逆撃の烙印
翌第一四二オリュンピア期第二年(紀元前二〇九年)。百五十あるローマ連合の中から、ついにラティウム地方の十二の都市が兵役を拒否し、叛乱を起こした。長きに渡る戦争は、同盟都市の財政を圧迫していた。だがファビウスはそれをものともせず、再び二十一個軍団を繰り出した。ただし、その内の二個軍団は叛乱の鎮圧に向けられた。ハンニバルに向けられる軍団は八個軍団となった。
シチリア島で粘っていたヌミディア騎兵も、ついに降伏した。シチリア島を制圧したことにより、ローマ海軍は余裕を持って南イタリアへと向かうことが出来た。タレントゥムのカルタゴ海軍を海上で逆包囲し、打ち破った。その一度きりで、カルタゴ海軍は海に出ることを止め、海兵は陸へと引き揚げた。返す刀で、ファビウスはレギウムへ向かうことを命じた。海軍を用いて、より戦線を広げることが目的だった。戦線が拡大すれば、ハンニバルは少ない兵力をさらに割かねばならなくなる。カルタゴ本国は援軍を出す気配すら見せず、目下はハンニバルの主力を分散さえすれば、勝機はあった。
ローマも限界であった。レギウムを襲う兵は全員がならず者で構成され、義勇軍という名の傭兵集団であった。それを加えての二十一個軍団であった。ハンニバルもまた、騎兵を減少させ、その武威に綻びを出している。
花びらが、道を覆っている。新緑の息吹く季節が、またやってきた。南イタリアへ向かう八個軍団は、マルケルスが率いた。この年に、ハンニバルに引導を渡すつもりだった。
「もしもハンニバルが、犠牲を顧みずにおぬしの軍を突破しようとした場合、おぬしは何日ほど止めることが出来るかの」
「そうだな。ハンニバルが負傷兵を見捨てる勢いならば、確実に言えるのは一日、もって二日だ。それ以上は厳しいだろう」
隣で馬を並べるファビウスを見ずに、マルケルスは眼前を見据えていた。威風堂々たる司令官に見せるためだ。八個軍団は、北アプリアを南下した。ハンニバルとの決戦を行なうためだと、周辺には流布してある。
「ふむ。儂に、タレントゥムを陥落させる策があるのじゃ。儂がタレントゥムへ急行して攻め落とすまでおよそ二日。その間、ハンニバルを食い止めてもらえんかの」
ファビウスが声をひそめ、マルケルスにだけ聞こえるように言った。マルケルスは眉一つ動かさない
「受けてやろう。ただし二日だ。それ以上は、保証できぬ」
「よい。ならば頼んだ」
そういうと、ファビウスは手を挙げた。ここが分岐点だった。マルケルスの二個軍団はハンニバルを目指し、ファビウスは独自の道をゆく。そして残る四個軍団は、ルカニアへと向かった。北アプリアを押さえ、すでにタレントゥムへの道は開かれていた。
杖を突く音と共に、木製の扉が開かれた。報告書が届けられる。ハンニバルの部屋を訪れたシレノスが、頭を下げた。
「申し訳ございませぬ。もう幾ばくかは叛乱を拡大できましたが、阻止されました」
「よい。北アプリアを守り切れなかった俺の責任だ」
そう言ったが、シレノスは謝罪を続けた。大枚をはたいて起こしたラティウムの叛乱は、ローマの徴兵を決定的に詰まらせるまでには至らなかった。杖を突き、白髪に覆われたシレノスの姿は、また一つ小さくなっていた。密偵として働けなくなったシレノスは、今ではタレントゥムより指示を出すのみとなっていた。
ただ、ハンニバルはシレノスへの資金を用意出来ていなかった。クロトンの官僚に催促しても、なしのつぶてが続く。報酬を用意できないシレノスを見限って、隠密部隊の中にはペロポネソス半島に帰る者もいた。シレノスも、ハンニバルの苦境は知り抜いている。余裕のないことは、百も承知だった。
シレノスが退出すると、ハンニバルは葡萄酢で滅菌した水を一息に呷った。染み通る液体が、喉を刺激する。従者が杯に再び注いだ。しかし、もう飲む気になれなかった。シレノスから受け取った報告書には、シチリア戦線についても書かれてあった。シチリアでは、本国の将軍がミュットノスの才能を妬み、ヌミディア騎兵を奪おうとしたらしい。それにミュットノスは反発したが、命令に背いたことで命の危険を感じたミュットノスは、ローマ軍に降伏したとのことだった。
これでシチリア島の形成は決定した。本国の将軍は敗れてカルタゴに逃げ戻り、シチリアはローマに平定された。ローマ海軍も、イタリアの封鎖へと動き出している。本国とイベリアとの連絡手段は事実上封鎖された。
イベリアからの便りもない。最後に来た報告では、本国から送られた援軍の将が、次兄のハスドルバルと対立しているとのことだった。本国から送られたジスコ-ネは、イベリアの族長達に軍資金と称して賄賂を求めた。それが拒否されると、今度は人質を取り、恐喝して拠出させているとのことだ。本国の介入により、イベリア各地で怨嗟の声が広がっていた。ジスコーネにとって、この戦いは政争の道具でしかないのだろう。私腹を肥やすため、イベリアの地を食いちぎろうとしていた。
父を敬愛していたハスドルバルにとって、その地に土足で入ってきたジスコーネは敵以外の何者でもなかった。ハスドルバルはジスコーネと手を結ぶことを嫌った。対してマゴはローマ軍迎撃のためにジスコーネと妥協を図っており、それでハスドルバルとは疎遠になっていた。全ての歯車が、噛み合わなかった。三者が手を取れば、ハンニバルへ援軍を送るのは容易い。三人の兵力を合わせれば、八万になる。アルプスへの道を塞ぐローマ軍はおよそ三万だ。協力して打ち破れば、すぐにでも道は切り開ける。だがジスコ-ネを敵とみれば、とてもではないが軍を一つに纏め上げることは出来ない。
次兄のハスドルバルが三万の兵を率いて、単独でローマ軍とぶつかったらしいのだが、それは打ち払われている。今年になってもアルプスから連絡が来ないということは、援軍の望みは薄かった。
いつの間にか、従者は下がっていた。ハンニバル以外、誰もいない。誰を呼ぼうとも思わなかった。語り合う者達は、いなくなった。その夢を継いだ自分だけが、残されただけだ。この先、夢を追い続けたらどうなるか。簡単な答えが、見つからなかった。
翌日。ハンニバルは従者を呼び、鎧を持ってこさせた。長衣を脱ぎ捨て、従者に鎧を着けさせる。窓から春風が勢いよく吹き込む。肉体はまだ衰えていない。着替えている間にも、報告は届いた。
「ハンノ殿より報告。ローマ海軍がレギウム港へ航行中」
「サムニテスに五千騎を与えブルッティウムに向かわせろ。ハンノは引き続きルカニアの防備を」
矢継ぎ早にハンニバルが命令を下す。最後に真紅の外套を右肩で留めると、部屋を出た。タレントゥムの中央広場には二万五千の軍勢が集まっていた。奴隷がハンニバルのもとへ愛馬を曳いてきた。イベリアを発った時の馬から、三代目だった。色は栗毛になってしまったが、祖父の血を受け継ぎ、荒馬のように駆けることを好んだ。ハンニバルが騎乗する。合わせるように、馬が嘶いた。
全軍の前へと出た。ハンニバルが、左眼で全軍を見回す。ハスドルバルの顔だけが、沈んでいた。ハンニバルはちらりと見やっただけで、再び全軍に眼を移した。
「勝利に溺れたければ奮起せよ。怠ける者に褒賞などない」
喊声が上がった。将軍と繰り返す兵士達で広場は沸き立った。城門を出る。草原の海へと、三日月の旗は駆け抜けた。
「報告。マルケルス、ファビウス率いる四個軍団がこちらに接近中」
「面白い。盾も剣も纏めてへし折ってくれる」
兵士達も、口々にローマ軍を罵った。アプリアを北上し、最初にマルケルスの軍勢とカヌシウムで対峙した。北東に行けば、かつてローマ軍を打ち破ったカンネーの原野が広がっている。その大地を横目に、両軍は激突した。
去年と変わらず、マルケルスは騎兵を率いてきた。あのハスドルバルの動きに、マルケルスは見事についてきている。変幻自在に、騎兵同士の戦いは変わった。ローマ騎兵とは思えなかった。互角にぶつかる。騎兵の質の差を、マルケルスの剛腕が埋める。ハンニバルは歩兵を指揮していたが、こちらは戦況が動くことはなかった。無難な攻め方は、フラウィウスの軍勢だ。果敢に攻めてくるのは、マルケルスの右腕ともいえるネロだった。ネロは後方で、ハンニバルが側面展開を行なうのを防いでいる。ただフラウィウスも、じわじわと絞り上げてきた。後方にネロがいる限り、崩すことは難しい。ハンニバルはそれ以上の無理押しを控えた。
日は没し、戦いはまたも引き分けに終わった。その日、ファビウスは姿を見せなかった。不安が頭をよぎる。ハンニバルはシレノスに捜索を命じ、斥候も四方に放った。だが、ローマ軍の影さえも掴むことは出来なかった。
夜、ハンニバルが陣営を巡回していると、ハスドルバルがヌミディア騎兵を叱咤している声が聞こえた。ハンニバルが背後から眺める。兵士達は、黙々と聞いていた。ハスドルバルが叱るのではなく、説教をしているのは珍しい。どうやら、今日の戦いは満足いくものではなかったようだった。数に勝るローマ軍に加え、マルケルスを相手にしたのだ。充分な力が発揮できなくとも、上々の出来だった。だが、いかにローマ騎兵が数で勝っているとはいえ、それでヌミディア騎兵の矜持は癒されないのだろう。
「もう止めてやれ。ハスドルバル」
「将軍。いつの間にいらしたんですか」
ハスドルバルが眼を見張った。
「明日も戦うのだ。英気を養い、兵士達は早く休ませろ」
「む、分かりました」
ハスドルバルが一言二言を兵士に伝え、それで解散させた。優秀な騎兵であった。恐らく明日には、同じ過ちは繰り返さないだろう。それを誰よりも知っているハスドルバルは、しかし眉間の皺を崩そうとしなかった。
翌払暁、木陰で眠っていたハンニバルのもとにシレノスからの密偵がやってきた。鎧を着けたままのハンニバルを、密偵のボグスが起こした。
「シレノス殿より報告。ファビウス率いるローマ軍が北アプリアを大きく迂回。タレントゥムへ急行中にございます」
頭が即座に覚めた。ハンニバルが体を起こす。ファビウスはマルケルスと連携するのではなく、タレントゥムへと向かった。タレントゥムには充分に守備兵を置いている。それでも、ファビウスはタレントゥムを狙った。恐らく秘策があるのだろう。それならば、一刻も早く戻らねばならない。ボグスはすでに消えていた。従者を呼ぶ。
「全軍を叩き起こすよう命じよ。すぐに、ここを出立する」
起床の鐘が鳴り響いた。兵士達は慌ただしく幕屋から出てくる。だが準備を進めるうちに、見張り台の兵士が声を上げた。
「見ろ。ローマ軍が出てきたぞ」
ハンニバルが、見張りの指さす方を振り返る。マルケルスの軍勢だった。ハンニバルが動くのを阻止するように、タレントゥムを背に布陣していた。握りしめた拳が震えた。これほどまでに、自分をてこずらせた男はいなかった。滾る感情を抑えて出陣し、マルケルスと対峙した。
ハンニバルは白馬を駆り、将兵の前に出た。
「全軍、死してなおローマ兵に噛み付け。ローマ軍に舐められるな。我等の前に立ちはだかったことを後悔させるがいい」
ハンニバルが剣を振り上げる。全軍が槍を構えた。ローマ軍の喊声。大気が揺れた。両軍は中央へ。カヌシウムで激突した。雷光の旗へと、ローマ軍は押し寄せてくる。左翼では、再びマルケルスが騎兵を率いてきた。ヌミディア騎兵は二頭、三頭と馬を乗り換え、最大速度を維持。猛攻を掛けた。馬の限界いっぱいまで、出力を上げていた。ハスドルバルはマルケルスの動きを読む。お互いの動きは知り尽くしていた。防ぎ、躱した。ハスドルバルの槍がマルケルスを狙う。掠めず、槍の柄で防がれた。
ローマ歩兵の指揮はフラウィウスであった。虚実を織り交ぜるネロに比べて、分かり易い守りだった。戦場の動きが目まぐるしく変転し、戦況は互角だった。だが、今日は引き分ける訳にはいかなかった。タレントゥムへ急行しなければならない。汗で剣の柄が滲む。ハンニバルは機を待った。
雷光の旗を掲げる二百騎が、待機していた。戦象も前線には出さずに、ハスドルバルの後方に置かれている。戦況はハスドルバルが動かす。そう、信じていた。陽が中天を過ぎても、ハンニバルは待ち続けた。
刹那、ハスドルバルがマルケルスを押し込んだ。僅かであったが、隙間が敵の側面に開かれた。ハンニバルが剣を振り上げた。雷光の旗が動き出す。狙うは側面。戦象も続いた。斜め一直線に、間隙へと突撃していく。手綱を握りしめ、前に屈める。常法通りに動くフラウィウスは、突然の変化に弱かった。得意とする手堅い戦は、破綻した。ローマ軍を蹂躙する。鋏で裁つ様に、中へと食い込んでいく。フラウィウスは茫然としていた。指揮をする腕は動かず、ただローマ軍の崩れゆくさまを見ているだけだった。
後方のネロが救援に動き出した。だが、間に合わない。切り刻まれた戦線へと、戦象が突入した。暴れまわり、ローマ軍を蹴散らす。乱れたローマ戦列は戦象に踏み拉かれ、幾つもの悲鳴が聞こえた。
ヌミディア騎兵を振り切ったマルケルスが、こちらへと向かってきた。ハンニバルが馬首を返し、マルケルスへと向かう。正面。緋色の外套を着た男が槍を構えた。ハンニバルも剣を構え、馳せ違える。鈍い音。構えた腕が痺れた。並外れた膂力だった。ハスドルバルが救援に駆けつける。マルケルスは二人を相手に、全く動じることはなかった。槍は二人の間を駆け巡り、躱すだけで精一杯だった。
混戦となったローマ右翼は、じわじわと綻んでいった。陣へと逃げ出すローマ兵も続出した。ついに、マルケルスは撤退のラッパ《ブキーナ》を鳴らした。綻んだ右翼を覆うように守り、撤退していく。ハンニバルはそれを追撃した。殿軍に立ったマルケルスが、追撃をするカルタゴ兵をことごとく蹴散らす。最後まで追撃できたのは、ヌミディア騎兵だけだった。
戦場には、ローマ軍の屍だけが山となって積み上げられた。
「やりましたぜ将軍」
追撃から戻ってきたハスドルバルが意気軒昂な表情で笑った。昨年から互角に戦い続けたマルケルスを押し込めたのが嬉しいのだろう。ようやく、激戦を続けるマルケルスとの戦いから解放されるのだ。ローマ軍の死者を数えていた従者達が、報告に来た。
「敵軍死者は、およそ二千七百です」
「そうか。分かった」
二千七百ということは、負傷兵は八千名程度だろう。これでマルケルスが撤退してくれればいい。だが翌日には、再びマルケルスは姿を現した。負傷者も全員が武器を持っている。緋色の外套を翻した男が、中央で笑っていた。
「ローマ軍は不死身か」
カルタロが思わず零す。どれだけ鍛え上げれば、ここまで強靭な兵が出来上がるのか。恐ろしい軍団だった。精神力だけならば、ハンニバルの軍をも超えていた。
「ローマの精神は、ある種狂気のようだな。勝てば奮い立ち、敗ければ恥を噛み締めて奮起する。どうやら敵は、幸不幸に興味がないらしい」
精一杯の皮肉であったが、それ以上の言葉は出なかった。その間にもファビウスはタレントゥムへと向かっている。背中を覆う汗が、じわりとハンニバルを苦しめた。
マルケルスは全軍の布陣を終え、その眼前へと出た。
「貴様らは先日、ローマ軍にあらざる敵前逃亡を行なった。俺に鍛えられていながらなぜ、無様な姿を晒した。貴様らなど、ローマ人ではない。ローマ人ならば、カンネーでのエミリウスの如く、決して逃げようとはしないであろう」
マルケルスが鋭い眼光で全軍を見回す。睨まれた兵士は、それだけで萎縮した。マルケルスが一度でも怒気を漲らせれば、どうなるかは全軍が知っていた。
「勇気無き蛮族共よ。今一度、ローマ人としての誇りを取り戻す機会をくれてやる。次こそはこの地を守り抜け! 祖国にいる家族を、未来を救え!」
マルケルスが槍を掲げる。手負いの男達も、全員が奮起した。大地を揺るがす咆哮だった。再び、両軍は雌雄を決しようとした。カルタゴ軍は再び右翼に戦象を置いたが、構わず突撃した。
フラウィウスが、最前線に立って指揮をした。フラウィウスは昨日の責任を感じているようだった。自らカルタゴ兵を斬り殺し、道を切り開いていく。マルケルスも、槍を振るってヌミディア騎兵と戦った。ヌミディア騎兵は合図一つで三つにも五つにも分裂し、あらゆる方角からマルケルスを包み込む。それを、三方向から潜り抜ける。ローマ騎兵は三つに分かれるので精一杯だった。合図を出し、敵将のもとへと駆ける。討てるか。側面。敵騎兵が迫っていた。速度を速め、死角からの奇襲を躱し切る。ハスドルバルはすでに後方を旋回していた。陽が昇り、ヌミディアの馬も汗をかき始めていた。毛並みに白い汗が混じっている。五分の戦いであった。あと一分、いやその半分でも押し込めれば、勝てる。
歩兵の動きは、少しずつ鈍くなっていた。激戦だった。フラウィウスは叱咤して圧し込もうとするが、ことごとく雷光の旗が邪魔をした。すでにフラウィウスの馬は殺され、徒歩で戦っていた。カルタゴ兵の繰り出す槍。横腹を突かれた血は止まらなかった。ただカルタゴ軍を崩すことに、残る命を捧げた。
大地が揺れた。轟音と低い鳴き声。戦象が、再びローマ軍の中まで侵入してきた。戦線が掻き乱される。蹴り飛ばされたローマ兵が、遥か後方へと飛ばされた。剣を投げ捨て、フラウィウスは地面に落ちているローマの軍旗を拾い上げた。それを引っ掴み、戦象の群れへと走った。真正面から、戦象の眉間を軍旗で突き刺した。途端、戦象が暴れ出した。もう一度。今度は喉元を貫いた。
戦象は逃げるように反転し、カルタゴ軍へと向かった。フラウィウスは次の戦象へと向かった。足元に潜り、そして突き刺す。戦象が反転する。暴れ回る戦象の中を、フラウィウスは刺し続けた。次々と、カルタゴ軍の戦線へと反転し出した。刹那、暴れ出した戦象の一頭にフラウィウスは蹴飛ばされた。吹き飛ばされ、大地に叩きつけられる。視界が霞み、地面が歪む。戦象に踏み潰され、殺された。
マルケルスの胸が高鳴った。
「見事だ、フラウィウス。全軍、この好機を逃すな」
一頭が、ヌミディア騎兵の方へと逃げ出した。戦象に乱されたところを、マルケルスが押し返した。ヌミディア騎兵が防戦に転じた隙を突いて、マルケルスは抜け出した。二百騎を率いてカルタゴ歩兵へと突撃した。戦象の乱した戦列へ。次はローマ軍が蹂躙する番だった。槍を振り上げ、一人、二人とカルタゴ兵を突き倒す。一人を突き刺して持ち上げ、放り投げた。
雷光の旗が二百騎の兵を率いて、動き出した。戦象のもとへと向かう。投槍で、再び反転させるつもりだった。マルケルスは雷光の旗へと駆けた。砂塵が舞う。ハンニバル目がけて、槍を突いた。だが、しごかれた槍は空を切った。馬首を返し、再び攻めたてる。
カルタゴ兵によって、戦象は再びローマ軍へと反転したのもいた。だがほとんどがその場で殺された。両軍入り乱れての激戦となった。ここが正念場だった。全員が、汗と血に塗れている。立て。奮い立て。祖国のため、友のため、この地を守り抜け。マルケルスの叫びは、戦場に響き渡った。
日は没した。死屍累々と兵士達が戦場を埋め尽くしている。戦場には、ローマ軍が残っていた。マルケルスは、馬上から降りた。首筋の汗をぬぐう。ネロが、マルケルスのもとへ報告に来た。
「大勝利です前執政官。敵軍死者は八千」
ただ頷いただけだった。マルケルスは槍を地についた。
「すぐに、敵を追撃しましょう」
ネロが逸る気持ちを抑えずに言った。ハンニバルは大損害を出したが、休まずにタレントゥムへと向かっていた。マルケルスは首を横に振った。
「これ以上は無理だ。我が軍の被害が甚大過ぎる」
マルケルスが、自軍を眺めてそう言った。この戦いで出したローマ軍の死者は三千を超え、負傷者は二万に達していた。将兵全員、動くことは出来なかった。
「ウェヌシアへ撤退する」
マルケルスは全軍に命じた。それから、マルケルスは伝令を呼んだ。
「ファビウスに伝えよ。約束通り、二日は死守した。後は託した、とな」
「はっ」
伝令が駆け去る。マルケルスは槍を地に突き立て、空を仰いだ。生涯類を見ない、気持ちの良い一日であった。
タレントゥムの守備隊長が懇意にしている情婦の兄を、兵士の中から見つけていた。その男を通じて、守備隊長にあらゆる褒賞を約束した。男は二つ返事で裏切ることを快諾し、夜、密かに東門を開けた。ファビウスの計画通りだった。まず西門を主力で集中攻撃して兵をそこに集中させ、ファビウス自身は別動隊を率いて東門から雪崩れ込んだ。タレントゥムは、一人の裏切りで奪還した。カルタゴの守将ニコとデモクリトス、そしてハンニバルの側近であるシレノスを捕縛し、全て斬首した。夜が白む頃には制圧した。
朝焼けが、血に染まる城内を照らす。ファビウスは抜身の剣を持ったまま、息子のクィントゥスと共に城壁の上に立った。ハンニバルがこちらに向かったと急報が届いたのだ。だが報告が届いた時には、すでにハンニバルは四十スタディオン(約七km)の場所まで接近していた。タレントゥムを落城させて、まだ半刻も経っていなかった。紙一重の差だった。
「恐ろしい男です、ハンニバルという男は」
息子のクィントゥスが感嘆したように言った。
「マルケルスを相手にしてこの速さじゃ。まさしく、鬼神と呼ぶに相応しい男よ」
ファビウスは溜息を吐く。ここまで、ローマが苦しめられたことはなかった。蛮族が大連合を組もうとも、カルタゴ自身を相手に戦った時もだ。たった一人の武は、一国の軍事力を凌駕していた。
だが、それでもローマは屈しなかった。どこまで潰され、踏み躙られようとも、決して跪くことはなかった。ローマの強さ。それは、この戦争を指揮してきた自分が一番よく分かっていた。
「個の力だけではローマは破れぬ。一人では成せぬことでも、儂らは手を取りあうことで成してきた。一人一人の民に力は無くとも、皆で協力してきたのがローマじゃ。じゃが奴は、それを全て一人で成してきた。それは驚嘆すべきことじゃ。しかし本国の誰が、奴と手を取り合おうとしたか。奴は己の力に驕り、手を取り合うことを忘れたのじゃ」
眼下を睥睨する。カルタゴ軍は城壁の前まで進軍してきた。城壁の上が慌ただしくなる。雷光の旗。憎らしいほどに、威厳に満ちた旗だった。真紅の外套を纏った男と視線が交差する。大いなる侵略者。だがもう、その姿に怯えることはない。
「傲慢なる鬼神よ。個の力に頼った代償を、その身に烙むが良い」
握りしめる拳。ファビウスは眼を逸らさなかった。緋色の外套が翻る。突然、ファビウスが膝を屈した。息子のクィントゥスが駆け寄って父を抱き寄せる。
「ここまで騙し騙しやってきたが、儂もこれまでかの。体に無理が効かぬ」
そう言うと、ファビウスの手から剣が滑り落ちた。既に、軍務に耐えられるほどの体力を持っていなかった。息子に支えられ、城壁を降りる。後の指揮を息子のクィントゥスに任し、ファビウスはローマへと帰還した。
クィントゥスが代わりの指揮を執って間もなく、シレノスが残したエトルリア地方での叛乱が起きた。アッレティウムでは叛乱が図られ、ローマはガイウス・カルプルニウス・ピソを指揮官に選び、軍を駐屯させた。エトルリアの貴族を宥めるために、エトルリア伝統のインターセックス《アンドロギュヌス》を怪奇現象と捉えた祭儀も行われた。エトルリアに軍を派遣するため、南イタリアの作戦は中断せざるを得なかった。
ハンニバルは、タレントゥムを眺めたままだった。渦巻く悔しさはなかった。噛み締める感情をどこかに置いてきたようだ。この胸にあるのは、何なのか。希望に満ちていないことだけは確かだった。
南イタリアの三大都市であるカプア、シラクサ、タレントゥムの全てがローマに奪還された。カルタゴ軍の寄る辺は、もはや辺境のブルッティウム地方だけとなった。あの僻地で、どうやってローマと戦えばいいのか。
突然、近くの茂みがざわめいた。全員がそちらを振り返る。茂みから姿を現したのは、襤褸を纏ったシレノスの部下ボグスだった。全身が傷で血みどろになり、ボグスは這って茂みを出てきた。
「生きていたのか、ボグス」
「申し訳ございません。なんとかシレノス殿を助け出そうとしたのですが、ローマ軍の妨害に遭い、救うことが出来ませんでした」
涙ながらに、ボグスは謝罪した。給与の払えなくなった密偵達が次々とシレノスのもとを去っていく中、ボグスはシレノス最後の部下だった。
「よい。良く、ローマ軍の中を逃げ出すことが出来た」
ハンニバルは駆け寄り、その肩を抱いた。ボグスは溢れる感情を噛み締め、腰帯から一つの巻物を取り出した。
「これは」
「シレノス殿が今まで書かれていたものです。ローマとの戦争の記録が、克明に書かれております。シレノス殿は最期、偉大な男の近くにいられたことは生涯で一番の喜びだと、仰っておりました」
ボグスは恭しく、それをハンニバルに渡した。ボグスの手は震えていた。また一人、俺は大切な人を失ったのだ。神はハンニバルに、何を求めているのか。この世の欠片が、この身体に突き刺さっていく。
巻物はソシュロスに渡し、記録の続きを引き継いだ。ハンニバルは、ブルッティウム地方へと進軍した。ブルッティウムでは、未だレギウム港より上陸したローマ軍が暴れ回っていた。ハンニバルは奪われたカウロニア都市を奪還し、レギウムの地でローマ軍を全滅させた。這う這うの体で逃れた僅かなローマ兵はレギウムの門を閉ざして以降、出てこようとはしなかった。ハンニバルは逃げ遅れたレギウムの民を全て鎖で繋ぎ、ブルッティウム北端のメタポントゥムへと引き揚げた。そこが、今年の冬営の場所だった。
冬の雨が、空を覆った。悴む体を突き刺すように、容赦なく降ってきた。メタポントゥムで、新カルタゴの陥落を知った。ハンニバルの妻イミリケは息子を逃がし、自身は夫の足枷にならないようにと自決した。息子はどこへ行ったのか。行方は不明だった。捕まったのかもよく分かっていない。ローマ軍に包囲された都市で、幼い息子が逃げられるとは思えなかった。他の将校達の家族も多くが新カルタゴに居住しており、安否のほどは不明だった。
次々と、敗退を繰り返していく。自分は、何に縋ればいいのか分からなかった。唯一、シレノスが残したものがある。巻物の最後に書かれていたそれは記録ではなく、最期の献策であった。タレントゥムが陥落しようとも、諦めるなと叱咤していた。それがどれほど、胸に響いたか。
嘆く声が、雨だれの音と共に城内を覆った。しとしと降り続く。雨に打たれながら、ハンニバルは曇天の空を仰いだ。雫が頬を伝う。この身は、四十になろうとしていた。アルプスを越えてから、十年が経過していた。