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短編の墓

春に言祝ぐ

作者: みのる

 その行列の事なら、今でもよく覚えている。

 ここから少し離れた田畑の中を通る道で盛装した数人の男女に囲まれ、年嵩の女に手を引かれながら、俯き加減でゆっくりと歩を進める白無垢姿の女。花嫁行列だ。彼らが進む道の先にあるのは、ここら一体の土地を取り仕切っている庄屋の屋敷しかない。あの放蕩息子に嫁の来てがあったものかと、私はたいそう驚いたものだ。

 季節は春で、桜の花が満開だった。気持ちの良い風にひらりひらりと舞った桜の花びらが鼻先に届いて、俯いていた綿帽子がふと顔を上げた。美しい娘だった。少し垂れたような目に、小さな鼻。肌は抜けるように白く、頬にはうっすらと朱が差していて、小さな唇が愛らしかった。

 緊張しているような表情が、桜の花を目にして少し緩む。声は聞き取れなかったが、紅を刷いた唇が僅かに動いて、綺麗、と呟いたのが良くわかった。

 私はなんだか嬉しくなって、彼らの後ろ姿を見送りながら祈った。

 あの美しい娘が幸せでありますように、と。



 雲ひとつない晴天の下、降り注ぐ春の日差しは温かい。気温の低い朝方はともかく、日中のぽかぽか陽気を全身に受ける日光浴は私の日課であり、唯一の趣味でもある。桜の木の根元にもたれかかって陽光の温もりを満喫しつつ、うとうとと現実と夢の狭間を彷徨うのはもう至福の時と言っていいだろう。

(しょう)(げつ)、また寝てるの」

 む、邪魔が入った。

 このまま寝入っているふりをしてやり過ごそうか、いやしかしそれでは狸寝入りがばれた時がこの上なく面倒だしという葛藤の末、私は諦めて瞼をこじ開けた。目の前には粗末な着物を着た娘がひとり、大きな目をぱちぱちと瞬きながら立っている。丈の少し足りない着物から飛び出た手足は細くて、今にも折れそうに見えた。

「おはる。お前は何故いつも、一番気持ちのいい時に邪魔をするのだ」

 何度も邪魔をされては文句のひとつも言いたくなるというもの。大体、寝ているのかという問い掛けで人を起こすとは何事か。返事をしなければしないでしつこく声を掛けてくるくせに、起こすつもりなら最初から起きろと言えばいいのだ。

 上半身を起こして座りなおし、腕組みをしながらしかめっ面を作ってみせたが、おはるは特に動じる事もなく人差し指で自分の口元を示した。

「よだれ、出てるよ」

「なんと」

 私が慌てて着物の袖口で口元を拭おうとすると、おはるは「駄目だよ」と言って懐から使い古された手拭いを取り出して、そのまま私の口元を拭う。

「着物、せっかく綺麗なんだから」

 端に向かって白から赤に色を変えていく私の着物を、どうやらおはるは気に入っているようだった。綺麗と言われると悪い気はしないが、よだれを拭ってもらうというような子ども扱いは些か体裁が悪い。いくら私が実年齢よりも随分若く見える美形だとはいえ、年の差がどれだけあると思っているのだろうか。

 軽い自己嫌悪に陥る私の横に、懐に手拭いを収めたおはるがすとんと腰を下ろした。どことなく元気がないように見える。

「今年も桜、咲かないかな」

 立てた膝の上に顎を乗せて、おはるは小さく呟いた。

「もう何年も咲いておらんからな。今年も花はつかぬだろう」

 頭上の寒々しい枝を見上げて、そう答える。花の季節にはまだまだ早い。とはいえ、蕾のひとつもついている様子のない枝は、おはるの落胆を誘うのには十分だった。

「何があった」

 おはるがこうやって桜の開花を気にするのは、大抵何か嫌な事や不安な事があった時だ。そして、その度に話を聞くのは何故か私の役目になりつつあるのだった。

「また継母殿にいびられたか。それとも弟に無茶を言われたか」

 おはるは庄屋の放蕩息子――いや、隠居した親父の後を継いだのだから、今となっては建前上は立派な当主であるおはるの父が、前妻との間にもうけた娘である。もともと体の弱かった前妻はおはるを産むとすぐに寝付いてしまい、おはるが五つの時に身罷った。

 父が後妻を迎えたのはそのすぐ後の事だ。おはるの母が生きていた頃からの馴染みだという廓上がりの女は、嫁いでくるなりすぐにちゃっかりと男子を産み、すっかり夫を尻に敷いてしまった。それからというもの、前妻の忘れ形見であるおはるは女中同然の扱いを受けている。八つの弟は、自分とおはるの立場の違いをよく理解していて、我儘放題だと聞いた。

 大方、そのどちらかなのだろうとあたりをつけた問いに、しかしおはるは首を振る。話し難そうにしばし逡巡した後、ようやく口を開いた。

「私の嫁入りが決まったの」

 思いがけない言葉に私は一瞬息を止め、次いで首を傾げた。

「それはめでたい事ではないか」

 女の幸せは嫁いで子を産む事と聞く。そう言えば、おはるは今年十五になったはずだ。小さい頃から知っているおはるが、もうそんな年になっていた事には驚いたが、適齢期とあれば何の不思議もない。家族から冷たい仕打ちを受けているおはるにとっても、あの家から逃げ出す良い機会のように思われた。

「それなのに、なぜその様にしょげかえっている」

 おはるはふと顔を上げ、物言いたげにじっと私の目を見つめた。その目の奥に揺らめく淡い感情に、私はしばらく前から気付いていた。けれど、知らない方が良い事も世の中には数多くある。私にとってそれは、そういった類のものと同じだった。だから今日も気付かない振りをする。

「なんだ?」

 そらとぼける私から視線を逸らし、おはるはほろ苦く笑った。

「何でもない。……桜が、咲かないから」

 これまでに幾度となく聞いた言い訳に、私はため息をこぼす。

「桜が咲かないから不安なのか。お前は小さい頃からそうだな」

 初めておはるに会ったのは十年前の冬、おはるが母親を亡くす、少し前だった。五つのおはるは泣きながらこの木に根元にやって来て、桜は咲かないのかと私に問うたのだ。

 まだ冬なのだから咲く訳がないと至極当然の返答をすると、おはるはぎゃんぎゃん泣き始め、私を大いに困らせた。子どもの世話などした事がなかったのだ。どうしたものかと手を焼いている内に、おはるは探しに来た女中に手を引かれて帰っていった。

 ほっとしたのも束の間、変な事を言う子どもは翌日またやって来た。目に涙をいっぱいためて、どうしたら桜は咲くのと問うおはるに私はほとほと困り果て、そうまでして桜に拘る理由を質した。すると彼女は、桜が咲けばおっかさんはきっと元気になると、これまたよくわからない事をのたまったのだ。

「おっかさんが事あるごとに言ってたの。嫁入りの日、この桜がそれは綺麗に咲いてたんだって。でも、私が生まれた年を最後に花はつかなくなって、それからおっかさんは病みついて不幸になった。おっかさん、亡くなるまでずっと言ってた。あの桜は私を幸せにしてくれた、だから今度はおはるのためにまた咲いて欲しいわねえって」

 十五の大人になってもまだこんなに子どもめいた事を言う。私はこれまた何度もおはるに言い聞かせた言葉を滔々と繰り返した。

「花が咲くのは誰のためでもない。花は自分のために咲く。どうだ美しいだろうと己の美しさを見せつけて、やがては命を繋いで後継を作るために。それは決して人のためなどではないのだ」

 おはるは膝の上に顔を埋めた。母の想いを否定する言葉を聞きたくないのだろう。そうとわかっていて、私は続ける。

「花に誰かを幸せにするなどという特別な力はないのさ。出来るのは精々己の美しさを以って人の目を和ませるのが関の山。人とは勝手に状況を当て嵌めて、あれこれ言うものなのだよ。だから、そんな実のないものに頼るのはもうやめなさい」

 手を伸ばしておはるの頭を撫でる。ひとつにまとめた髪が背中で揺れた。

「桜の花が咲こうが咲くまいが、おはるは幸せになれるよ。私が保証しよう」

 そう言った途端、はじかれたようにおはるが顔を上げた。見開かれた双眸は涙で潤んでいる。

「松月の馬鹿!」

 おはるは素早く立ち上がると、止める暇もなく走り去った。

 ひとり残された私は深いため息をつく。追いかけた方が良いのだろうかとも思うものの、体を起こすのさえ億劫で、早々に諦めた。外見をいくら取り繕ったところで、寄る年波には勝てないものだ。それに、おはるは足が速い。追いかけたとしても、追いつきはしないだろう。

 さて、どうやら言葉の選択を間違えたらしい。そう理解はできても、他にどんな言い方があったのか、皆目思いつきはしなかった。長く生きてはいても、深い付き合いはした事がない。まして、小娘の扱い方など全然わからなかった。

 おはるの気持ちは、わからないでもないのだ。今を不幸だと感じている彼女には、いつか幸せになれるという根拠が必要なのだろう。母がそうであったように、桜が咲けば自分は幸せになれると頑なに信じている。

 しかし、そんなものに振り回される人生は果たして本当に幸せなのだろうか。私にはそうは思えなかった。

 もし仮に桜が咲いて、それでもおはるが幸せと感じる事が出来なかったら、彼女はこの世に絶望しか感じなくなってしまうのではないだろうか。その時、彼女はどうするだろうか。それが何より不安だった。

 時間がかかったとしても、おはるには自分で掴んで欲しかったのだ。他者がもたらしたものではなくて、自分自身で確かに実感できる幸せを。それはきっと、一生を生きて行くための糧となるだろう。

「幸せになって欲しいだけなのだがなあ……」

 そんな風に思うようになったのはいつからだろうか。泣きながら変な事を言う五つの子どもは、いつの間にか特別な少女になっていた。春が来る度に、蕾も付けない桜の木を見上げてしょんぼりするおはるを、励ましたり宥めたり。そうした努力の末にこぼれた笑顔はとても愛らしくて、私はその度に嬉しくなったものだ。

 けれど、いつまでもこのままという訳にはいかない。おはるにはおはるの幸せがあるはずであり、そこに私は居られるはずもないからだ。

 私は桜の木にもたれかかったまま上を見上げた。頭上では寒々しい枝が風に震えるように揺れている。

 花をつけなくなって数年、世間から忘れ去られたようなこの木を気にする者など、今ではおはるくらいのものだろう。もう亡霊のようなものなのだ。忘れてしまえばいいのに。そうすればきっと、私も楽になれるのに。



 どれほど時間が経ったのか、気がつけばあたりはすっかり日も暮れ、空には大きな月がぽっかりと浮かんでいた。ぼんやりと考え事に耽っていた私は、下生えを踏む微かな足音を耳にして視線を上げた。

「おはる」

 ばつの悪そうな表情を浮かべたおはるの目元が腫れているのが、月明かりの下でもわかった。長い事泣いていたのだろうか。そう思うと、心の奥が少し痛んだ。

「これ」

 つっけんどんに突き出されたのは、竹の皮の包みだ。受け取って開くと、大きな握り飯がころんと転がり出てきた。

「昼間、顔色が悪かったから」

 目を背けたまま隣にすとんと座って、ぶっきらぼうに言う。いくらか怒りは解けたようだが、今度は気まずさに苛まれているらしい。

「こんな事をして、お前が叱られるのではないのか」

 もしかして残った飯を持ちだしてきたのではないだろうか。ただでさえ立場の悪いおはるを心配して問うと、おはるはようやく小さく笑って首を振った。

「大丈夫、私の分だから」

 驚いて息が詰まる。おはるは自分の分の飯を食べもせず、顔色の悪かった私を心配して持って来てくれたというのだ。名状しがたい複雑な感情が湧きあがって来て、私は握り飯を取り落としそうになった。心の内の動揺を必死で抑え込み、平静を装う。

「……私は大丈夫だから。食べなさい」

「食欲がないの」

 強がって見せる語尾にかぶせるように、おはるの腹がきゅるると切なげな音をたてる。途端におはるの顔が真っ赤に染まった。

「やっぱり腹が減っているんじゃないか。痩せ我慢は体に悪いぞ」

「い、いいの! 私は松月に貰って欲しいの!」

 怒鳴ってぷいっとそっぽを向いてしまった。こちらに向けられた耳は真っ赤なままだ。強情なのは昔からだ。変わらないところもある。

 仕方がないと諦め、私は握り飯をふたつに割った。片方をおはるに差し出す。

「貰ったものをどうしようと私の勝手だな。ほら、半分こ」

 しばらく葛藤するように目の前の握り飯を睨みつけていたが、やがておはるは根負けしたかのように受け取った。そのままきまり悪そうにもそもそと口に運ぶ。

 それを見届けて、私も握り飯を頬張った。本当ならこんなもの、私には何の足しにもならない。けれど、私が食べないままではおはるも決して口にはするまいと思ったし、何よりおはるの気持ちを大切にしたかった。

「懐かしいな」

 米を咀嚼しながら、昔に思いを馳せる。『半分こ』は昔、おはるに教わったのだ。

「ん?」

「お前はよく色んなものを持って来ては、私に恵んでくれたなあ」

 ふかした芋や、山で採ってきた木通や苔桃、山葡萄。小さい頃からずっと、おはるは食べ物を持っている時は、『はい、半分こ』と言って半分を必ず私に渡す。遠慮しようものならしょんぼりと肩を落とし、自分も決してそれらを口にしようとはしなかった。

「別に、恵んだつもりはないよ。ひとりで食べるより、ふたりで食べた方がおいしいでしょ。それだけ」

 幼い頃から病がちで床から出られない母や忙しい父とは、共に食事をする事が余りできなかったという。ひとりで食べる食事はさぞ寂しかったのだろう。しかし、苦しんでいる母を思えば我儘を言う事も憚られ、小さな体を縮めて堪えていたのだ。

 そんな事を聞いてしまっては、差し出されたものを拒絶する事もできなくなった。渋々付き合っている内に、『半分こ』はいつしか当たり前になっていて、私は餌付けでもされたような気がしている。とはいえ、確かにおはると食う飯が旨いのは確かな事実なのだった。

「旨いな」

「……うん」

「こんな夜更けに抜け出して来て大丈夫なのか」

「平気。みんなもう寝てる」

 そういう問題ではないと思うのだが。自分が年頃の娘だと言う自覚は果たしてあるのだろうかと、心配になった。

「どんな男だ」

「え?」

「許嫁殿」

 握り飯を食べ終わったおはるは、すんと鼻を鳴らして俯いた。

「分家の一郎。従兄弟の」

 立てた膝の間に顎を埋めて身を縮める。まだ夜は冷えるのだ。温めてやりたいとも思うが、それも私にはかなわない。こういう時ばかりは、己が身の不自由さが身に染みる。

「いい男か」

「顔は……別に。松月の方がかっこいいよ」

 素直な賞賛の言葉に、私はふふんと胸を張った。

「当たり前だ。私より美しい者など、そうはおるまい」

 おはるが残念な物を見るような目でちらりとこちらを見た。どんなに冷たい目で見られようとも、私は構わない。美しさこそが私の全てだと言っても過言ではないのだ。しかし、私の価値観などはこの際どうでもいい話だった。

「とはいえ、大事なのは外見ではない。なんとも不思議な事に、性格が良ければ大抵の事は許せてしまうのが人間というものだ」

「松月が言うと説得力が全然ないよ。若作りのおっさんのくせに」

 呆れの滲む声音にもめげずに、私は質問を続けた。

「その一郎とやらは、性格はどうなのだ。優しいか」

「松月よりはね」

 拗ねたような物言いに、苦笑がこぼれる。なかなかに手厳しい。

「うまくやっていけそうか」

「……もともと、嫌いじゃないもの」

 その言葉に私は安心した。嫌いじゃないのなら、きっとうまくやっていける。最初はどういう形であれ、一緒に暮らす内に情が芽生え、いつしかひとつの家族になっていくものだと聞く。

 私など、きっともう居なくても大丈夫なのだ。おはるなら、ささやかでも幸せな家庭を築きあげる事が出来るだろう。肩の荷が下りたような安堵感で満たされる。そこに少しだけ混じっていた喪失感には気づかなかった事にしよう。

「お前の母の花嫁姿はよく覚えているぞ。雲ひとつない晴れた青空に舞う桜の花びらに彩られて、なんとも美しい娘だった。お前は母によく似ておる。きっと花嫁姿も美しかろうなあ。一郎とやらは果報者だ」

 懐かしい光景を思い出し、口元に知らず淡い笑みが浮かぶ。ついっと着物の袖を引かれて視線を隣に落とすと、おはるが妙に心配そうな目でこちらを見ていた。

「松月は、私が小さい頃から全然変わらない」

「何を今更。さっきお前は自分で言ったではないか。私は若作りなのだよ」

 おっさんと呼ばれるのは好きじゃないが、年を食っている事だけは残念ながら事実である。若作りである事は認めよう。

「そうじゃなくて」

 おはるが袖を掴んだまま、もどかしそうに首を振る。これまでおはるは何も聞かなかった。多分本当は薄々気づいていて、けれどそれを口に出したら、きっと何もかも終わってしまうと彼女は分かっているのだろう。しかし、今日ばかりは我慢の限界だったようだ。

「初めて会った十年前から、全く年をとったように見えない。何ひとつ変わらないなんて、やっぱりおかしいわ。松月は……何者なの」

 その問いに、私は答えなかった。曖昧に笑って、袖にぶら下がったおはるの手をそっと外す。頭上を見上げると、桜の枝が月の光をまとって淡く輝いていた。

「この木はね、もう随分と古いのだよ」

 どのくらい前だか、もう忘れてしまうほど。ずっとここに立って、人の営みを眺めてきた。

「土も良くない。もう寿命だ。もし花をつけたとしても、それが最後になるだろうな」

 おはるが密やかに息を呑んだ気配がした。こんな話はしたくなかったなあ――と、心の片隅で思う。おはるが嫁いでいって、きっと幸せになって、こんな桜の老木が枯れていく事なんて思い出しもしないまま。そうだったら、どんなに良かっただろうか。

 だけど、潮時なのだろう。仕方のない事だ。諦めなら随分前についている。

「お前、半月後にもう一度来れるかい。一郎とやらも一緒に」

 視線を戻す。おはるはこちらを見たまま、静かに泣いていた。いつの間にこんな泣き方をするようになったのだろう。昔の面倒な子どもだったおはるは、大きな声を上げてそれは騒々しく泣いたものなのに。涙を拭うために反射的に出た手は迷うように空中を彷徨って、結局おはるの頬に触れる事はなかった。

「それを最後に、もうここには来ないと約束できるかい」

 いや、と顔を両手で覆って、おはるは首を振った。薄い両肩が小刻みに震えている。

「握り飯の礼だ。いいものを見せてやる。だから、それで最後にしなさい」

「どうしてなの」

 泣き濡れた瞳が月の光を反射して輝く様は、とても美しく見えた。後悔すると十分わかっていて、それでも手放したくないと思ってしまうくらいに。

「お前には、美しい姿だけを覚えていて欲しいからだよ」

 きっと今の私は酷く情けない顔をしているに違いない。精一杯の努力で浮かべた笑みは、おはるにはどう見えているだろうか。失敗していない事を祈ったが、あまり自信はなかった。

「さあ、もう遅いのだから、早く帰って休みなさい」

 あんな顔をさせたままで帰すのは気が咎めたが、私はおはるをせっついて立ち上がらせた。時々振り返りながら肩を落として帰っていくおはるの後姿を見送る。完全に見えなくなると、木の根元に座りこんだまま、また頭上を見上げた。蕾のひとつもない枝を見て苦笑をこぼす。

「やれやれ、最後の大仕事だな」

 今までは、一日でも長く生を保つ事ばかりを考えていた。泣き虫だった不幸なあの娘を、ひとりにさせたくなかったからだ。けれど、もう残りの寿命を気にする必要はないのだろう。私の代わりに支えとなってくれる者が、おはるにはもういるのだから。

 それならばいっそ一世一代の無茶をして、ぱっと花を咲かせて一息に美しく散るのも私らしいだろう。残りの数年を花も咲かせぬまま無為に生き長らえたとして、その味気なさは想像に難くない。

 桜が咲くのを待ち望んでいたおはる。最期にしてやれる事があるとするならば、花を見せてやるくらいの事だろう。私には彼女を幸せにする特別な力など欠片もないが、せめて花を以ておはるの未来に言祝ぎを。

 穏やかな気持ちで目を閉じる間際、おはるの涙が視界をちらついた。あれが最後になるのは嫌だった。私の花を見て、彼女が笑ってくれるといいのだが。



 その年、もう何年も花をつけなかった桜の老木が、久方ぶりに美しい八重の花を咲かせた。ほんの半月前までは蕾も見当たらなかったというのに、不思議な事に瞬く間に多くの蕾をつけ、昔日の華やかさを取り戻したように盛大に花を咲かせたのだ。村人たちは不思議だと噂しながらも、その美しさにうっとりと目を細めた。

 おはるは松月との約束通り、一郎を伴って桜の元を訪れた。いつもいつも、桜の木にしなだれかかるように寝そべっていた松月の姿はそこにはない。覚悟していた事だったが、おはるの胸は締め付けられるように痛んだ。

「これが、おはるちゃんのお気に入りの桜かい」

 一郎の声に顔を上げる。凡庸とした顔の一郎は、おはると目が合うと少し恥ずかしそうに笑った。

「お袋が言ってたよ。おはるちゃんが、この桜の木の根元にひとりで座っているのをよく見かけるって」

 本当は、いつもひとりなんかじゃなかった。けれど、松月の話をしたら泣いてしまいそうだったので、おはるは小さく頷いた。

「でも、もう寿命なんだって。これが、最後だって」

「そんなの、わからないじゃないか。こんなに綺麗なんだもの、また来年も咲くかも」

 暢気な一郎の言葉に、おはるは首を振る。

「ううん、もう最後なの」

 おはるの沈んだ声音に感じるところがあったのだろうか、一郎は何かを聞きたそうにしていたが、結局口を閉じた。しばらく考え込んだ後で、よしと小さく呟いて顔を上げる。

 一郎は腕を伸ばすと、一番低いところの枝を途中で手折った。怪訝そうにしているおはるに、その枝を差し出す。

「桜はね、挿し木で増やせるんだよ」

 握らされた枝から、花びらが数枚舞い落ちた。中心は淡く、端に向かうほど赤みが濃くなる。松月の着物と同じ色合いだった。綺麗と呟くと、煌びやかな花の陰に松月の自信に満ちた顔が覗いた気がした。

「鉢で苗を育てて、成長したら庭に植えよう。花がつくまでには何年かかかると思うけど、きっとまた春には庭で花が見れるようになるよ」

 頬をほんのり染めて、鼻筋を掻きながら照れくさそうに一郎が言う。一郎は優しい。わからないことを無理に掘り返そうとせず、わからないなりにおはるの気持ちをそっと掬い上げて、一緒に大切にしてくれる。

 松月とは大違いだ。おはるの気持ちに気づいていたくせに、いつだって欲しい言葉だけはくれなかった。

 本当は桜の花なんてどうでもよかったのだ。花が咲かない内はそれを理由に松月に会う事ができたし、桜の精かもしれない松月が願いに応えて自分のためだけに花を咲かせてくれたら、なんて素敵だろうとも考えたりした。それは松月に思いを寄せる自分の気持ちに彼が応えてくれた何よりも確かな証になると、浅はかにもそう思ったのだ。

 彼がそんなに弱っている事を、知らなかったから。どうして花をつけないのかという事を考えなかった自分はなんて愚かなんだろう。

 それなのに、花が咲くのは誰かのためなんかじゃないと言いながら、彼はおはるの願いを叶えるためだけに命を縮めて花を咲かせた。なんてひどい人なんだろう。もう、咲かない桜を言い訳にさえさせてくれない。桜は咲いたのだから、おはるは幸せにならなければいけないのだ。松月のいない、この世界で。

 頬を涙が伝った。一郎がぎょっとした様子で狼狽える。

「ど、どうしたんだい、おはるちゃん」

 桜の枝をぎゅっと胸に抱きしめて手の甲で涙を拭うと、おはるは精一杯の笑顔を浮かべた。

「何でもないの。……私、幸せにならないと罰が当たるわね」

 一郎は一瞬きょとんと団栗眼を瞬き、すぐにうんと頷いて破顔した。

『おはるは幸せになれるよ。私が保証しよう』

 松月の声はずっと耳に残っている。どこにも踏み出せずにただ不安だけを抱えた自分に、彼は残りの力を以て背中を押してくれた。望んだ方向ではなくとも、それが松月の気持ちだというのなら、覚悟を決めて応えようと心に決める。

「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 おはるが腰を折って深々と頭を下げる。下げた頭の向こうで、「こ、こちらこそ」と答えた一郎の声は上ずっていた。

 

 

 春、陽光の降り注ぐ庭に面した板敷の部屋で、小さな女の子が庭をじっと見つめていた。

「あら、おはな。どうしたの」

 部屋に入って来た女が膨らみはじめたお腹をかばいながら膝をつき、子どもを抱き上げて膝の上に乗せる。おはなと呼ばれた子は庭の隅を指差し、だれかいる、と舌足らずに言った。小さな指が指す先には桜の若木があるばかりで、人の姿など見えない。

「だあれもいないわよ」

 そう言われて、おはなはむうと不満げに唸った。しかしすぐに機嫌をなおし、母の首に抱きつく。

「おっかあ、お話して」

「何のお話?」

「さくらのせいのお話」

 おはるはうふふと微笑んだ。

「おはなはいつもそのお話ね。そんなに好きなの?」

 あい、と嬉しそうに頷いた娘に、おはるは目を細める。

「あなたのお嫁入りのときにも、あの桜の枝を持って行けたらいいわねえ。きっと、桜の精がおはなを見守ってくれるから」

 そう言って、しみじみと庭の隅に植えられた桜の若木を見つめる。枝の先にいくつもついた蕾はふっくらとやわらかそうに膨らんでいて、近い内に花を咲かせるだろうと思われた。

 例の桜の元へはあれ以来行っていない。おはるにとっては一方的で不本意な約束ではあっても、最期の美しい花だけを覚えていて欲しいという松月の気持ちを大切にしたかったからだ。

 その桜の木も、花の終わる時期に倒れてしまったと人づてに聞いた。根の状態は酷いものだったらしく、よくこれで花を咲かせたものだと樹木に詳しい人が不思議がっていたらしい。

 庭の桜に蕾がついたのは、移植して以来初めての事だ。あれ以来見る事のなかった、美しい八重の桜が花開くのを、一郎もおはなもたいそう楽しみにしているようだ。花が咲いたら、ご馳走を作って皆で花見をしようと話している。

 開いた花の美しさを家族総出で褒め称えたら、矜持の高かった松月は満足するだろうか。ふふんと得意げに鼻を鳴らす松月を思い出して、おはるは穏やかな笑みを浮かべた。


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