野暮な話
フィクションと現実は分けて考えるべきなのだが、たまに首を傾げたくなることがある。
シェークスピアのいくつかの作品にもそれはある。ヴェニスの商人は時代的なものとして、まあ許せる。終わり良ければすべて良しは、何故ヒロインはクズ男に足蹴にされてもめげないのか理解に苦しむ。
冬物語は亡くなった妃が彫像になって復活するが、読み終わった時に一度は釈然としないものが残る。考えてみると、芝居はフィクションであり、現実としてのカウンター効果をかつて芸術は担っていた。
王は嫉妬に狂う男になるし、ボヘミアの王子は羊飼いに、盗人は行商人になったり、芝居の中で芝居をすることにより、裏返った現実を見ることになるのだろうか。
シェークスピアの生きた時代は封建的秩序の真っ只中にあり、政権批判などすれば殺されかねなかった。そんな中で自分の主張を通すのは大変なことだろう。
現代でも似たようなことは起こりうる。香港は対岸の火事ではない。
個人の時代だともてはやされるが、プラットフォームに適応できるかどうかで価値が決まる事が多い。
いわば水槽の中の魚になりつつあるが、賢いZ世代は気づいているだろうか。
なろうの皆さんも、いきなり電源プラグを抜かれて酸欠にならないように。私は関知しない。
冬物語を読んでいてスパイファミリーという漫画を思い出した。あれも作中でキャラが嘘をつきながら生活している。決定的な利害の対立が起きない限り、ぬるま湯のような日々が続く。
そういった日々が大切なんだよということがわかっているので、もっとギスギスしろと言うのは野暮だろう。
シェークスピアの劇も同じで、言うだけ野暮なのかもしれない。