酒はストレートで
何だか大人の流儀みたいなタイトルになってしまったが、大したことはない。
そもそも大人としてのロールモデルが、ほぼ崩壊しつつある現在、流儀なるものが存在するのか疑問である。
私が問いたいのはただ一つ。
酩酊と現実は等価なりや?
私がアルコール中毒だから、自分を正当化したいのだなと、あなたは思われるかもしれないが、実はそうではない。
私はここ数年、酒を絶っている。それ以前も酒は嗜む程度で、潰れるほど飲んだのは一度しかない。
酩酊状態とは不思議なもので、この世が正に極楽のような心地。全てが優しく私を包むように展開されると言ったら誇張があるか。
いずれにしろ私は、正常な思考判断を失い、有る事無い事口にするのだが、それは酒を呑んでいない時でも同様なので、あまり気にしていない。
この、酩酊時、正常な思考判断が不可能であるという視点は、今、素面の私がもたらした判断で間違いない。
が、 酩酊状態が現実を捉えていないという十分な反証にはなり得ていない。
酩酊状態にも意識はあるし、その時はきちんとした対応を取っていたつもりである。
つもりであって、見積りを間違えていることは多いにありうる。
飲酒運転は撲滅されるべきだし、酒が入ればやはり認知機能は低下する。これは間違いない。
だが、やはり人間の脳は選択して行動しているように思うのだ。
外で意識がなくなるほど呑んだにもかかわらず、気づけば自宅の玄関に寝ているという話を聞いたことがある。
それは誰かに送ってもらった可能性はあるものの、何としても家に戻るという自意識が働いたのではないか。
つまりは、情報を選択し、受け入れる余地が脳にはあったのではないだろうか。
私は、酩酊と現実は等価であると位置づける。
酔った勢いという言葉があるが、酒の失敗は自分の責任である。
この世は極楽ではない。あくまで酒は、一時逃れの誤魔化しに過ぎない。それはあらゆる物事に通じる悲しい性である。
そして酒によって引き起こされた失敗は、酒が誤魔化してくれることはなく、自分の身に降りかかる。
物事は紙一重の危うい境界で成り立っている。得たものを失うのはいつも容易い。
唐代の詩人、李白には酒についての詩が印象深いが、彼の暮らしていた時代、政情は常に不安定であった。生と死は今よりずっと隣合い、近しいものだったのだろう。
李白は酒びたりだったという逸話も聞くから、常に酩酊していたのかもしれない。
それでも後世に残る詩を残したのは、李白が現実を直視していたということになりはしないか。
酩酊と現実は紙一重。
お酒はほどほどに。