あなたの好きは、本物ですか?
オッカムの剃刀とは、ある事柄を説明するのに必要最小限の仮定で済むならそれを採用し、残りの仮定はすっ飛ばしても構わないということらしい。
昔観たドラマの中で、古谷一行が言っていた。刑事ドラマだったが、檀れいが憎らしいほど可愛いそんなドラマだった。この人は、いつまで可愛くいられるのだろう。多分、私が可愛いと思い続ける限り、檀れいは可愛いままなのだろう。
閑話休題、前回のまとめ。
オッカムの剃刀は、思考のショートカットだ。いちいち、右は南を向いた時、云々やっていたら車で事故を起こしてしまう。ちなみに私は、車の運転免許を持っていない。納得した。
もうネタが切れた。今回は、カッパの話をしようと思ったが、カッパは私の最重要機密であり、CIAもそれを狙っているような気配がする。
なので、宮崎あおいの話をしようと思う。唐突に思われるかもしれないが、実は前回に伏線があった。エッセイに伏線とか使っていいのかわからないが、私はエッセイなんて書いたことないので、今回はこれでいかせてもらおう。
宮崎あおいは、大河ドラマ天璋院篤姫などで知られる俳優である。
前回触れさせていただいた三浦しをんの小説、「舟を編む」は実写映画化されている。松田龍平主演で、宮崎あおいはヒロインのポジションだ。
松田演じる編集者の男が、夜何気なくアパートの窓を開け、ベランダに出るとそこに宮崎がいる。彼女は月光を浴びて気持ちよさそうだ。二人は見ず知らずの他人同士でその時が初対面だ。何のこっちゃわからないかもしれないが、そういう場面である。
非日常だが、ライトノベルなら割とよくありそうだし、私が写実しても陳腐になってしまうのだが、何故かそのシーンは印象に残っている。
そこで疑問なのだが、あの時私の心は宮崎あおいのどこに惹かれたのだろうか。
失礼ながら、私は宮崎あおいのファンではない。前述の篤姫にしたって、大奥みたいな話ぐらいにしか記憶にない。多分その他の作品も二、三観たくらいで、後はCMでお見かけする程度だ。
演技力か、映像作品の妙としてか、彼女の外見か、想像できる人柄か。
実際、彼女のことはほとんど何も知らないと言っていい私は、こんな考察をする意義すらないと逃げ腰になりそうである。
「オッカムの剃刀だよ、君」
と、古谷一行の声が聞こえそうだが、まああながち間違ってもいない。
所詮、演技素人、映像素人、女性審美素人の私が宮崎あおいの謎を解明しようとしたのがそもそもの間違いであった。
ここに平身低頭する次第である。
と、頭を下げてはいるものの、私は舌を出している。どうせ、本当の宮崎あおいを誰も知らない。素人目線でしかわからないといことは、素人程度にはわかるということで、私は私の見たいように、彼女を見ていた。そこは、経験測とかその他体調などの要素が深くからみあい、混雑する場であった。それを要約し、結んだ像が私の知る宮崎あおいであり、あなたの知る宮崎あおいではないだろう。
つまり、宮崎あおいの魅力を語るのは、不可能だということになる。私の脳内の宮崎あおいはとても魅力的であり、私の貧弱な語彙で表現できる代物ではないからである。
え? じゃあここまでの内容無駄じゃん。何してんの? 時間返せよと怒って席を立とうされる方もいるだろうが、私の謝罪会見はまだ終わっていない。
冒頭で触れたドラマの中で、檀れいは常にダッフルコートを着ていた。
私はダッフルコートが好きだ。別にフェチではなく、使い勝手がいいとは言えないこのアウターを、自分で着ているうちに好きになったのだ。
不思議なことに、檀れいがダッフルコートを脱いだとたん、以前ほど胸がときめかなくなってしまった。
ダッフルコートを着た檀れいが魅力的だったのか、ダッフルコートの仕立てがよかったのか、まあ幾多の理由が考えられるが、結論としてやはり私は私の見たいものしか見ていないということである。あるいは、私の視野は私が見たいものを見ていると思っていると、思わされているのかもしれない。
彼らは、一流のマヌーサの使い手である。もうそうとしか考えられない。
「マヌーサ」
と、唱えれば私の視界はもやもやっとなって、宮崎あおいに、月がきれいですねと言いたくなるのだ。
できれば私もマヌーサを使えるようになって、誰かの心を奪いたいものである。