スパイスがお好き
近所の本屋で、棚から文庫本を手に取る。丁度よい厚みと重さだ。
ハードカバーは好かない。値が張り、金銭的余裕もさほどない身には余りある。
買って後悔するケースが圧倒的に多いのは、私の目が曇っているにせよ、本の種類も数も圧倒的に多いことも原因として上げられるのではないだろうか。
物事を選択するのは、責任と苦痛を伴う。とはいえ、人間は生きる過程で、快楽を追求するべく行動している。責任と苦痛はそのためのスパイスとして機能する。
余白はスパイス、ハブられっ子はスパイス、スパイス尽くしのカレーの見本市になりつつある現代において、本屋に置いてある大量の本は何の、誰のためのスパイスなのだろうか。
ベストセラーか、あるいは古典か、実用書か。
それを決めるのは、私ではない。出版社でも、問屋でも、本屋でもない。
誰も決めない。先送りにされ、返品され、シュレッダーにかけられ、命を終える。
それでも皆、作家を目指す。本とは何なのだろう。
近頃、小説が面倒に感じられる。
本屋で手に取った、夏目漱石の「それから」の一ページ目を開いた時、愕然とした。
「めんどくさいよおおお!?」
私は文庫本を破いて、燃やしたくなった。勿論、そんなことはしない。法に引っかかるからだ。
誤解しないで欲しい。私は漱石を尊敬している。「吾輩は猫である」の自由主義批判は的を射ていると思ったし、「こころ」に於いては、NTR的な背徳感に感銘を受けた。(正確には、こころは、NTRではないのだろうけど、私は勝手にそう思っている)
日本の小説家を一人挙げるとしたら、彼の名を臆面もなく答えるつもりだ。
それゆえ解せなかった。どうしてページを読み進めなかったのだろう。
その他、カミュの「異邦人」と、チェーホフの「桜の園」など開いてみたけれど、やはり気乗りはしなかった。
この場合、大先輩方が“スパイス”にならざるを得ない。
ことほどさように読者とは、不真面目で軽薄な生きものなのである。
小説は止めて、漫画を買った。何年ぶりだろう。表紙を見て適当に選んだ。
先輩方に後ろめたさを覚えつつ、私は本屋を出た。子供のように、家路を急ぐ。