まさかこんな仕掛けを組み込んでいたなんて……これなら、情報が外に漏れる心配もない……やはり貴方に付いてきてよかった。きっと貴方の崇高な計画の礎になれたことでしょう)
もはや人間どころか、生物の形でもなんでもない。
ただの液体の塊と化したルカに脳というものがどこにあるのか自分自身にもわからない。
しかし、ルカは彼への想いを魂で吐露しながら、そのうれしさに咽び泣いた。
(貴方の心の片隅に、貴方の胸の奥に、私の名前が刻まれるのなら、いくらでもこの生命、差し出しましょう……!)
まるで天から美しい光を浴びているような暖かさと充足感。
涙というものが流すことのできる身体であれば、きっと自然に零れ出ているであろう、絶頂を迎え、次の瞬間、爆発四散した。
爆音とともに周囲に赤黒い液体が飛散する。
近くにいたマールの眼前には、アーリィの無敵の大亀が展開されていてため、その飛沫を浴びることはなかった。
「チッ、口封じか」
やがて大亀が姿を消すと、もはや跡形もないルカが倒れていた場所を見やって、舌打ちをした。
「大丈夫!? マール!」
「ああ、おかげでな。どうやらこの液体、直接浴びるには相応の覚悟が必要なようだ」
マールに言われてアーリィが周りを見ると、液体が付着した地面や壁が、煙を上げて溶けている。
強い酸なのだろうか、恐らく人体が触れれば骨まで溶かされていたことだろう。それがもし直撃していたらと思うと、アーリィは背筋が寒くなるのを感じた。
「なんだったのかしら……あの化物は……」
「この国の暗部、だろうな」
「暗部?」
訝しげに首を捻るアーリィをよそに、マールは自身にかかった砂埃を払う仕草をすると、四散した肉片を見やって少しだけ悲しそうな表情を見せた。
彼女の手に花でもあれば手向けていたであろう、そんな哀悼のまなざしだった。
「いくぞ、アーリィ。この穴、放っておくわけにはいかない」
「ちょっと、こんな大きな穴、どうするつもりよ?」
顔を上げたマールはいつもの凛とした様相で、すたすたと歩いていく。慌てて追いかけるアーリィはぽっかりと開いた大穴と見上げて諦観の声を上げる。
「5階層のモンスターを一掃して6階との階段を塞ぐ」
「……はぁ?!」
あまりにあっけなく言うものだからアーリィは思考がストップしてマールの言葉を理解するまでワンテンポ遅れる。
「5階層のモンスターを一掃って……そんなのできるわけが……」
そう言いかけてアーリィは口を紡ぐ。
なぜならマールだったらそれを平然とやってのけてもおかしくないからだ。
特に弟に危害を及ぶようならば、恐らく先ほどの化物よりも暴れ狂うに違いない。
「ボヤボヤするな。早くしないと5階層から次々にモンスターが落ちてくるぞ」
「もうわかったわよ!」
まだ頼りにされているだけマシだとアーリィはため息一つ吐くと、歩みを止めないマールの背中を追いかけるのであった。




