戸風優希
会社での事務仕事を終えて、ようやく帰ることができた。面倒な雑用の殆どは私のような派遣の事務員に押し付けて、他の社員は次々帰っていく。折角のクリスマスイヴだというのに、そんなことはお構いなしだ。もちろん、こういう立場だと、正社員にきっぱりと言うことはなかなか難しいというのもあるのだろうが、そもそも物心ついた頃から、面倒を起こすことが嫌だった私の、どうにもはっきり断ることができない質のせいでもある。つくづく、事勿れ主義でどこまでも中途半端なこの性格に辟易する。
電車に乗り込んだ私は、心地の良い室温と振動のおかげで、気づかぬうちにすっかり眠り呆けてしまったらしい。
目が覚めたのは、丁度、最寄りの駅のアナウンスが車内に流れたときだった。ぐったりした身体を持ち上げ、電車から降りる。途端に水を被ったように身体が冷やされた。そのあまりの温度差に、眠気はいやでも吹っ飛んでしまう。
乗降客の数がまばらな寂しいホームを、身を縮みこませて歩いた。呼吸をするたび、白い息が口から漏れる。ホームの外は真っ暗で、まるで様子がわからない。この近辺では、こんな時間に明るい場所と言えば、せいぜい駅前だけだ。この時期だというのに、派手なイルミネーションは近隣に迷惑になるからか、遠慮がちなものがぽつぽつあるくらいだ。
会社の近くとは違い、この最寄りの駅の近くは住宅街が広がり、静かで落ち着いた場所。家賃の相場も安かったので、上京して住むならここと決めていたところだった。とはいえ、越してきた当初は今よりずっと栄えていたはずだ。駅前の商店街も人が集まる活気に満ちた場所だった。それが、近くに大型スーパーがオープンすると、途端にその勢いがなくなり、あっという間に昼夜を問わずシャッター通りになってしまったのである。
駅から私の家までは結構あるので、普段はバスを使っているのだが、最終バスもとうの昔に出てしまっているし、駅前には車一台止まっていない。歩いて帰るほかなかった。
雲が立ち込めているのだろう。空を見上げても月はおろか、わずかな星の光さえも確認することができない。
そういえば、朝は雨――いや、雪だったか――が降っていたような記憶がある。目は覚めたものの、まだ頭の中はぼんやりしていて不明瞭だった。
そうだ、傘。
傘を会社に置き忘れてしまったようだ。またやってしまった。
元々忘れやすい性質の私にとっては、こういう事は日常茶飯事だった。
仕方ない。今はもう降ってはいないし、また降り始める前に早めに帰ろう。
突如、嵐のような大きな風が吹く。コートがなびいて、背中のあたりまで伸ばした髪が乱れる。白い息が舞い散った。せっかくの厚着も意味を殆どなさない程のその冷たさに身を震わせながら、今年の冬の厳しさを全身で感じる。
さっきよりも一層身体を縮ませて歩を早めた。
生活感の溢れる昼間とは違い、死んだように静かな夜のこの街は、まるで現実と乖離した異世界のように感じる。
この異世界にいると、どうにも物思いに耽りたくなるようだ。私はふと、ひょんなことから半年前に再会し、それがきっかけで付き合うことになった彼氏を思い浮かべた。その彼とは色々と因縁があったのだが、出逢った彼は相変わらず優しく、頼もしかった。私は今、彼と結婚することを考えている。しかしそこには、一つの大きな悩みの種が存在していた。
突然、思考を遮るように電話が鳴った。
静かな夜道にいきなりの着信で、思わず身体が跳ね上がる勢いだった。上着のポケットから携帯を取り出し、画面を見ると、須崎友也とある。噂をすればなんとやらだ。
私は疲れを隠そうと、明るい口調で電話に出た。
「こんな時間に、どうかしたの?」
最近は忙しくて、なかなか彼と会う機会がなかった。その上普段、殆どの用件はメールでやりとりしている。電話を介してとはいえ、話をするなんて、そういえばしばらくなかったかもしれない。
「いや、ちょっとね、優希の声が聞きたくなっただけだよ。最近さ……、あんまり会えてないだろ?」
「ほんとに? それだけ?」
急なことだったので、ちょっと不安になった。もしかしたら、彼の身に何かあったのではないかと勘ぐってしまう。
「それに今日って、クリスマスイヴだろ? まあ優希は相変わらず仕事で忙しいだろうから、逢うのは無理でも、電話くらいなら大丈夫かなって思ってさ……。まずかったかな?」
「ううん。そんなことないけど……」
電話越しだというのに、思わず首を振って答える。一人でこんな時間に帰路につくのは心細いし、話をしながらなら、退屈も防げる。
私たちは、他愛もない世間話で盛り上がった。束の間、嫌なことを全て忘れることができた。
この時間が永遠に続けばいいのに。
いつもの暗い帰り道が、今夜ばかりは少しばかり明るく感じられた。
何がきっかけだったかは覚えていないが、話は私たちの大学時代からの友人、美沙と直樹のことになった。
「――それでさ、美沙のやつ、浮気してたんだって。直樹もすげえ落ち込んでたよ」
驚いた。美沙と直樹は、知り合った当時からとても仲のいいカップルだった。特に美沙なんて、事ある毎に直樹にくっついていて、それこそいつものように直樹以外と付き合うなんてあり得ないなどと言っていたのに……。
「ほんとに? あの二人が? 信じらんない……。あんなに仲良かったのに」
「マジだって。なんでも数合わせに行った合コンで知り合った奴に寝取られたらしいんだ。直樹、それからずっと元気なくてさ……」
「そうなんだ……」
束の間、妙な沈黙が流れた。暗い夜道に、私の足音が響く。そこで気付いた。もう一つ足音が聞こえる。




