右か、左か
このエッセイの目的というか、目標はあらすじに書いた通りである。
「みんなもじこぶんせきして、しゅうしよくかつどうとかにやくだてよう」
みんなというのは、これを読んでいる貴方のことだ。
自分自身のことは、他人以上にわからない。それが私の見解である。かといって他人の心ことが手に取るようにわかるわけでもない。
もしかしたら、貴方は私以上に私を理解し、貴方自身をも把握しきっているのかもしれない。そう思う人は、きっと実世界でもうまく生存できることだろう。羨ましい。そうでない人も絶望しないでもらいたい。
まあ、自分のことがわかっても今以上に不幸にならない保証はないのだが。
私が、内面を担保にこのエッセイを書いているからといって、貴方も何か書いてネットに晒せと言いたいわけではない。
書くのは結構だが、秘密のノートにでも書いて鍵付きの机の引き出しにしまっておくことをお勧めする。
書いていると、思いがけないものが見つかることがある。が、見つからないことも多い。私がして欲しいのは、そんな宝探しのようなことである。
その手法を私は、自分の身をもって実験して
いる。強制はしない。私の手法は正しくないかもしれない。
内容も大それたことは書かないだろうから、濱野が変なことやってるな、くらいに捉えてくれると幸いだ。
前回の続きにようやく入ることができる。
前回の内容を読んだ方は、一様にツッコミを入れてくださったことだろう。
私が冷たい水の中にいる理由だ。
溺れるリスク考慮しながら、何故丘に上がらないのか。自分で泳ぐのが楽しいというのはある。他人の泳ぎを間近で見たいといのもある。ここまで浸かっているから、半魚人に変化して、陸に適応できないかもしれないからか。だが、大多数の人間は、小説を書いてもカタギの生活をしている。半魚人ではない。
私も半魚人ではないはずだ。
結論を早く書けと、貴方は急かすだろう。だが、私が半魚人ではないということしか今はわからない。
そして、太陽は今日も眩しい。
そろそろ次の話題に移ろうと思う。タイトルから、イデオロギーの話かなと思った方もおられるだろう。しかし、次の話題もプールに関連している。どうやら私は、水に関連することを書きたいらしい。そのうちカッパの話もするだろう。
右か、左か。
私はそう尋ねられ、縮み上がった。政治思想の偏向を疑われたわけではなかった。
水泳教室に通っていた時の話である。
「乱ちゃん。右手上げみて」
水泳教室の女性インストラクターに、出し抜けに尋ねられた乱ちゃんは、何故か左手を上げていた。
これは私が小学校三年生くらいの時のエピソードである。どういう状況だったのかよくわらない。とても恥ずかしかったことだけは、よく覚えている。
乱ちゃんの教育レベルを疑われるむきもあろう。だが、乱ちゃんは普通の子供であった。算数が少し苦手だったが、国語が他の子供より、たけのこの里一つ分くらい秀でていたくらいである。その頃はまだ友達もいた。右、左という漢字も書けた。
たが、母親に右はこっち、左はこっちと教えてられても覚えられなかった。
何故と声を発せられたら良かったのだが、そこまで聡い子供でもなかったので、わかったふりをして頷いていた。
ところで、この右と左はくせものである。
広辞苑によれば、右とは
『南を向いた時、西にあたる方』とある。
左は
『南を向いた時、東にあたる方」とある。
目を瞑るともう忘れてしまう。私は、この事実をつい最近になって知った。
三浦しをんの小説、『舟を編む』で、この内容を即座にそらんじるシーンがあったが、そんなことのできる人間は、ごく少数ではないのか。
つまり、右と左は簡単なようで複雑なのだ。乱ちゃんを擁護するわけではないが、一見シンプルなことに恐ろしい何かが潜んでいないとも限らない。
わかったふりをして、素通りするのは簡単だ。したり顔をしている人間は山ほどいる。乱ちゃんみたいにすればいい。
でも、恥ずかしいと感じるうちは、知ろうという気持ちは捨ててはならないと思うのだ。