Chapter1...02
放課後、碧生は指定された屋上に向かい、階段を上がっていた。手紙で呼び出された場所だったからだが、悪戯かもしれないという疑念もある。十五分程待っても相手が現れなければ帰ろうと考えていた。
そして、ゆっくりと屋上への扉を開けると、フェンスのある所まで真直ぐに歩く。この学園の屋上まで来たのは初めてだったからだ。
フェンスに手をかけ、辺りを見回しても人の気配はなく、日下部まりあはまだ来ていないらしい事に気がゆるみ、小さな溜息をもらした。
そうしている間にも春の風が碧生の髪の毛や肌を優しく撫でていき、心地よく感じる。屋上から街の風景をぼんやりと眺めていると、春風に紛れて、柔らかくて軽やかな声が碧生の苗字を呼んだ。
「小野寺くん」
呼びかけに応えるために後ろを振り返ると、周りの空気がざわりと動くような錯覚さえ覚えるくらいの美少女が、そこには居た。
腰まで伸びた黒い髪の毛は、とても綺麗なストレートで、シャンプーのCMにだって、出られそうだ。その柔らかそうな髪は、春の風にたなびくように軽やかに揺れていた。ぱっちりとした大きな瞳は、髪の毛と同じ漆黒の色で、碧生と目が合うと、彼女の唇の両端が微かに上がり、鮮やかな笑みを浮かべた。
「来てくれてありがと。私、手紙出した日下部まりあ、だよ」
「ああ……、うん」
碧生はなんと返事をしていいのかわからず、反射的に言葉にならない単語を綴るしかなかった。
戸惑ったままの碧生との距離を縮めるかのように、まりあはゆっくりと近づいてくる。彼女の可憐な動きを碧生はただただ、眺めるばかりだ。
天使のよう、という表現が本当に大げさじゃない事に、軽く驚くくらいだ。
碧生との距離を1M程まで詰めたまりあは、少しの緊張をその表情に滲ませると、その唇を動かした。
「あの、用件は薄々わかってると思うんだけど、私とつきあってほしいの」
先程とは違い、少し上ずったまりあの声が碧生の耳に届く。
ただ、こんな風に告白される事自体は、碧生は初めてではなかった。高校生になってからは初めてだったが、中学時代は何回か告白された事がある。それは恐らく成績が良かったのと、生徒会長もこなしていて目立っていたせいもあるのだろうと、自己分析していた。
「あ……と。その、悪いんだけど……」
そして碧生は断りの言葉を切り出しかけていた。そう、いくら美少女でも話した事もない女の子とつきあう気にはなれない。最初からここへは断るつもりで来ていたのだ。
とはいうものの、人から向けられた好意に応えられないというのは、少しの後ろ暗さがある。まりあから視線を逸らしながら、続きの言葉を紡ぐ為に口を開こうとしたが、それは彼女の声に遮られた。
「小野寺くん」
「え?」
「私の目を見て、返事してほしいの」
まりあは不安そうな表情を浮かべ、小首を傾げながらそう懇願してきた。その仕草は何か小動物を思い起こさせ、元来の造形がいい事もあり、一瞬見惚れてしまう程に愛らしい。そして気づけば、碧生はその漆黒の大きな瞳を、吸い込まれるように見つめていた。
「私と、つきあってくれないかな?」
繰り返されたその言葉は、脳の奥の方に直接、甘く、響いていく。
碧生は何かの呪縛にでもかかってしまったかの如く、まりあの瞳から視線を逸らす事ができない。そうして、まりあの告白は碧生の意識下に広く、深く、刻み込まれていき、何も考えられなくなった頃、ひとつの言葉が紡がれた。
「ああ、わかった」
「本当っ? ありがとうっ」
まりあは、両手を首の辺りで合わせ、その場で飛び跳ねそうな勢いで、嬉しそうに笑ったが、その声を聞いた瞬間、碧生はハっとなる。
何故だかわからないが、自分の思考が遮断されていたような、そんな気がするのだ。断るつもりだったのに、何故付き合うと返事をしたのか、自分で自分がわからない。
「あ、あのさ、日下部さん」
「何?」
機嫌がよくなったまりあは、頬をうっすらと赤く染め上げ、花がほころぶように微笑む。そんなまりあの表情に碧生は一瞬見惚れ、そしてすぐに沸き上がる小さな罪悪感に言葉を失う。
今更先程の言葉はなかった事にして欲しい、等とは言い辛い。
「ねえねえ、番号と、メアドとか交換しよ?」
携帯電話を取り出すと、まりあはそう提案してきた。
「う、うん」
結局流されるまま、碧生も携帯電話を取り出し、電話番号とメールアドレス、SNSのIDをを交換した。まりあは携帯電話の画面を見てうなずくと、すぐに碧生に向き直り次の提案をしてきた。
「ねえ、一緒に帰ろ?」
「え? ごめん、今日はこの後、ちょっと予定あるんだ」
「そうなんだ、残念。呼び出したのも突然だったから仕方ないね。じゃあ今度一緒に帰ろうね」
碧生の言葉を疑ってもいないらしきまりあは、屈託ない笑顔を浮かべたので、碧生は胸の奥がチクリと小さく傷む。放課後の予定なんて、本当はないからだ。なんだか落ち着かなくて、一人になりたくて、碧生が咄嗟についた嘘だったのだから。
「じゃあ、校門までは一緒に帰ろう?」
「うん」
そこまでは頑なに拒否する訳にもいかなくて、屋上から靴箱のある玄関まで、まりあと二人で校内を歩く。たまにすれ違う生徒が、チラリとこちらに視線を向けてくる気配がして、碧生にしてみればなんだか落ち着かない。特に男子の視線の先はまりあのようで、その後に碧生を見やり、妙な溜息をつかれるのだ。彩香が言っていた『天使のよう』という表現は、確かに大げさな物ではなかったのだから、それも致し方ないと、碧生も心の中で溜息をつく。
「明日は一緒に帰れるかな?」
校門の前まで来ると、まりあは小首を傾げながら、そう問いかけてきた。柔らかそうな髪の毛がかすかになびき、そんなふとした仕草でさえ、いちいち絵になる。
「えー…と。うん、いいよ」
碧生の返事に、まりあは満足気に微笑んだ。
「じゃあ、また明日ねー」
まりあは、ヒラヒラと手を振りながら、駅へと向かう道に向かって歩きはじめた。碧生は彼女の後姿が小さくなり、見えなくなるまで眺めていたが、暫くすると自分もゆっくりと駅へ向かって歩きだす。そう、向かう先は結局、まりあを見送ったのと同じ方向だ。ただ、途中にあるコンビニエンスストアに立ち寄り、目的もなく店内をうろついた。それは勿論、駅でまりあと鉢合わせしないためだった。
「碧生」
コンビニエンスストア内の雑誌コーナーで、立ち読みをしていると、聞き覚えのある声に名を呼ばれる。
「あれ、彩香。今日はよく会うな」
「うん、そーだね、なんてね。ここ通りかかったら碧生が居るの見えたから入ってきちゃった」
彩香は屈託なく笑う。見慣れた幼馴染の笑顔にほっとしつつも、正面のウィンドウを見ると、こちらに向かって二人の女子生徒が手を振っているのが見えた。少し不思議に感じていると、横にいる彩香がその少女達に手を振り返しているのに気づく。
「あれ?あの二人彩香の友達じゃねーの?いいのかよ、一緒に帰ってたんじゃねーの?」
「え? うん、いいの。あの二人はこれからちょっと予定あるみたいで、どっちみち、駅でお別れの予定だったから」
「ふうん」
彩香は少し慌てた表情でそう返事をした。そのいい訳めいた雰囲気を少し不思議に感じながらも、碧生はそれ以上突っ込むつもりないため、適当な相槌を打った。
「だから、今日は一緒に帰らない?」
「うん、いいけど。あー、じゃあさ、あの公園でアイスでも食べねー? 俺おごるし」
「おごり? やったぁ」
時間を潰すいい口実ができたと思いつつ、碧生が斜め前に見える公園を指差しながら提案すると、彩香は嬉しそうに大きく頷いた。