Chapter1...04
まりあからの告白を受けた翌日、予想外の展開になってしまった事と、彩香と仲違いした事とが重なったせいか、翌朝になっても妙な気だるさを感じたままで、碧生は教室の扉を開いた。
「……?」
疲れが残っているせいで、少し感覚が鈍っている碧生でさえ、教室の雰囲気がいつもと違う事に気づく。いや、正確には扉を開いたのが碧生だと認識されたほんの一瞬だけ、クラスのざわめきが止まったのだ。
だが、その原因は自席に座った頃に明かされた。
「小野寺、お前日下部まりあと付き合う事になったって噂になってるんだけど、マジか?」
出席番号が近い為に後ろの席になっている加藤が、妙なヒソヒソ声でそう話しかけてきたから、碧生も教室内の妙な空気がどこから来ているのか理解する。どういう経路かはわからないが、まりあと付き合う事になったという件が、もう噂になっているのだ。
「……まあ、そうなんだけど」
否定するのもおかしな話なので、碧生は渋々噂を肯定した。
「ええっ。じゃあ日下部まりあの方から告ってきたのもマジなの?」
眼の前の友人は一重瞼の細い目を精一杯見開き、驚愕の表情をわかりやすく浮かべてくれていた。
「……そう、なんだけど、なんでそんな事、もう噂になってる訳?」
「おまえ昨日、日下部まりあと一緒に校門まで帰っただろ?」
加藤の指摘に、碧生はただ頷いた。
「お前と別れた後、日下部のクラスの奴が聞いたんだって。なんで別のクラスの奴と一緒に歩いてたのか。そしたらニッコリ笑って、自分から告白して、つきあう事になったからって」
聞いた瞬間、碧生は目眩がする思いになる。確かにまりあは、嘘は言っていない。だがこの話の流れでは確かに興味を煽るだろう、とは思う。
そうして、返事をした時のまりあの様子は、容易に想像がつく。あの花のような鮮やかな笑顔で、柔らかなあの声で、軽やかに返事をしたに違いないと。
――なんか外堀固められてる気がする……。
「じゃあ、村上彩香はフリーなんだなっ」
「……は? 彩香がなに?」
突然会話の中に出てきた幼馴染の名前に、碧生は思わず眉間に皺を寄せながら、加藤に尋ね返す。
「だって、中学の時にお前が告られても断ってるのは、村上彩香と付き合ってるからって噂だったらしいじゃないか、お前らの中学にいた奴に聞いたぞ」
「元から彩香とはただの幼馴染で付き合ってない。そんな噂になってたのも知らなかったし」
やっと話の流れを理解したが彩香との事まで聞かれ、碧生は少々うんざりした気分になる。ただ、言われてみれば中学の時もやたらと彩香と付き合っていないのかと、周りから聞かれていたのを思い出す。
そして、昨日の今日でいきなりそこまで話を仕入れてくるとは思えない内容に、碧生は別の意味で更に眩暈を覚える。
いつの間に目の前の友人は彩香の事を気にかけていたのだろうか、と。
「なら村上彩香はフリーで、例えば俺が告ってもいいんだな?」
案の定、少し浮かれた様子で、加藤はそう尋ねてきた。
「別に好きにすればいいと思うけど。でもお前がいきなり告白しても断られるだけだぞ」
「なんで?」
目の前の加藤は、碧生の冷静な突っ込みに、少しがっかりした表情を浮かべた。
「あいつ、知らない奴からの告白なんて受ける性格じゃないし。まあ、お前の事知ってたからって受けるかどうかもまた別問題だけどな」
何故ここまで説明しないといけないのだろうと、碧生が溜息を漏らしながら指摘すると、加藤はあからさまにがっかりとした表情で、首をうなだれた。
だが、加藤といい、昨日のまりあといい、いきなり知り合いでもないのに告白するという行動力は、ある意味うらやましいと頭のすみで考えた。
◇ ◇ ◇
昼休みを告げるチャイムが校内に流れ、教室から教師が居なくなれば、室内は開放感を交えたざわめきに支配される。
碧生は教材をしまいながらも、まりあと昼食の約束をしていた事を思い出す。
どこで食べるか、待ち合わせ場所等も決めていなかったのだ、一旦彼女と連絡を取ろうかと、携帯電話を手にした瞬間、耳に飛び込んできた聞き覚えのある柔らかな声に、碧生の動作は止まる。
「碧生っ」
碧生よりワンテンポ遅れて、クラスのざわめきがやむ。廊下や他のクラスでは普通にざわざわとした物音に溢れている分、妙な沈黙がクラスには漂っていた。
碧生があえてゆっくりと首を動かせば、案の定まりあが扉の所に立っていて、碧生の視線に気がつくと、笑顔でひらひらと手をふってきた。片方の手には鞄を持っていて、メールで告げてきていた弁当なのだろうと、碧生も見当をつける。
そして、クラスの妙な視線から逃げ出したい碧生は慌てて席から立ち上がると、携帯電話を制服のポケットに突っ込み、急ぎ足でまりあの所まで駆け寄った。無論、その頃にはもうクラスのざわめきは戻っていたが、クラスメイトの視線がまだ、ちらりちらりと纏わりついているのを碧生は感じていた。
「日下部さん、なんでいきなり名前……」
碧生はまとまらないままの思考で、とりあえずそんな事を思わず指摘していた。
「だって付き合ってるんだもの。そう呼びたい、ダメ?」
まりあが屈託ない笑顔を見せるから、碧生にしても急に肩の力が抜け、何故そんな事を気にしたんだろう、なんて気分になる。
「いや、あの、……うん、いいよ」
「碧生も私の事は名前で呼んでね」
「え。あーと、わかった」
こちらの空気を読めないのか、わかっててこの対応なのか、碧生にしてみればまりあはどこか掴みどころがないと感じる。ただ目の前の笑顔は邪気のないもので、悪意がない事だけは見てとれるから、逆にたちが悪いと感じる。
なぜだか流されてしまう一因は、そこにあるのではないかと、碧生もなんとなくは感じていた。
「じゃ、今、呼んでみて?」
「は?」
まっすぐにまりあは碧生の事を見上げてきていて、名前を呼ばなければ話が進まないように感じられ、碧生は頭の中では、次の対処法に考えを巡らせていた。
――まりあさん、まりあちゃん……。ないな、やっぱ……。
「……まりあ」
観念して碧生が彼女の名を口にした時、まりあは嬉しそうに笑った。
その笑顔に碧生は思わず見蕩れてしまう。名前で呼ぶ、それだけの事にこんなに喜んでくれて、可愛いと感じないはずもないのだ。
だが、すぐに我に返れば、自分達のやりとりをクラスメイトの一部が眺めている事に気づく。
「あっと、どこで飯食おうか?」
まさか自分の教室に招き入れるのも憚れるし、まりあの教室だって同様だ。
「うん、それなら考えてあるんだ。今日はいいお天気だし、風もさわやかだし、いいと思う」
碧生の質問に慌てる事もなく、まりあは歌うように軽やかにそう言い放った。
◇ ◇ ◇
教室の前ではどことは名言しなかったが、まりあに連れてこられたのは屋上だった。確かに青空に白い雲が所々浮かんでいる、昨日と同じく春らしい陽気で心地いい。
「そうだな、ここなら落ち着くかな」
先客が居ないのもあり、碧生は少し気が楽になったため、薄い笑みを浮かべていた。まりあは手元のバックから小さなレジャーシートを取り出すと、フェンスの角あたりでそれを引いた。
「ここにどうぞ」
「へえ、準備いいんだね」
「だって、昨日から考えてたもの」
上靴を脱ぎながら話しかけた碧生に、一足先にレジャーシートの上に座り込んでいるまりあが、弁当箱を出しながら微笑む。その笑みに、碧生の心も少し軽くなったような気がした。
「はい」
「ありがとう。……え、結構すごいね」
まりあから二段組の弁当箱を受け取り、早速を蓋を開け、中身を確認した碧生の口からは、思わずそんな感嘆の言葉が漏れる。見た目だけなら母がいつも作っている物とひけをとらないからだった。バランスよく、尚且つ彩りよく配置されたおかずは食欲をそそるには十分だった。
「いただきます。……?」
だが、口にした瞬間、碧生は思わず首を傾げたから、まりあも途端に不安そうな表情になる。
「えと。おいしくない……?」
「あ、いや。おいしくないというか、なんというか……味が薄い?」
言いながら疑問符がついてしまうのは、味が薄いなら普通感じる素材そのものの味も、イマイチ感じる事ができなかったからだった。素材そのものものの味も薄いような気がする。
「……あ。ホントだ。わー、ごめんね、初めてだから失敗しちゃったかも……」
まりあはしゅんとした様子で、自分の膝の上の弁当箱を見つめていた。
「え。初めてでこれだけ作れたらいいんじゃないかな。今度は味に注意しながら作ればいいと思うよ」
碧生の言葉に顔を上げたまりあは、少しほっとしたように笑った。
「そっか。うんっ、明日は味のイメージもしっかりしてみるっ」
「イメージ? ……味見の事?」
「あ、うん、そう」
普通と違う感覚の薄味に、イメージという単語とで、小さなひっかかりを感じたが、深く突っ込む事ではない気もした。まりあも変な言い回しをしてしまったと思ったのだろう、少し慌てたような表情を浮かべた。
「でも、二日も続けてお弁当とか大変だろうから、またの時でいいよ」
「大丈夫、メールにも書いたように、自分の分と一緒に作るんだから」
「でも、さっき初めて作ったって言ったよ? という事は普段は弁当なんて作ってないんだろ?」
碧生が指摘した瞬間、まりあの動きは一瞬停止して、次には悪戯を咎められた子供のように、少し困ったような表情で笑った。
「あは。そう、だね。でもね、明日はリベンジなのっ。私の意地にかけてもちゃんとしたのを作りたいの。……それとも迷惑?」
窺うようにまりあにそう問われれば、あまり無下に拒み続ける事は難しい気がしたし、彼女の言い分も、わからなくもなかった。
「んー、じゃあお願いしようかな」
「うんっ」
まりあが嬉しそうに笑うと、柔らかな風が吹き抜け、彼女の長い髪の毛を優しく揺らした。まりあの容姿もさる事ながら、彼女の表情自体が明るく魅力的で、人を惹きつけるのだろうと碧生も感じていた。そして、それ故にひとつの疑問だって沸いてくる。
「あのさ、ひとつ聞いてもいい?」
「なあに?」
碧生が切り出すと、まりあは小さく小首を傾げた。
「なんで俺に告白、してくれたの? クラス違うし、話した事もないのに」
まりあは、大きな瞳をパチパチと瞬かせ、少し照れたような表情で笑った。そんな仕草もやはり愛らしくて、碧生は目が逸らせない。
「えーとね、こないだ猫、助けたでしょ?」
「え」
一瞬意味がわからなかったものの、すぐに図書館の暗い夜道、足元を駆け抜けた黒猫、車のライトがフラッシュバックのように、碧生の脳裏を駆け巡る。そして、反射的に猫を抱え、転がったあの日の事だと気づく。
「あー…、見てたんだ?」
少し照れくさい気分になり、頭を掻きながら碧生がそう答えると、まりあは小さくコクン、と頷いた。
「あの日、私も図書館に行ってたんだ。そしたら碧生は少し前を歩いてて……」
「そっか、それがきっかけ?」
「うん。碧生は新入生代表だったからすぐにクラスとかわかったんだ。うちのクラスの担任河野先生だから、ご両親の事もちょっと聞いちゃった」
まりあは屈託なく微笑みながら、軽やかに口にするのだが、碧生は両親の話題、という単語に少し嫌な気分になる。そんな些細な碧生の表情の変化に気づかないまりあは、そのまま淀みなく言葉を綴る。
「碧生のお父さんも新入生代表だったんだね、お父さんもすごかったんだー」
まりあの言葉を聞いた瞬間、碧生の中にまたか、そんな思いが溢れる。すうっと何かが引いていく感触。
いつだって相手に特に悪気はないのはわかっている。それでも出来のいい父に比較される事は、碧生を知らず知らずのうちに卑屈な気分にさせてしまう。
そうして、うまく感情をコントロールできない碧生は、そっけない返事をしてしまう。
「……みたいだね」
「……? なんか私、気に障る事話したかな?」
だがまりあは、ここにきて碧生の不快感を読み取ったようで、小首を傾げながら、そう問いかけてきた。
「いや、別に。俺が成績良かったりしても血筋だろう、みたいに言われるの思い出して……」
そこまで言葉にして、碧生はハッとして口を噤む。普段ならこんな事漏らしりはしないのに、まりあの柔らかなオーラが、自分の感情を露呈しやすくさせている事に気づいた。
「えー? 成績って血筋でよくなるの?」
だが、まりあは少しおかしそうに、笑った。
「いや、そんな言い回しされる事が多いって話で……」
「ふうん? でも碧生の成績がいいのは、碧生が勉強がんばったからでしょ? いくら頭よくても勉強しなきゃ一番になんてなれなものじゃないの?」
少しの戸惑いを隠せないままの碧生の返事に、まりあは今までとなんら変わらない声のトーンのままでそう返すと、手元に持っていたコーヒー牛乳にストローを突き刺し、飲み始めた。
「……ああ、うん。勉強、ちゃんとしてるよ」
「だよね。一緒に今度試験勉強しよ。教えてね」
碧生の返事に、納得したようにまりあは微笑む。そんなまりあの事を、碧生はぼんやりとしたまま見つめてしまう。
こんな風に言われたのは初めてだった。
父の出来と、自分の出来を別の次元で捉えてくれたのだと、はっきりわかる言葉をもらったのが、初めてだったのだ。
今まではどれだけ結果を出しても、父の息子だから当然、という感じの事しか言われたことがない。逆に結果が伴わない場合はあの父の息子なのに、と言われただろう事は容易に想像できていた。
「……何? なにか顔についてる?」
碧生の視線に気づいたまりあは、コンパクトミラーを取り出し、慌てて自分の顔を覗き込んでいた。
「ごめん、別に何もついてないよ」
「……そうみたいだね」
慌てた碧生の言葉に、まりあもそう返してきた。パタン、とコンパクトミラーを畳むと、碧生と顔を上げたまりあの視線は絡まる。そのまま逸らす事なく碧生が微笑むと、まりあも返事のように笑い返す。
――……付き合う事自体は、成り行きだったけど、こういうのも悪くないかも。
よく晴れた日、抜けるような青空と、絵に描いたみたいな白い雲を背にしたまりあを見ていて、碧生はそんな風に思った。
「そういえば、屋上って立ち入り禁止でもないのに、他に誰も来ないね」
二人でランチを食べ始めてから結構時間が立つが、誰も来ないのは意外で、碧生はそのまま疑問を口にしていた。
「あ、うん。人避けの魔法使ったから?」
コーヒー牛乳を飲み干したらしいまりあが、紙パックからズズっと、音をさせた後にさらりとそんな言葉を漏らした。
「……魔法?」
今度は碧生が小首を傾げる番になる。それを見たまりあは一瞬だけ、焦りを感じさせる表情を垣間見せたが、すぐにいつものようにカラリとした笑顔を見せた。
「うん、魔法。とゆーか、おまじない?」
「……へー…。結構効くんだね」
なんとなく辺りを見廻しながら碧生がそう言うと、まりあは得意げに微笑み、その笑顔に碧生の肩の力が抜け落ち、気づけば自身も薄い笑みを浮かべていた。
――うん、こういうのも悪くない。
碧生は小さく頷いてから、手元にあるペットボトルの蓋を回した。




