Prologue
気が付けばいつも、そばにかあさまが居た。
かあさまは、私が生まれてから、私のそばから離れた事はないと、笑った。
ここは、魔界は危ないところだからと、そう付け加えて。
娘の自分が言うのもどうかと思うけど、かあさまの笑顔はいつも優しくて、そして、今になって思いだしてみると、少しあどけなさを感じる、そんな愛らしさがあったように思う。
あの男は、会うたびにいつも、かあさまの事を好きだと告げていた。
それでも男の事を、受け入れる事はなかった。
私のとうさまは、かあさまの夫はもう亡くなっていたのに。
そうして、その時の私には、彼の事を悪い男には思えなかった。ただ、特別好意を寄せる程でもなかったけども。
ただ、あれだけ熱心に言い寄ってくるのに、その気持ちを受け入れないのはどうしてなのかと、尋ねた事があるの。
するとかあさまは、困ったように、小さく笑った。
「あの人は私の魔力が欲しいだけ。本当に愛してくれている訳ではないの」
かあさまの口にした言葉の意味は、生まれて間もない、小さな私はよくわからなかった。
だって根源的な事から理解できない。
「愛ってなあに?」
首をかしげながら母様の事を見上げる私の頭を、かあさまは優しく、そして髪の毛をゆっくりとすくようにしながら、今度はふんわりと笑った。
「そうねぇ、こうしてると幸せな気分になれるって事かな」
かあさまはにこりと笑うと、私の事をきゅっと抱きしめてくれた。
そうされると、暖かくて、やわらかくて、胸の奥もほんわかして、とても、とてもいい気分で。
でもそれが『愛』と言うものなのかは、正直わからなかったけど、幸せな気分になれるという事はわかったの。
◇ ◇ ◇
そう、私は幸せだった。
母さまの腕の中で。
一歩外へ足を踏み出せば、命の保証なんてない、危険な世界が広がっている事なんて知らずにいた。
ううん、知識では知っていたけど、それは知識上の事でだけ。
魔界育ちなのに、魔界の本当の恐ろしさを、今も私は知らない。
◇ ◇ ◇
私が恐ろしいと初めて感じたのは、魔界を出る時。
小さな獣に姿で、ただ、他の魔物に自分が魔の者だと気づかれないように、逃げるように、生まれた場所を後にしたあの時。
だって、本能でわかったの。
今、どの魔物も私に見向きもしないのは、小さな獣だと思われているから。
他の魔物を倒せば、その魔力を吸収できるって事は、かあさまから聞いていた。
そして、自分がただの獣じゃないと気づかれたその瞬間、襲われて命を落とすだろう事を。
この世界で最弱であろう、後ろ盾のない私が、一秒だって居られる場所じゃない事を。
だから、ただやみくもに走ったの。魔界じゃないところを目指して。
あれから、魔界には戻ってない。
今なら魔界に戻っても、そうそう命を脅かされる事はないレベルにはなっているけども。
でも、戻る意味なんてない。
母さまはもう居ないのだから。