終局
ようやくマンションの前までやってきた。エレベーターに乗り込み、五階のボタンを押す。これから一人で自分の部屋で朝まで過ごさなければならないことが、そんな当たり前な日常なことが、なんだかとても不安になって、私は高彦に電話をした。遅い時間だったが、彼はすぐに電話に出た。
「あ、優希?」
「高彦さん? よかった。実はさっき、すっごく怖いことがあって……、出来れば今から私の家に来てほしいんだけど……」
「こ、怖いことって……? 大丈夫なの?」
私よりも憔悴しきったように、声が震えている気がする。なんだか頼りない。それとも、それほどまでに心配してくれているのだろうか。
「うん、なんとかね。でもまだ不安で、一人だと寂しいの」
「わ、わかったよ。今から行」
全て言い切る前に電話が切れた――ような気がする。
どうにも様子がおかしいような気がするが……。気のせいだろうか。
――いや、考えすぎだ。
エレベーターが五階に到着する。不安定に明滅する蛍光灯。虫のたかった白い廊下の蛍光灯がいつもより冷たく、暗く感じる。薄暗い陰が、いつもより濃く、近づいているような気がする。
私は頭を振った。友也のことで、少し神経質になっているのだ。
一番奥の私の部屋まで来た。
鍵を開けて中に入る。さっきからの妙な胸騒ぎもあり、万一のことを考えて、しっかりと鍵とチェーンをかけた。暗闇が広がる静かな部屋。その見慣れたはずの景色が、しかし何か、いつもと違う光景に見えた。清潔感のある白い壁紙やフローリングの廊下が、やけに寒々しい印象を持って存在している。
あんなことがあったからだろうか。家に着いたというのに、心が落ち着かない。
リビングに向かおうと靴を脱ぎかけたとき、床に付いた黒っぽいシミに目が止まった。
何だろう。こんな物、朝出るときにあったかな。
などと考えていると、突然携帯が鳴った。
高彦からだ。しかし、電話に出てみても、何の声も聞こえてこない。どうかしたのだろうか。
「ねえ、もしもし? 聞こえてる?」
突然浴室の扉が開いた。ムッとした、鉄臭い陰気な空気が広がる。胃液が込み上げるような、厭な臭い。ぐにゃりと部屋が歪んだように感じる。
誰だというのだ。私の部屋に勝手に上がって……。まさか、高彦か。
違う。彼は今から行くと言っていたし、そもそも、この部屋の合鍵を渡してはいない。この部屋の合鍵を持っているのは……。
しかしそんなはずはない。彼はさっき逮捕されたはずなのだ。ここにいるわけがない。
私のその考えとは裏腹に、そこから出てきたのは、友也だった。白いTシャツに赤黒いシミがべたりとついている。その手には見覚えのある携帯電話が握られていた。友也の携帯ではない。あれは――。
「おかえり。待っていたよ」
友也の声が聞こえた。目の前からだけではない。携帯からもその声が聞こえてきたのだ。手から携帯が零れ落ちる。声が、声が出せない。喉に力が入らない。
「よく確かめた? あれが僕かどうかって。タイミング良く電話に口を近づけただけで、どうして僕だってわかるんだ? 昔っからそそっかしいんだから、優希は」
その言葉には苛立ちのような感情はなかった。ただ、単調に、まるで他人の書いた文章を事務的に読み上げているようだった。
「あれは直樹だよ。君のことを相当恨んでたから、利用してやったんだ。根は素直な奴だから、扱いやすくて助かったよ」
耳を疑う言葉だった。直樹が、なぜ、私を恨むのか。
私の心の内を読んだように、彼はそれに答えた。
「合コンがどうのって言っただろ? あれ、最初はお前が誘われたのに、用事で行けないからって、代わりに美沙を誘ったんだよな。覚えてるだろ。直樹はお前のせいで美沙を取られたと思ってたんだよ」
開いた浴室のドアの隙間から、誰かの腕が見えた。真一文字の傷跡のついた手の甲。それは床にこぼれた赤い液体の上に伸びている。そばには赤い工具箱があり、中にペンチや糸鋸が入っていた。
浴室で何があったのか、想像もしたくない。逆流した胃液をどうにか呑み込む。
悲鳴を上げようとしても、口からはわずかに空気を振動させる掠れた息が出るだけ。
彼がにじり寄ってくる。それにつられて、私は玄関のドアのほうに後ずさりした。
「まあ兎に角、これでもう邪魔者はいないね。二人で楽しもうよ。今夜はクリスマスイブだろう?」
全ての感情を失った、生気のない仮面ような顔。もし彼が普通に怒った顔をしていたら、私はまだ平静でいられただろうに。私の意思を無視して心臓が高鳴る。
後ろ手にドアノブを掴んで回そうとしたが回らない。鍵もチェーンもかけたのが裏目にでたようだ。
なにもかもが――最悪だ。
彼の顔が、感情の抜け落ちた笑顔が、私に近づいてきた。




