サヨナラワタシライセデシアワセニナリマセウ
私は誰だ?
近年、私を悩ます問いである。
忘却探偵じゃあるまいし、私は私の生活の規範を維持している(と思っている)。
すなわち忘れないようにペンで、腕に文字情報を書いてはいけないことになっている。それもまた規範であり、常識であり、昨日食べた夕食は、腹に収められてなくなっているだろうが、私は忘れてしまっても問題ないのか?
主観という奴が、あまりにも私を裏切るような真似をするので困るのだ。
よって私は主観を殺すことにする。
サヨナラワタシ。
くだらない前置きはさておき、果たして主観を殺す試みは、成立するのだろうか?
ある種の自殺、自我の押し込め、人の顔色を窺う。どれも今回の場合、不成立の憂き目にあう。
ドラゴンクエスト7のキャッチコピーは、「人は誰かになれる」だったが、私はなれないように思う。
私は私のまま死んでいくのだろうし、別の何かにはなれない。ある種の諦観が身についてしまい、楽をしている。サッカー選手にも、アイドルにも、ならなくていいのだから、選択肢が少なくて済む。
子供の頃は海洋学者か、ロボットを作る仕事がしたかった。それも考えなくてすむ。幸か不幸か。
役者が演技をする時、本人はどこにいるのだろう。意識の外で俯瞰をしているのか、それとも眠っているのか。いずれにしろ死んではいまい。まさか演技の最中、私は誰だと心中で問いただす者もいないだろう。
一人称で小説を書いていて、思うのだけれど、視点としている人物は、私ではないということに最近になって気づいた次第である。
私小説ではないので当たり前ではあるが、文字の上で踊る役者は、私とは無関係である。
彼(彼女)は、私の知らない環境で育ち、私の知らない教養を身につけている。あたかも他人のようにである。
彼らのものの見方は、私とは異なる。白々しい奴らだ。愛してやるのか、他人を?
私は愛を語るほど、大人ではないけれど、愛の片鱗に触れたことがないほど、子供でもないらしい。
新しい隣人と握手をする用意は、不思議と可能であった。
他人とは、私の知らない私である。意固地になるのは人生の損失だ。
と、知ったかぶりをしてしまったが、私にも、愚痴を言いたくなることもある。
今回はただ、それだけの話だ。おあにくさま。