彷徨う雷光
その秋、マルケルスはローマへと帰還した。輸送船と共に河を上り、そのまま城内へと入っていく。春にはシラクサを落としていたが、シチリア西方でヌミディア騎兵が活発に動いており、その処理に手間取ったのだ。しかし、それも下火となった。後の処理をラエウィヌスに任せ、マルケルスは帰還せよとのファビウスの命だった。
マルケルスを急いで帰還させた理由は、おおよそ察しがついた。イタリア戦線を担う人材が枯渇してきたのだろう。カプア陥落時に受けた傷により、前執政官のプルケルは陥落後まもなく死亡した。
ローマが採ったカプアの処置は、凄惨を極めた。ファビウスの代わりに総司令官となったフラックスは、まずカプアの将軍、役人、元老院議員の首を全て落とした。そして市民の財産は全て没収し、市民は奴隷として売り払われた。残酷な処遇であった。だが、恐らくファビウスが行なったとしても、同じことをしたであろう。ローマに刃向かった見せしめであった。南イタリア最大の繁栄を誇り、一時はローマと肩を並べた大都市カプア。その存在は地上から消え去った。
カプアの陥落は、南イタリアに衝撃を与えた。その影響はまず、カプアのあったカンパニア地方で現れた。アテラ、カラティアといった諸都市がローマへと帰順したのだ。今まではハンニバルの絶対的な強さによって統制されていた南イタリアの同盟は、その綻びを見せていた。
小さな凱旋を終わらせた翌日、マルケルスの邸をスキピオが訪ってきた。玄関口に現れた青年は、シチリアでの戦いから一皮剥けたようだった。落ち着き払ったその佇まいは、若者らしからぬ神秘さを纏っていた。やはり、戦場から離したのは正解だった。悩み、考える時間は若者を飛躍させる。
「お久しゅうございます、マルケルス殿」
スキピオは一礼して、久闊を叙した。動きの一つ一つが洗練されている。マルケルスは自室へ案内すると、スキピオに椅子を勧めた。
「挨拶に来ただけではないであろう」
世間話もなしに、マルケルスは切りだした。昔から、回りくどいことは苦手だった。それは無論、師弟として過ごしたスキピオは充分に理解していることだ。
「単刀直入に申し上げます。私を、翌年の指揮官に任命して下さい」
穏やかな口調であったが、瞳の中には炎があった。
「どういうことか、聞かせてもらおうか」
「恐らく明日には届きますが、イベリア《ヒスパニア》戦線にて、我が父プブリウスと叔父のグネウスが戦死しました」
マルケルスは沈黙した。莫迦な、内心はそう思っていた。だが、スキピオの顔は真剣であった。
「詳細を言え」
「父達は兵力の減少をイベリア《ヒスパニア》傭兵に頼っておりました。しかし、その傭兵が裏切ったのです。内に敵を持った父達は戦死。残った八千の兵が、かろうじてイベリア《ヒスパニア》北端のタッラコまで逃げ切れたとのことです」
スキピオの説明に、マルケルスは息を吐いた。プブリウスが負けるとは意外だった。イベリア戦線に問題はない。それが元老院の見方だった。それは、おおむね正しかった。ハンニバルの弟であるイベリアの守将ハスドルバルやマゴ、カルタゴ本国から援軍として派遣されているジスコーネも、プブリウスの前に連戦連敗であった。今年には北の要衝サグントゥムを攻め落とし、イベリア戦線は完全に優勢を保っていた。マルケルスは腕を組むと、スキピオを見た。
「司令官となるならば、私心を捨てねばならない。例えそれが、親の仇であってもだ。お前は、父を殺したカルタゴ軍を前にして、正気でいられる自信はあるか」
射抜くような視線で、スキピオを捉えた。マルケルスに睨まれて、立ち竦まない兵士はいない。しかし、スキピオは動じなかった。
「民のために、私は戦います」
言葉に私怨はない。将としての覚悟を、スキピオは持っている。若者が背負ったものは、親の恨みではない。人々の願いであった。
「私の中で蠢いていた私心は、最高神の前で涙と共に捧げました。私は迷いません。民を救うため、この戦争を終わらせたいのです」
強い男に変わっていた。マルケルスには、スキピオが眩しく感じられた。
「庭に出ろ、スキピオ。そこで、お前の将器を試してやる」
「はい」
マルケルスは奴隷を呼び、剣を二振り持ってこさせた。トーガを奴隷に預け、肌着一枚で二人は庭へと出る。四辺を廊下に囲まれた、小さな庭だった。飾り気などはない。奴隷に持ってきたのは真剣であった。二人は間合いを取り、剣を抜き払った。なまくらではない。刺すことも斬ることもできる、名剣であった。
両者が構える。静かな時が、庭を通り抜けた。胸の鼓動、風のそよぎさえも、大きく聴こえた。この間は、人の殻を毟り取り裸にしていく。それは感情を表すだけではない。変化する決断の根源をさらけ出す。その根を、マルケルスは量った。才気ある者が将になれるのではない。冷徹な根源を根づかせた者だけが、兵を指揮する資格がある。
マルケルスの剣が、ゆらりと動いた。構えを変えた。今だけは、殺すつもりだった。だが、スキピオからざわつく揺れを感じない。スキピオの膝が、少し落ちた。動けば機先を制する。マルケルスの身体が震えた。この若者が纏う神秘の根源が、そこにあった。マルケルスは構えを解いた。怪訝そうに、スキピオがこちらを見つめる。
「どうやら、口だけの男ではないようだな。良いだろう、好きにするがいい。俺が、お前を支えてやる」
「ありがとうございます」
スキピオが剣を納め、一礼した。構えを解いたスキピオの貌に、マルケルスはエミリウスを思い出した。間に合ったのだ。死ぬ前に、その姿を見ることが出来た。マルケルスは思わず、目頭を押さえた。
年の瀬も近くなる頃、翌年の執政官選挙が行われた。選出されたのは、マルケルスとラエウィヌスであった。繰り出す軍団は前年よりも少ない二十一個軍団となった。カプアを落としたことでカンパニア地方のほぼ全土がローマに帰順し、戦線が縮小したのが主な理由であった。これで、ローマの財政が破綻することは紙一重で回避された。
執政官になった翌日、マルケルスは従者と共にファビウスのもとを訪った。ファビウスはマルケルスの姿を見ると、顔を綻ばせて抱擁を交わした。それから自室へと案内された。相変わらず、ファビウスの部屋は多くの書類で埋まっていた。
「よく来てくれたの、マルケルス。シラクサ陥落の際には小さな凱旋しか認められなくて申し訳なかった。貴族共が平民に凱旋式をやらせたくないと、何かと反対してきたのじゃ」
「そんなことはどうでも良い。少し、俺の話を訊いてくれないか」
マルケルスが隅に置かれた椅子に座る。ファビウスは机に両肘をついて口元を両手で覆うと、神妙な面持ちに変わった。
「おぬしからとは珍しい。如何様のことかの」
「イベリア《ヒスパニア》戦線に送る司令官の話だ」
二人のもとに、奴隷が水瓶を持ってきた。喉が渇いていたマルケルスにとって好都合だった。奴隷が二つの杯に水を注ぐと、葡萄酒を僅かに垂らして滅菌した。ファビウスが手を振り、奴隷は下がった。マルケルスが杯に手を伸ばす。
「やはりネロには、イベリア《ヒスパニア》戦線は難しい。次期執政官として俺は報告を聞いたが、現地の族長と上手くいっていないらしい」
ネロは、マルケルス子飼いの部将であった。プブリウス戦死後は、代替の将としてイベリアに送られていた。しかし、ネロはマルケルスと氏族は同じだが、家系は異なる。貴族であるネロは、その尊大な態度でもってイベリアの族長達を見下し、強い批判を浴びていた。そしてネロは、敵を包囲しながら逃がしてしまうという失態を犯した。イベリアの地において、プブリウスが築き上げたローマの声望は今や地に墜ちていた。これ以上ネロを用いても、傷口を広げるだけだった。
「そうは言ってものう。ハンニバルに当てる司令官を除けば、もう凡将しか残っておらぬ。誰が行っても、変わらぬのではないか」
そう言って、ため息を吐いた。マルケルスは、対ハンニバル戦線であることは決定していた。そして老齢のファビウスは、身体の痛みを訴えて療養中だった。ローマの出せる駒は無かった。余りにも、司令官がハンニバルに殺され過ぎた。
「一人、俺は知っている」
その言葉に、ファビウスが顔を上げた。
「誰じゃ」
「プブリウスの倅、スキピオだ」
そう言った途端、ファビウスの肩から力が抜けた。
「何を言っておる。スキピオはまだ二十五歳じゃ。元老院議員ですらない」
ファビウスが手を振って否定した。ローマで指揮権を与えられる対象は、元老院議員であり、四十歳以上と決められていた。
「戦場に年齢など関係ない。ハンニバルがイベリア《ヒスパニア》の最高司令官になった時は、二十六歳だ。スキピオと、なんら変わらない」
「あやつは異色じゃ。特例では、参考にならぬ」
「スキピオにも、軍事的才能がある。それは、鍛え上げた俺が知っている。そこらの新人議員など、相手にもならないだろう。旧習に縛られる必要などない」
イベリア戦線は、一刻を争った。現地の者との不和は、そのままカルタゴ軍の増強を招く。ローマ軍に従っていた部族も、次々とカルタゴ軍に寝返っていた。もしも今、カルタゴ軍がイベリアの部族全てを引き連れたらどうなるか。北端のネロは破られ、恐らく再びアルプスを越えてくるだろう。春から夏にかけて越えれば、ハンニバルの時ほど苦労はしない。そうすれば、ローマは北と南で挟み撃ちに遭う。そういった可能性を、イベリア戦線の崩壊は意味していた。
「スキピオは不思議な仁徳を持っている。あいつならば、イベリアで失った声望を取り戻すことが出来る。ファビウス、俺の推薦を信じられないか」
「個人としては勿論、おぬしの言うことを信じたい。じゃが、国家の話を私的関係でもって決めたくはない元老院での審議を諮ってからじゃ」
ファビウスが話題を切ろうとした。途端、マルケルスは右手を挙げ、机に短刀を突き立てた。
「もしもスキピオが任に堪えられないような人物であったならば、この短刀で俺の喉を掻き切れ。ファビウス、俺の直感に全てを賭けろ」
強引な手段であった。ファビウスはマルケルスの眼を見つめた。
「まだ、そんな熱意が残っておったのか。負けたのう」
ファビウスがからからと笑う。
「良いじゃろう。しかし、儂の一任だけでは全てを決定することは出来ぬ。元老院でも手出しのできない民会にかけよう。そこで認められたならば、スキピオを司令官にする」
「ファビウス、この恩はいつか必ず返す」
マルケルスが頭を下げた。カンネーから五年が経過している。エミリウスへの、遅れた餞だった。
民会では、圧倒的多数でスキピオは選ばれた。神に選ばれた子であり、あのマルケルスが推す若者だった。ローマの人々は、スキピオを信頼して投票した。元老院議員達は伝統を破壊していると苦い顔をしたが、マルケルスとファビウスが後ろ盾となっており、誰も口を出せなかった。スキピオは前法務官として、一個軍団を率いてイベリアへと向かった。そして翌年。圧倒的な速さで、イベリアの首都新カルタゴを陥落させた。それは、プブリウスが長年かけても成し得なかった偉業であった。新たな英雄が、生まれた瞬間であった。
蝋燭が燃え尽きる前に、従者が新しいものと取り換えた。火が灯されたハンニバルの机には、一枚の書簡が置かれていた。
ハンニバルは宿舎に将校を集め、シレノスに大まかな内容を口頭で報告させた。それを、ハンニバルは沈痛な面持ちで聞いていた。 第一四二オリュンピア期第一年(紀元前二一〇年)。ローマはハンニバル戦線から四個軍団を減らした。だがハンニバルを迎撃するローマ軍団に、手加減は無かった。十個軍団が戦線に送られ、その総司令官はローマ随一の名将、マルケルスであった。そしてイベリア戦線には、二十六歳の若者が異例の選抜をされたということだった。カルタゴと似た政治体制でも、ローマを巡る血は常に若かった。
「以上でございます」
「分かった。下がってよい」
「はっ」
シレノスが杖を突き、ゆっくりと扉へと歩いていく。膝を壊したシレノスは、すでに満足な動きが出来ていなかった。ここ数年の激務が、老齢のシレノスに圧し掛かっていた。今はもっぱら、部下の報告を収集するだけに努めている。シレノスが出ていくと、ハンニバルは口元を手で覆った。
勝負は決した。カプアが落ちたことで、これ以上の領土拡大は望めなかった。シチリアでは未だミュットノスが奮闘しているが、カルタゴは援軍を送ろうとしない。傭兵としてやって来たミュットノスは、意外な才能を発揮していた。ローマ一辺倒に変わったシチリア島内を荒らし回り、未だシチリア西部はカルタゴ領内であった。しかしミュットノスの働きも、二千騎だけではその動きもたかが知れている。もう少し、兵が欲しい。カルタゴからシチリアに送られた援軍は、マルケルスに敗れて以来、最後の拠点に立て籠もっているだけだった。
マケドニア戦線も泥沼の内戦に陥り、ローマは僅かな援助でこの戦線を封じ切っていた。マケドニアのフィリッポスは苦戦し、逆に海軍を寄越して欲しいと何度も救援の依頼が届いた。マケドニア戦線は絶望的だった。そしてイタリアも、ローマが攻める戦に変わる。ここからは、ローマの国力との戦いだった。ローマが嫌気の差すほど長期戦に持ち込めるか、その前にハンニバルが敗れるか。
一縷の望みは、イベリア戦線だった。イベリアではローマ軍を破り、アルプスへの道が切り開ける可能性があった。アルプスも春になれば、甚大な被害を出すことなく越えられるだろう。子飼いのイベリア兵が欲しかった。アルプスを越えてきた兵は、すでに二万を切っている。代替の南イタリア兵では、どうしても錬度が足りなかった。イベリア兵の殆どは十代の頃から訓練を受けている。対して南イタリアの兵は、特に食うに困ってやってきた者が大半であり、傭兵としての質は最低であった。サムニテスがブルッティウムで調練を施しているが、それでもローマ軍とまともに戦える者はいない。シレノスには、密使をイベリアのマゴへと送るよう命じていた。五年以来に、マゴをイタリアへ呼び寄せようとしていた。イベリア内ならば、本国から邪魔が入ることはない。マゴが二万でも三万でも援軍を持って来れば、ローマを再度脅かせる。その自信が、ハンニバルにはあった。上手くいけば、カプアを奪還することも不可能ではない。カルタゴ軍の士気は、カプア以来悲痛なものだった。
将校の中から、ハンノが進み出た。
「将軍。兵士の中には、ローマとの戦いに勝てないのではないかと吹聴する輩がおります。将軍のご心境は、いかほどでありましょうか」
ハンノが活力のある声音で言った。答えなど決まっている。ただ自分の言葉で、欲しているのだ。それは士気を上げるためにも、必要なことだった。
「言うまでもない。勝つのはこの俺だ」
突き出す言葉に、ハンニバルは力を込めた。立ち上がり、諸将を見渡す。
「ローマは国庫を捻り出し、重税をかけ、ようやくカプアまで達した。だが、そこまでしてカプアだけだ。ローマの国力はすでに底をついている。もう間もなく、イベリア半島よりマゴが大軍を率いてアルプスを越えてくる。ローマが屈服する日も近い。諸君の前で、ローマ神を跪かせてやろう」
真紅の外套を翻し、ハンニバルが不敵に笑う。全員の顔に、活気が満ちてきた。自分が鬼神であり続ければ、皆は死地に飛び込んでいく。ハンニバルという男が、止まることは許されない。この絶望的状況では、自分が唯一の光明なのだ。
サムニテスにはブルッティウムを守備するよう命じた。ローマはルカニアに四個軍団、北アプリアに六個軍団を向けた。ハンノには二万の兵でルカニアの防衛に当たらせる。ハンニバル自身は、二万五千の兵で六個軍団を受け持った。
カルタゴ軍は三方に出撃した。ハンニバルは一直線に北上し、ローマ軍を補足する。
「報告。ヘルドニアをローマ二個軍団が攻囲中」
伝令が幕舎に入ってくる。二個軍団が、ハンニバルの進路を塞ぐように配置されていた。マルケルス率いる四個軍団は、北アプリアの主要都市サラピアを攻囲していた。恐らく、サラピアを落とすまでの足止め部隊だった。サラピアは北アプリアの帰趨を決める大都市であった。
「丁度良い。まずはそのローマ軍を血祭りに上げてくれる」
ハンニバルがその隻眼を細める。
「ハスドルバルとサムニテス。お前達はヌミディア騎兵と軽装歩兵を率いて北東の林に潜め。ローマ軍が出撃した後、サムニテスは敵陣地を制圧。ハスドルバルは私の合図と同時に敵の背後を襲え」
「はっ」
二人が敬礼をする。
「ミュルカノス、バモルカルはイベリア、ガリア騎兵を持って両翼を担え、カルタロは私と共に重装歩兵を指揮する」
ガリア兵の中で馬術の心得がある者には、馬をあてがった。それで、不足した騎兵の数をなんとか穴埋めしている。カンネー後より騎兵の育成を行なっているが、ヌミディア騎兵の後釜とまでは至っていない。アルプスを越えた兵士の中には、すでに四十路を越えた者もいる。だが、彼らはまだ前線で戦っていた。再度、強きハンニバル軍団を見せつける。それが、南イタリアで失った信頼を取り戻す、唯一の方法だった。
「無敗の我等に、劣勢など似つかわしくない。敵を殲滅せよ。この大地に最後まで立つのは、俺達だけだ」
ハンニバルの声が、幕舎に轟いた。三日月の旗は、未だ南イタリアに突き立てられていた。
ケントゥマルスは攻囲を解き、カルタゴ軍へと自軍を向い合せた。ケントゥマルスが出撃したのを見届けた後、サムニテスは林を出た。ローマ陣営を襲撃するためだ。守備兵はほとんど残っておらず、時間はかからなかった。副官がローマ守備兵を全員捕虜にしたと報告した。
「そろそろだな」
「なにがでしょうか」
「ローマ軍が敗走する頃合いだ」
一介の武将が、ハンニバルと一刻も向かい合っていられるはずがない。案の定、ローマ軍は敗走したようだ。地平の彼方から、ばらばらとローマの旗がこちらへと駆けてくる。ケントゥマルスに続き、ローマ兵はこちらへと逃げ出していた。サムニテスが手を挙げる。
「陣に火を放て。無様なローマ軍に、現実を見せてやれ」
サムニテスが歪んだ笑みを浮かべる。陣内の物資は一角に集め、燃やすことはない。兵士達は方々に松明を放った。乾ききった大気は、すぐに幕舎や陣柵を燃やし始めた。
自陣に辿り着いたケントゥマルスは、炎上している自陣に茫然としていた。
「我が陣が、燃えている……」
「遅かったなケントゥマルス。今か今かと待ちくたびれたぞ」
サムニテスが馬を駆けた。敵はこちらに気づいた。槍を構える。ケントゥマルスが馬首を返すより先に、喉元を貫いた。
「敵将討ち取った! 全軍、ローマ軍を殺し尽くせ!」
槍を掲げ、サムニテスが咆哮する。ヌミディア騎兵、歩兵が追いつき、ローマ軍の逃げ場はなくなった。風化したように、ローマ軍は形をなさなかった。ぼろぼろと崩れていく。カルタゴ軍は敵を追い込み、屍体の山を築き上げた。凄惨な虐殺だった。数刻も経たずに、勝負は決した。ローマ軍の死者は一万三千。逃げ果せた兵は、サラピアへと敗走していった。
ヌミディア騎兵が追撃に移り、敵兵の背後を襲う。サムニテスは後方から、ヌミディア騎兵の数を数えた。その数は一千五百騎だった。じわじわと、ハンニバル軍の騎兵は少なくなっていた。カンネーの頃には一万騎もいたが、今は四千を切っていた。想像以上に、今回の作戦で逃がした兵も多かった。アルプスを越えた当時の軍団であったならば、全滅させていただろう。
ハンニバルの軍勢がヘルドニアに入城する。小さな都市であったが、サラピアの主要な衛星都市であった。サムニテス達は威風堂々と入城したが、歓呼の声はなかった。中央通路の両側からは、まるで蛮族の行進を眺めているかのような視線が突き刺さった。サムニテスが市民を睨んだ。恐らく、この都市はローマ軍に降伏するつもりだったのだろう。ハンニバルが勝ったことで、ローマに寝返る機会を失った。それを人々は恨んでいるのだ。今回の勝利は、南イタリアをどれほど繋ぎ止めることが出来たのだろうか。
入城して間もなく、急報が入った。ハンノが敗退したとのことだった。すぐに将校がハンニバルの宿舎に集められた。褐色の煉瓦で組まれた小さな家だった。撤退すべきか否か。ハンノの敗北は、四個軍団が南イタリアの中枢ルカニアへ雪崩れ込むことを意味していた。ルカニアが押さえられれば、北アプリアは孤立する。だが、カプアを見捨て、今また北アプリアをも見捨てれば、もはや南イタリアでハンニバルを信じる者はいなくなる。それが将校達の懸念事項であり、全員が議論を戦わした。それは、ハンニバル軍団に似つかわしくない姿だった。
空は雲で覆われ、天窓からの日差しはかすかだった。いつもは傲慢なほど自信に満ちたハンニバルが、将校の議論を断裁して英断を下している頃だ。この男が口を開けば、それで神算鬼謀に満ち溢れた策が生み出され、敵軍を殲滅させる。この男の作戦によって、三十万ものローマ軍と互角に渡り合っているのだ。それだけで、すでに奇跡だった。魔王のように全軍は畏れ、敬い、この死地の中でも付き従っているのだ。
だが魔王は黙ったままであり、その顔は憂いている。ついに、この死地で限界を見たのか。それとも、未だ友の死を嘆いているのか。もしも後者ならば、自分はこの軍を出るつもりだった。私情に流される雇い主に、尽くす義理はない。常に冷徹であり、全幅の信頼がおける雇い主であったからこそ、ここまで戦ってきたのだ。大国を滅ぼす、その野望を成し得る器をこの男は持っていた。それが翳れば、用はなかった。
急使が、再びハンニバルのもとへ駆けつけた。
「報告! サラピアが陥落しました」
「なんと」カルタロが声を上げる。ローマ軍のマルケルスによって、攻め落とされた。いや、正確には、サラピアは降伏したとのことだった。サラピアが降伏するのは意外だった。サラピアには五百人のヌミディア騎兵を置き、信頼の証としていたが、その全てが住民の手によって殺されたらしい。北アプリアの人々は、すでにハンニバルを見限っていたのだ。最後まで抵抗していたカプアの惨劇が、ローマへの恐ろしさを再起させていた。
サムニテスがハンニバルの方を振り返る。すでにハンニバルの顔は、将軍の風貌になっていた。
「全軍、ルカニアへ撤退する。急ぎ支度せよ」
「ヘルドニアはいかがなさいますか」
サムニテスが訊ねる。その問いに、ハンニバルは眉一つ動かさず答えた。
「家屋、城壁全てを焼き捨てる。ヘルドニアの民は身一つで、ブルッティウムへ移住させよ」
ヘルドニアの人々が、それを承知するはずがない。それでもなお強行すれば、怨嗟の声が響き渡るだろう。南イタリアで築き上げた声望が、地に墜ちる。それを知っているからこそ、ほとんどの将校は茫然としていた。しかしただ一人、サムニテスはほくそ笑んでいた。
「かしこまりました」
なんと非情な将軍。それでこそ、我等が主だ。民のことなど考える必要はない。大国を滅ぼすのに、なぜ弱者を気にかける必要があるのか。北アプリアを荒れ地に変える。そうすれば、ローマは奪った領土からなんの利益も得られない。ただ疲弊するだけだ。
「将軍、待ってください」
ハスドルバルが声を上げた。ハンニバルがそちらを振り返る。
「ここを焼き捨てるって、それでヘルドニアの奴らが納得するのですか」
「させるのだ。これもまた、ローマを砕く一手だ」
「それで、みんな幸せになれるんですかい。俺達に教えてくれた夢とやらに、近づけるんですか。答えてくれよ将軍!」
ハスドルバルの声は、震えていた。訴えの奥には、友だったマハルバルがいるのだろう。ギスコが守り抜いたもの、マハルバルがその身と引き換えに執政官を討ち取ったのも、それは全てがハンニバルの目指すものへと繋がる。反吐が出るような正義感だった。だが、この男にはまだ騎兵を率いてもらわねばならない。
サムニテスは、ハスドルバルの前に立った。
「やめろハスドルバル。将軍も、辛い御決断をされたのだ。その心情を汲み取ってやれ」
「なんでだ。ギスコの親父は、皆を苦しめるやつらを毛嫌いしていたんだ。マハルバルは、将軍がみんなを幸せにすると言っていた。それなのに、こんなのはあんまりじゃねぇか」
ハスドルバルはそう喚き叫んだ。今にもハンニバルに掴みかかる勢いだった。カルタロが、背後からハスドルバルを羽交い絞めにした。鎮座するハンニバルは、冷めきった声で全員に告げた。
「明朝にはここを発ち、ルカニアを通ってブルッティウムへと住民を移動させる。我等はブルッティウムまで住民を護衛し、それからはルカニアの防衛に専念する」
褐色の煉瓦で造られた室内を西日が赤く染める。夕陽に彩られた部屋の中で、将軍の冷えた眼差しは別世界を見ているようだった。将校達が散会していく。皆が皆、ハスドルバルを慰めていた。ハンニバルの胸中を慮ろうとする者は、誰一人としていない。そして自分も、支持はするが同情はしない。決断と責任は将軍だけが負う。それが、ハンニバルを中心としたこの軍団の姿だ。支える者も、同じ夢を抱く者も、ハンニバルにはいない。
マルケルスは緋色の外套を翻し、馬を駆けさせた。不安な空模様であり、降ってきた場合に備えて兵士達には外套を着させた。
シラクサを落としてから休みはなかった。だが、それはむしろ幸いだった。肉体は、未だ戦を欲している。北アプリアへはマルケルスが直接六個軍団を率いて向かった。ここを平定すれば、南イタリア三大都市の一つであるタレントゥムへ道が開ける。三大都市のカプア、シラクサはすでにローマの手に落ち、後はここを落とすだけだった。ハンニバルもそれを把握しており、別動隊の二万にルカニア地方を任せ、自身は三万の兵でアプリア地方を北上してきた。
ケントゥマルスに二個軍団でもって南部のヘルドニアを任せ、マルケルスは四個軍団で主要都市サラピアを包囲した。サラピアは北アプリアでは重要な都市であったが、カプアの衝撃はここにも届いていた。副官のネロを、降伏勧告の使者としてサラピアに向かわせた。すると翌日には、急進派の貴族が守備隊のヌミディア騎兵五百人を殺し、ローマに投降してきた。一度も攻めることなく、作戦は成功した。
ネロが誇らしげに報告する。もしかしたら機略に長けたネロが、サラピアに入城した時に何か策を巡らしたのかもしれない。小賢しいことに、興味はなかった。サラピアへ入城しようとしたマルケルスのもとに、急報が届いた。
「報告! ヘルドニアにてケントゥマルスとカルタゴ軍が衝突。ケントゥマルスは討死、二個軍団が潰滅しました」
マルケルスは背後を振り返った。まだ、ローマを苦しめるのか。手綱を引きちぎりそうなほどに、力が籠る。好敵手の力は、長い戦いを経ても衰えていなかった。マルケルスの麾下は、ファビウスに無理を言ってシチリアで鍛え上げた軍団を持ってきていた。それはマルケルスの手足のように動く精鋭部隊だった。カンネー軍団も欲しかったが、そこまでは許されなかった。マルケルスはもう一人の司令官であるクリスピヌスを呼んだ。
「クリスピヌス、お前は二個軍団を率いてこのまま北アプリアを平定せよ。俺は、ハンニバルを食い止める」
「はっ」
サラピアの城門を前にして、ローマ軍が二つに分かれる。マルケルスは南方へと急行した。ネロに騎兵を率いさせて先行させる。しかし、ネロからの報告は意外なものだった。
「マルケルス殿。ヘルドニアは既に廃墟です。ハンニバルは住民を全て南方へ連れ去り、都市に火をかけたとのことです」
報告に、マルケルスは悪態をついた。サラピアがローマの手に落ちたことで、北アプリアの維持は不可能と見たのだろう。前線基地ともなるヘルドニアを破壊し、住民は過疎地のブルッティウムに移住でもさせれば多少なりとも益となる。しかしそうと分かっていても、自分の名声を落としてまで出来る司令官はいない。冷酷な判断を下せるのは、やはりハンニバルだった。
「ついに敵は見境が無くしました。このようなことをすれば怨嗟の声は必至。ローマの勝利も近いでしょう」
「あの男を舐めるな、ネロ。それより、ハンニバルがどこにいるかは分かるか」
「住民と共に、ルカニアのヌミストロを南下中とのことです。女子供を連れており、遅々とした進みをしております」
ネロが不敵に笑みをこぼした。民の悲しみよりも、ハンニバルの進軍の遅さに嬉々としていた。マルケルスは全軍の進路を変えた。
「ハンニバルを追撃する。ローマの民を取り返すぞ」
迅速に動いた。二日駆けると、早くもカルタゴ軍に追いついた。丘の上に、雷光の旗は殿軍として布陣していた。マルケルスも応えるように布陣する。鍛えられた三万の軍勢であった。ハンニバルは住民の護衛と監視に一万の兵を割いており、二万の軍勢だった。右翼がヌミディア・イベリア騎兵、左翼がガリア・南イタリア騎兵であった。歩兵の前面には、戦象が並べられている。カルタゴからハンニバルのもとへ届いた唯一の援軍が、騎兵と戦象だった。
「昨夜伝えた通りの布陣だ。全軍、隊列変更」
マルケルスが槍を振ると、歩兵は前衛と後衛に二分された。前衛をフラウィウス、後衛をネロが指揮する隊形となる。それは、マルケルスの考案した陣形であった。後衛を設置することにより、背後、側面からの奇襲に備えることが出来る。ハンニバルが得意とする全面包囲を崩す隊形であった。そしてマルケルスは二千騎でもって左翼騎兵を率いた。前面には、ヌミディア騎兵がいる。ヌミディア騎兵の数は、敗走してきたローマ兵より聞かされている。その数はやはり減っていた。ローマ騎兵の方が、数ならば上だ。
軽装歩兵が、カルタゴ軍と小競り合いを繰り返す。主力は、逸る感情を抑えて決戦の時を待った。馬上からカルタゴ軍を眺めるマルケルスは、手綱を持つ手が震えていた。好敵手。自分の積み上げた全ての武を、ぶつける。
「ゆくぞ、ローマの災厄を打ち払え! 全軍突撃!」
雄叫びが上がる。全軍が、カルタゴ軍へと突撃した。二千のローマ騎兵も、ヌミディア騎兵へと駆けた。装備は極限まで軽くしてある。鎧も、簡単な胸当てだけだ。ヌミディア騎兵も動き出す。マルケルスが槍を構える。合図を出した。ローマ騎兵の分かれ、一隊が側面へと出る。敵は即座に反応した。ヌミディア騎兵が五つに分かれ、ローマ騎兵の間隙を縫ってかわした。マルケルスは止まらず、一部隊に後方を、自身は大きく旋回する。ヌミディア騎兵の動きも早かった。分散を繰り返す。小さな部隊の一つ一つが毒針だった。一撃でも食らえば、呑まれる。蜂の大群にも、巨大な龍にも変わる。一直線に戦うガリア騎兵とは違う強さを持っていた。マルケルスは左手で幾重にも合図を出し、先を読む。敵も同じように読み切り、躱した。今の戦況に固執すれば、そこで終わりだ。マルケルスはその剛腕で、ヌミディア騎兵と互角に戦った。
背後から喊声が上がった。三日月の旗。ハンニバルの伏兵だった。住民の護衛から引き抜いたのだろう。読み通りだった。後衛のネロが反応する。即座にそちらの迎撃に向かった。伏兵は数が少なく、圧され気味に下がっていた。
日が没するまで戦闘は続き、両軍は引き分けた。マルケルスは軍をまとめ、陣営へと帰還した。すぐに、マルケルスは全軍を陣営中央の演壇に集めた。松明で照らされた演壇にマルケルスは上がった。今日は引き分けた。だが、どの兵士の顔も喜色に満ちていた。
「戦士諸君。ローマ軍は、吹けば飛ぶような軟弱な軍勢か。三日月の旗の前では、跪かざるをえないのか。違う。ハンニバルの不敗伝説は、今日をもって覆された!」
兵士達が囃し立てた。皆が、マルケルスの名を叫んだ。
「我等ローマに敵などいない! 明日こそ、イタリアの大地にハンニバルを跪かせよ」
マルケルスが緋色の外套を翻すと、全軍が湧き上がった。
翌日、マルケルスは再び出陣した。だが、カルタゴ軍は忽然と姿を消していた。マルケルスとの戦いよりも、ハンニバルは民の護衛を選んだのだ。陣をたたむと、マルケルスはすぐさま追撃に移った。ローマ人ならば、見たくもない雷光の旗。だが今は違った。マルケルスの軍勢は、雷光の旗との戦いを欲していた。
ハンニバルは谷間の多いウェヌシアに布陣していた。マルケルスが緋色の外套を天幕に掲げる。出陣の合図だった。ハンニバルも応える。起伏の多い地形であり、騎兵を縦横に動かせなかった。カルタゴの象群も、後方に置かれたままだった。騎兵はただ押し合うのみで、決着はつかなかった。互角の戦いが、何度も繰り返された。
さらに南へ下がって、大平原で再び激突した。マルケルスは槍を手に、ヌミディア騎兵と戦った。ヌミディア騎兵の呼吸を、呑みこんでいく。ローマ騎兵は、マルケルスの素早い合図によくついてきた。馬の質は劣るが、こちらの方が五百騎ほど数は多い。速度を数で補った。紫紺の外套を羽織る男。ヌミディア騎兵を率いる将官だ。向こうも、こちらに気づいた。マルケルスは馬腹を蹴った。精鋭百騎も、それに続いて駆けた。敵も精鋭を纏い、マルケルスと馳せたがう。腕が痺れた。もう一度。剛腕ながらも、恐るべき槍捌きであった。自分と互角に戦える者は、久方ぶりだった。ローマ軍の頂点に立ってから、立ちはだかる男はいなくなっていた。
一撃、二撃。血が滾る。激しい撃ち合いだった。マルケルスは咆哮した。突き出した槍が、敵の首筋を掠める。同時に、自分の頬を血が滴った。もう一度。マルケルスが動こうとした時、敵は馬首を返していた。騎兵同士が混戦状態に変わっていく。マルケルスは騎兵を立て直す。敵もまた、組み直した。
またも、勝敗は着かなかった。肩で息をする。鎧の下の肌着は気持ち悪いほどに濡れていた。じれったさが生まれてくる。
晩秋まで何度も勝負を仕掛けたが、ことごとく引き分けた。ヌミディア騎兵には勝てなかったが、敗れもしなかった。冬期休戦となり、敵軍勢はタレントゥムへと引き上げていった。
「マルケルス殿、好機です。追撃しましょう」
ネロが急かすように言った。冬期休戦は暗黙の了解だが、それを破るのをネロは恥と思わないらしい。
「あの男のことだ。不測の事態を予想して、各所に伏兵を仕掛けているだろう。わざわざ敵の策に乗る必要などない。我等はウェヌシアで冬営する」
マルケルスは緋色の外套をはためかせ、ウェヌシアへと引き上げた。それから後、ハンニバルの退路より陸続とカルタゴ兵がタレントゥムへと引き上げていった。晩秋の風は、南へと吹いていた。