その35 素無男
それは流されていた。
それにとって幸運だったのは、目覚めるまでに魔獣の餌にならずに済んだことと、目を覚ましてすぐに流木に乗ることができたことだ。そして逆に不幸だったのは、乗った流木が水棲魔獣の玩具となってしまったことだ。
他の獲物で腹を満たした河狼の群れが流木を突き、それは川と異なる流れに送り込まれてしまったのだ。
◆ ◆ ◆ ◆
その日、俺ジャン・ピエールは北区に行くつもりだった。
新居は決まったんだけど、足りないものの発注は自分でしないといけない。そんなわけで信用が置け親しい職人、つまりムハマさんに頼ろうというわけだ。
ちなみに家政婦だが、しばらくは通いでミッターマイヤー夫人がやってくれるという。エーファさんの紹介に感謝しないとな。でも、そろそろ嫁さんをもらうことを念頭に置かないと。
いや、分かっているんだ。エーディトさんから好意を向けられているのは。でも、精神年齢アラフォーで十六歳の娘を恋愛対象としてみるって、ロリコンみたいじゃないか。実年齢は二十一歳だからそんなに問題はないんだけれどさ。
そんなことを考えつつ、俺は寮の食堂で朝御飯を食べていた。
寮の食事は朝、昼、夕の決まった時間に寮監のエーファさんが用意する。基本はエーファさんだけ、しかも夕食の後に夜勤の人の分を造り置きするから結構な仕事量だと思う。
それはともかく俺がエーディトさんと結婚したら、エーファさんはお義母さんになる。つまり、これはお袋の味なのか?
しかもエーディトさんに料理を教えたのは、当然ながらエーファさんだ。そうなると……いや、寮の献立はエーファさんのレパートリーの一端に過ぎない可能性もある。案外、家庭では……。
「おやおや、ジャン君は義母上の料理に心を奪われているようですな」
「せ、先輩!? からかわないでくださいよ!」
後ろから声を掛けてきた人は、同じ小隊長だが三つほど年長だった。当然ながら軍歴も俺より長いから、一応口調を改める。
この軍歴はそれぞれの故国、俺ならメリエンヌ王国軍時代を含めてだ。
こちらへの配属は殆ど同じだから、そこから数えると大半が同期になってしまう。そのため非番の場合、大抵は前歴込みで先輩や後輩と呼び合っている。
「ほう、否定はしないんだな?」
「うぐっ……」
別の先輩の突っ込みに、俺は答えに窮してしまう。何しろ当のエーファさんが厨房から見ているからな。まだ迷いはあるにせよ、違うなんて素っ気ないことは言えないだろ?
「ジャン、俺にも王宮侍女を紹介してくれよ。別に急ぎはしない……お前の結婚式に招待してくれたら充分だから」
「そうそう、多少歳がいっていても構わんぞ。俺は騎士だから、二十歳くらいで行き遅れなんて言わん」
先輩たちは、もうそろそろ二十代の真ん中といったあたりだ。だから二十代前半から十代後半くらいがお好みらしい。
ちなみに貴族なら女性は二十歳までに結婚すべきという風潮があるが、騎士や従士だとそれほど早くない。女性は高い身分ほど早婚で、王族から伯爵家だと成人となった十五歳で結婚する方も多いんだが、下級貴族で二十歳前、騎士から平民だと二十代前半までが一般的だ。
例を挙げると、先ごろメリエンヌ王国の王太子テオドール殿下に嫁いだシャンタル様は十五の誕生日を迎えて一ヶ月で結婚した。それにテオドール殿下の第一妃ソレンヌ様も十六歳で嫁がれた。
俺の知っているお方だと、大武会で戦ったミレーユ様は同じく十六歳でシメオン様の奥方となった。これは少々事情があって、ミレーユ様の親友アリエル様が二十歳になる前に、と急がれたそうだ。
今でこそシメオン様は侯爵だが当時は子爵だったから、単独なら時間を掛けて準備しても良かった。だけどマティアス様とアリエル様のお二方と合わせたとか。女の友情ってヤツだろう。
それに対し、平民出身のミュレ先輩とカロルさんの結婚は遅かった。ミュレ先輩は子爵だが、平民出身の二人だけあって新郎が二十代半ば、新婦が二十代前半だ。もっとも現代日本からすれば、これでも早い方なんだがね。
「俺は従士の三男坊に生まれたから学がない。先々中隊長になったとしても、そこから先はな……」
「俺も似たようなものさ。だから、せめて嫁さんは先祖代々の騎士様の娘をってな。ジャン、お前の伝手に期待しているぞ!」
先輩たちは卑下するが、俺は逆に感心していた。先輩たちが結婚しないのは考えあってのことだったんだ、ってな。てっきりモテないからだと……いやいや、なんでもない。
この世界だと二十半ばの男で独身というのは少数派だ。殆どが早々に結婚するからね。
最高神が女神のアムテリア様ということもあってか、神殿は邪な心で女性に接するのを固く戒めている。そして公職にあるのに女遊びをする者など、まず見かけない。
貴族なら一夫多妻、もちろん生活の余裕次第だが複数の女性を堂々と妻に出来る。そんなわけで愛人が欲しいとか言うヤツは見かけないんだ。
「分かりました。でも結婚したら、ですよ。結婚しなかったらお招きも出来ませんし」
俺は頷きつつも、式のときは、と釘を刺した。
通例だと婚約したら、あまり時間を置かない。特に親や主君が決めた縁談だと、準備が出来次第すみやかに、なんて例が殆どだ。とはいえ照れくさいのもあったから、いつになるかは判らない、と言ったわけだ。
しかし俺の言葉は、思わぬ方向に転がった。
「お前! 遊びなのか!?」
「いかんぞ、それはいかん!」
「大神アムテリア様がお怒りになるぞ!」
先輩たちどころか、他のテーブルで食事していた者まで詰め寄ってくる。しかも厨房では、エーファさんが俺たちを見て笑っている。
そして俺は火消しに苦労した。それどころか、エーディトさんとは将来を見据えた清く正しい交際をしていると誓う羽目に……。まだ確定じゃないが未来の義母の前でって、どんな罰ゲームだよ!
◆ ◆ ◆ ◆
出かける前に随分と疲れた俺ジャン・ピエールだが、それでも予定通り外出した。引っ越しまで僅かだから、あまり時間を掛けてはいられないんだ。
俺はムハマさんの工房に着いたが、どうも留守みたいだ。普段留守にすることはないのに珍しいと近所の人に聞いてみたら、他のドワーフの職人たちと連れ立って北区の神殿に向かったとのこと。
それを聞いた俺は、ちょっとした興味も感じたので行ってみることにした。
神殿そばの広場にムハマさんを始め、見知ったドワーフの職人さんたちが集まっていた。そこに四角く盛られた土とその上に円が……見たままに表現するなら土俵だな。
「ムハマさん! なんですか、コレ?」
「おお、ジャン。これはな、ヴォーリ連合国に伝わる力比べ、素無男だ。今度行われる大祭では流石にドワーフの伝統競技は行われないからな。だから素無男の大会をできないかと有志で話をしているのだ」
ムハマさんの返答は、ある意味では予想通りであった。
素無男って……どう見ても相撲だよなぁ。まぁ、相撲も元々は神事だし、古くは神話にも登場するわけだし伝わっていてもおかしくないのか。
詳しく聞いてみると、アマノ王国でもヴォーリ連合国からの移住者が多い場所、ここ王都やイヴァール様が伯爵を務めるバーレンベルクなどでは競技者も結構いるらしい。というより、ドワーフの男は殆どが素無男をするそうだ。
しかしアマノ同盟の他国で知る者は極めて少なく、現状だと国別の対戦は無理だという。
「普及率が高くならないと難しいですね。でも、広まれば国で大会を開いてくれるようになるでしょう」
「うむ、そのあたりはイヴァールとも話しているところだ。うまくいけば来年の大祭で実現するかもな」
早速ぶつかり合うドワーフたちを見ながらムハマさんは笑っていた。
アマノ王国というか、元の旧帝国は国民の七割が獣人族だ。そしてアマノ王国は将来幹部となる軍人を確保するために、獣人族が優勢な南方の国々からも多数を招いた。
つまり意外に早く素無男が広まる可能性はある。獣人族には武人向けの者が多いし、彼らは力比べを好んでするからだ。
案外アマノ王国では、素無男が国技並みに人気を得るかもしれない。
俺は土俵の上のドワーフたちを見ながら、将来テレビのような魔道装置が普及したら、と夢想した。そのとき素無男は、国営放送の目玉番組の一つになっているかも。そして国営放送がアマノ放送協会と呼ばれていたり、なんてね。
そう思った俺は、自然と微笑みを浮かべていた。
◆ ◆ ◆ ◆
「さて、来たついでだ。お前も参加していけ」
観戦していた俺に、ムハマさんは素無男を取ってみろと言い出した。
笑顔で見つめていたから興味があると思われたのか、それとも俺も同好の士にしようと思ったのか。どちらにせよ、ムハマさんは俺の腕を取って控えの場らしきテントへと引っ張っていく。
「え!? え……と」
「なに、難しいものではない。さあ、行くぞ」
そんなわけで、上半身裸で半ズボンの上に革のふんどしを締めたような格好になりました。ルールは和素無男というもので、基本的に地球の相撲と大差なし。
「見合って見合って……はっきよい、のこった!」
行事の声と同時に、ムハマさんが突っ込んでくる。そう、相手はムハマさんなんだ。
さて、ここで少し解説しよう。知っての通りドワーフは身長が低い。その代りというわけではないけれど筋肉が発達しているし、実は体脂肪率も極めて低い。
結果としてドワーフは身長の割に重く、彼らが重心を低くして突進をしてきたら。普通なら相当な身体強化をしていないと、吹っ飛ばされて終わりなわけだ。
「おお、止めたぞ!」
「細いのにやるな!」
でも、俺は腰を落とすとがっぷり四つに組んだ。そのため周囲のドワーフたちからどよめきが起こる。
実はこれ、この世界に転生してから対人戦用に練った格闘技術なんだ。だから俺は身体強化を殆どせずに、力ではなく術理でムハマさんに対抗している。
とはいっても漫画で得た知識なんだけど。バランス感覚を鍛え、正中線を身に付けたんだ。極めて単純に言えば、真っ直ぐに立つだけだが、意識してみると思ったより難しい。だからこそ身についたときには効果絶大だったりする。
そして、その漫画から覚えた技(?)の一つ……『自分の足裏を垂直に持ち上げる』ように体幹の筋肉を使って……投げた。
「ムハマが持ち上げられた!?」
「しかも、さほど強化をしていないぞ!」
おそらく周囲には、俺の何気ない動作でムハマさんが浮いたように見えただろう。そのため余計に彼らは、地に転がるムハマさんの姿が受け入れ難いようだ。
「ジャンの山~」
ドワーフたちの驚愕の中、行事が高らかに俺の勝利を告げる。そして俺はといえば、投げたムハマさんを立ち上がらせようと手を差し伸べていた。
その光景を見た周囲は「流石は王国の騎士だ」と感心してくれたらしい。もっとも、そのお陰で俺は大会にも参加することになってしまった。
本当は引っ越し準備が忙しいんだけど、たまにはこういうのも良いだろう。俺は日本での子供のときを思い出しつつ、何番も素無男を取り続けた。
お読みいただき、ありがとうございます。
アマノ王国建国後、その王都アマノシュタットでの光景です。「その34」より後、創世暦1001年9月末近くです。