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ストーカー  作者: 東堂柳
3/5

逃走

 殺される、そうはっきりとわかった。

 私はすぐに友也からの電話を切って、もう警察に連絡することに決めた。

 足早にその場を立ち去りながら、背後を気にしながら、電話を済ませる。手の震えが止まらず、一一〇番さえもまともに押すことができなかった。混乱する頭で、うまく状況を説明することもできなかった。それでも、どうにか助けに来てくれることになった。しかし、警察が到着するまで、この辺りで友也をやり過ごさなければならない。

 近くの家に助けを求められればいいのだが、生憎こんな時間で殆どの家の電気は真っ暗だ。玄関で助けを呼んでいる間に、彼に襲われてしまうだろう。

 仕方なく私は、脇道を右へ左へ、警察に伝えた住所からなるべく離れない様に、移動をし続けるしかなかった。

 今更私は自分の愚かさを呪った。自宅の住所を言えばよかったのだ。そうすれば、ただ一直線に帰ればよかったのに、慌てていたために頭が回らなかった。

 早く来て……。頼むから……。

 警察が来るまでの時間が、異様に長く感じる。この悪夢が永遠に続くような錯覚に囚われる。そして下手を打てば、それは錯覚などではなくなる。

 再び、電話がかかってきた。友也からだった。

「もうやめて。お願いだから。こんなこと、もうやめて」

 涙声で懇願するが、友也は聞く耳を持たなかった。

「どうしたの? どうして逃げるんだい? 出ておいでよ」

 その声が私には歪んで聞こえた。それは最早、友也ではなかった。人の皮を被った得体の知れない化け物。

 私はただそれから逃げるしかなかった。

 背後から聞こえるくぐもった息遣い。時折笑っているようにも聞こえる。どんどんと迫る足音。

 気付けば私は、息も切れ切れに走り続けていた。突き刺さる乾燥した空気。顔にまとわりつく髪。そんなものには目もくれずに走っていた。

 

 ようやく私は、警察に連絡をした場所の近くにある十字路まで戻ってきた。辺りを確認しながら、息を整える。頭に酸素が回り、どうにかまともな思考ができる状態に戻って気付いた。友也の姿が見えない。さっきまで私の後ろをついてきていたはずなのに。

 電柱の後ろに、角の陰に、草むらに、彼の姿を見たような気がして、ちらちらと視線が泳ぐ。

 どこにいるのかわからないことが、より不安と恐怖を掻きたてる。


 ――カン、カン、カラン。

 

 背後の音で振り返る。缶だ。空き缶が転がっていた。置いてあったものが、風で倒れたのだろう。

 ほうっと、一息つく。その時、 

 何かが私の頬を掠めた。風圧で髪がなびく。切れた髪が肩に落ちる。じわじわと頬に痛みが生じ始めた。何が起こったのかわからなかった。本能的に手で頬に触れると、自分の手の氷のような冷たさに驚きながらも、鈍痛がそれより一層強く顔に響く。思わず手を離すと、指先に鮮血が染みついていた。

 斬られたのだ。

 理解するよりも先に、体が動き出していた。転げそうになりながらも、その場から離れようと走り出した。提げていたカバンを落としてしまったが、そんなことはもうどうでもいい。背後で刃が空を切る音が迫る。

 何度も転びそうになった。身体がいう事を聞かず、うまく走ることができない。それなのに、友也の振り回している刃は私に当たっていない。何故なのだろうか。本当に殺す気があるのだろうか。恐怖に怯える私を見て楽しんでいるのかもしれない。

 少しすると、眼前に絶望が見えてきた。

 壁だ。

 袋小路だったのだ。ただの塀なのに、こちらに傾いて、天高くそびえ立っているような圧迫感を覚えた。思わず顔を見上げる。

 全てを諦めた私は、走るのをやめた。それでも、友也からはできるだけ離れる様に壁際に張り付いた。じわりじわりと、徐々に差を詰めて来る友也。

 せめて会社に忘れた傘さえあれば、何か抵抗できたかもしれないのに……。最悪。最悪な夜だ。

 彼が目の前まで来て、その手に握られた包丁を振り上げた。

 

 その時――、


「確保――!」

 

 声が聞こえた。それは静寂な夜空に響き渡る、澄んでいるが重みのある声であった。同時に、背後から取り押さえられる友也。彼が状況を把握しきる前に、その動きは完全に封じられ、ナイフを取り上げられ、地面に抑え込まれた。

 それは、私にはゆっくりとした動きに見えたが、実際にはわずか数秒の出来事であった。


 落ち着きを取り戻し始めた私の耳が、ようやくパトカーのサイレンの音を認識した。

 終わったのだ。全て。

 緊張から解放され、安堵のあまり、足からすべての力が抜けていく気がした。壁に寄りかかりながら、大勢の警官の手前、どうにか地に足をつけることができた。


 不思議なことに、彼はそれほど抵抗することなく、警官たちに連れられ、パトカーに乗りこんでいた。

 スーツ姿の男が一人、駆け寄ってくる。

「――署地域課の永田です。こんな事件に逢われて、心労があるとは思いますが、これから事情聴取を行いたいので、署まで来ていただきたいのですが……」

「出来れば明日以降にしていただけませんか? 本当に……今日はもう……」

 と俯く。

 刑事は頭を掻き、少し考えた後で、

「そうですね……。時間も遅いですし、今日はゆっくり休んでください。

 では、家まで送りましょうか?」

「いえ、大丈夫です。ほんとにもうすぐ近くにあるので」

 言うほど近くに家はないが、パトカーで送られるのは目立つし、あまり気分のいいものではない。

「わかりました。では何かありましたら、いつでもこちらに連絡してください」

 刑事は私に名刺を渡すと、パトカーに乗って彼を連行していった。

 パトカーのサイレンが乾いた空に響く。その音は、段々と低く小さくなっていった。

 あの静かな空間だった場所は、いつの間にかどこからともなくやってきた人たちでごった返し、打って変わって騒然となっていた。その人ごみをどうにか抜けると、ようやく私にも平穏が訪れたような気がした。体の全体にどっとした疲れが溢れ出てきた。身体から熱が引いていき、十二月の冷え込んだ空気が顔に刺さる。寒さが全身に襲い掛かって身震いした。

 私は帰路を急いだ。

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