須崎友也
背後に、足音が聞こえる。
……コツ……コツ……コツ……。
反響してそう聞こえるわけではない。明らかに後ろから、別の革靴の音が迫っている。そして一旦気になり出すと、その音は不自然に浮かび上がっているように、明瞭に聞こえてくる。
「お前も浮気とかしてないよな……?」
友也が不安そうな口調で尋ねてきた。
……コツ……コツ……コツ……。
「当たり前でしょ。そんなことあるわけないし」
自信を持って堂々と答える。この手の質問は、虚を突かれたからと言って口ごもってしまうと、余計な疑いをかけられてしまう。こうするのが一番だ。
「……だよな、そうだよな。ハハッ、悪いな、変なこと訊いて」
友也が自虐的に笑った。
「別に、大丈夫」
……コツ……コツ……コツ……。
再びの沈黙。立ち止まると足音も止む。振り返ったが、交通量も少なく街灯も乏しい県道が伸びているだけで、そこに誰の姿もない。
歩き始めると、またも後ろで足音が鳴り始める。気のせいだろうか。そのリズムが徐々に早まっている。それとともに、私の心臓の鼓動も無意識に早くなり始めた。後ろがいやに気になる。
……コツ、コツ、コツ。
「それより……、さっきから、なんか……誰か後をついてきてる気がするの」
声が響かない様に、携帯を近づけて小声で喋る。
「えっ、ウソだろ? まさか……ストーカー? 大丈夫なの?」
友也は心配そうに質問を重ねる。
「警察呼んだほうがいい? 今どこ?」
――コツ、コツ、コツ、コツコツコツ。
あまりに矢継ぎ早に訊いてくる友也を
「ちょ、ちょっと待って……。まだストーカーって決まったわけじゃないし……」
と制して、再び立ち止まって、振り返ってみるが、やはりそこには誰もいないように見える。気味が悪い。友也にはああ言ったものの、完全にストーカーだろうと分かっていた。
「どうかした? 大丈夫?」
スピーカーから友也の声が聞こえてくる。
「大丈夫だけど……」
警察を呼ぶべきかどうか悩んだ。しかし、こんな時間に面倒事は御免だった。明日も仕事で朝早くから出かけなければならないのだ。早く帰って休みたい。
結局、急いで家に向かうことにした。
――コツコツコツ。
歩幅を広げ、足早に歩き始める。寒空に反響する二組の足音。しかし、背後の音ばかりが気になる。その音が今や、耳をつんざくほどに五月蝿く感じる。
振り向きたくても振り向くことができない。
もしかしたら、もう真後ろに……。
――コツコツコツ。
単調。無機質。その音は、私の不安を煽るのには十分だった。そして、それが私の中で焦りに変わる。
「さっきの話の続きだけどさ……。本当に浮気してないんだよね?」
通話が続いていることをすっかり忘れていたので、突然の友也の声に、文字通り心臓が飛び上がりそうな勢いだった。
こんな時に何を考えているのか、唐突に話が戻り、その言葉の意味を理解することができなかった。
「急に何言ってるの? 今はそれどころじゃないでしょう?」
「俺は浮気してるかどうか訊いてるんだよ!」
怒声。友也のこんな憤った声を初めて聞いた私は、電話越しだというのにその勢いに気圧された。再び冷静を取り戻した友也が、静かに喋り始める。足音の存在は最早、私の蚊帳の外だった。
「見たんだよね、俺。お前が他の男と部屋から出てくるところ。それで色々と調べたよ。その男のこと。
嶋高彦。二十八歳。一流大学出の上にこの歳で某大手製薬会社の取締役。俺とは違って所謂エリートってやつだ。おまけに麻布に豪勢な一軒家があって、年収は一千万超だってな」
一体どうしてこんなことになったのか。スピーカーから次々と耳に流れ込んでくる言葉が信じられない。確かに、嶋高彦とは知り合いだ。彼は、私の働いている会社の親会社に勤めている。若くして重役に昇りつめた、業界では有名人らしい。私の仕事先のオフィスに何度か視察に来たことがあり、会話もしたことがある。
「違うの。そうじゃないの、嶋さんは……」
彼は私に弁明の言葉を与えなかった。彼は浮気を確信しているのだ。
「俺とは逢えないと言っておきながら、こいつとは何度もデートを重ねてたわけだ。さぞ楽しかっただろうね。俺とじゃあ、一生かかっても行けないような高級な店に何度も足を運んでさ」
「だから違うの。あの人とはなんでもないの」
しかし彼は、口を止めようとはしない。
「あいつのほうを俺よりも先に両親に会わせてるんだもんな。あいつと結婚する気なんだろ? 俺が貧乏で仕事も地位も底辺だからだろ? わかってるんだよ」
「いい加減にして! 違うって言ってるでしょう! どうかしてる……。どうかしてるよ、友也……」
耐えきれずについに声を張り上げた。しかし、最後のほうは彼の変貌ぶりに怯える自分の、情けない掠れ声に成り果てていた。それでようやく彼は喋るのを止めた。不気味なまでの静寂。
「なあ……」
それを切り開いたのも、やはり友也だった。
「どうして裏切ったりするんだよ……」
私の言葉を受け入れようとはしないようだ。
今の彼に何を言っても無駄。そう悟った。
友也のその声は、あまりにも弱々しく、それまでの捲し立てるような勢いはすっかり死んでいた。
逆上。そして、落胆。彼の感情の起伏は激しく、私はそれに振り回されているようだった。
突然のことでどうしていいのかわからず、私はただその場に立ち尽くすだけだった。何と声をかけたらいいのかわからない。頭の中で、色々なものが渦巻いた。
「……そういえば、ストーカーはどうした? もういなくなった?」
その言葉でようやく我に返った。さっきのことなどまるでなかったかのように口調が元に戻っている。もしかしたら本当に、なにか悪い夢でも見ていたのではないか、幻聴だったのではないか、とさえ思えた。
友也のせいで、ストーカーなどすっかり忘れていた。
振り返って見ると、電柱の陰に誰かが立っている。背格好から恐らく男だろう。黒いコートに身を包んだその男は、フードを被りマスクを着けている。そのせいで彼が誰なのかはさっぱりわからない。しかしその手の中で、明るい何かが光っている。
携帯電話だ。
まさかという考えが、頭に浮かぶ。
その人物が、携帯電話を顔に近づけると、私の携帯から声が聞こえてくる。
「どうした優希? 大丈夫?」
背後からもぼそぼそと何か喋っているのが聞こえた。
私はそれで確信を持った。彼は友也なのだ。最初から私のあとをつけてきていたのだ。
不意に、友也の左手で何かが煌めいた。近くの電燈の光がそれに映りこんでいる。恐らく金属のものだろう。
まさか……。
包丁。ナイフ。カッター。
私の頭に次々と浮かんでくるのは、そうした凶器の類だった。
殺される……!




