表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/11

鐘が鳴る時

 恐るべき事態が起きた。ファビウスの飄々とした表情も、今は固かった。ファビウスは沈痛な面持ちのまま邸宅を出た。

 カプア陥落を狙い、国庫をひっくり返して繰り出した二十五個軍団だが、その作戦は成功裏に終わらなかった。カプアを守る城砦を崩し、ハンニバルをタレントゥムに押し込むことには成功した。だが、その代償は余りに重かった。六個軍団が潰滅。執政官達の四個軍団も一万人以上の死者を出し、敗走した。ハンニバル戦線に用いた十六万の半分、八万の兵を失った。カンネー以来の衝撃が、ローマを襲った。若き按察官アエディリス誕生に始まった今年は、惨劇で締めくくられた。

 何よりも痛撃だったのが、これでハンニバルに殺されたローマ軍の数が二十五万を超えたことだった。六十万を数えたローマの兵力の実に半分近い数字だった。ローマが破綻する手前まで兵力を繰り出したとしても、十七万程度しか出せない。このままでは、来年は二十個軍団を割る可能性が出てきた。

 白い外套(トーガ)が肩からずり落ちそうなほど、ファビウスは急ぎ足で議事堂クリアへと向かった。その手には、新たに徴兵する手筈が認められている。ファビウスは議会への扉を開いた。議場は、再び空席が目立っていた。それは遠征軍に従軍した議員と、今年の戦いで戦死した議員が大半だった。

「議員諸君。ずいぶんとまぁ、辛気臭い顔をしておるの」

 ファビウスが表情を新たに、演壇へと歩く。その中、議員の一人が立ち上がった。

「我等はこの年、二十五個軍団という前代未聞の兵力を整え、ハンニバルに決戦を挑んだ。だが結果はどうか。惨敗だ。我らが被った損失は、無視できない規模になった。もはや二十五個軍団を支える兵力も、財力もローマには残っていない。そこで諸君に問う。ここは一度、ローマの寛容さ(クレメンティア)を示してハンニバルと講和を行なえばどうか。まだ奴隷兵ウォロネスをかき集めれば二十個軍団は出せる。今ならば、ローマ優位で交渉を進められるのではないか」

 少なくない数の拍手が飛ぶ。それは、ローマの限界を表しているように感じられた。だが、ファビウスはその拍手を遮った。

「儂は、交渉よりも二十五個軍団を動員することを提案する」

 議員達の顔が強張った。続けざまに、ファビウスが説明する。

「神殿にある金銀財宝を売り払い、国庫収入とするのじゃ。次にローマ市民全員から借款する法案を提出する」

 神殿の財宝に手を付けるのは、市民の資産に手を付けるための演出だった。国家の危機を目に見える形で表し、増税の理由づけとするつもりだった。

「そして軍事費を整えたのち、奴隷兵ウォロネスを徴収。さらに徴兵可能な資産階級を落とし、最大兵力を十五万人ほど増加させる。これで再び、二十五個軍団を編成するのじゃ」

 ファビウスの厳然たる態度に、議員も黙った。ファビウスの手練手管を用いれば、神殿から宝飾品を取り上げることも美談に変えてしまうだろう。ただ、先ほどの議員が反論した。

「それで、責任はどうするのだ。もしも翌年の二十五個軍団が失敗に終われば、それは南イタリアを失うだけでは済まされないぞ」

 そう糾弾した後、議員はしまったと口を閉じた。ファビウスが口元を上げた。投入を前提で責めてくれれば、この提案をあともう少しで成立する様なものだった。

「翌年は儂が責任をもって出る。儂がローマの盾となり、南方軍を全滅させぬ。そして必ずや、カプアを落としてみせよう」

 それが決め手だった。翌年の軍団編成はファビウスのやり方に従って決められた。奴隷兵の登録が再び行われ、監察官ケンソルの資産調査によって新たな徴兵目録を作らせた。

あとは、神殿に手を付けるだけだった。ファビウスは従者を伴って、カピトリウムの丘へと向かった。ユピテル神殿の前に立つと、従者達にここで待つよう命じた。一人になると、ファビウスは神殿の中へと入っていった。幾多の円柱に囲まれたポルチコ《ポルティクス》を通り抜け、神殿内部へと入る。奥へ進むと、一人の青年がユピテル像の前で祈りを捧げていた。

「ファビウス殿ですね」

 振り返りもせず、青年は言った。面を食らったファビウスは狼狽の表情を見せずに、飄々と答えた。

「よく分かったの。ユピテルが押しえ給うたか」

「ここで祈りを続けていますと、様々なことが見えてきます」

 祈る姿勢を崩し、スキピオは振り返った。ファビウスは思わず息を呑んだ。穏やかな表情はどこか世間離れしたような、輝きを持っていた。ローマの人々がスキピオを神の使いだと感じてしまうのも、無理はないだろう。やはり、この青年を利用するのが最適解だった。

「実はちと、頼みごとがあってきたのじゃ」

「存じております。神殿の供物を、国家に捧げるのでしょう」

「耳が早いの」

 ファビウスが驚いたように言った。

「いえ。流れが、教えてくれました」

 意味深く、スキピオが天を仰いだ。どこまで本気で言っているのか、ファビウスは困惑した。二十五個軍団を出すこと自体が想定外であった筈だ。それなのに、言い当てた。本当に、流れを読んで神懸かり的な智謀でファビウスの行動を見抜いたのか。それとも、独自の情報網がスキピオにあるのか。だが元老院で決議してから、幾ばくも経っていない。この歳でそこまで高度な情報網を作り出せるのだろうか。

「国家のため、後援させて頂きます。私が言えば、民衆も納得しましょう」

「快哉。神秘の男が協力してくれるとは、無上の喜びじゃ」

 ファビウスが手を叩いて言った。いつの間にか、強力な支援を得られたような気持ちになっていた。不思議な男だった。ファビウスが神殿を出ると、従者達がそれに続いた。丘の上から見るローマはまた違った。冬が果てるローマには、まだ活気が戻っていなかった。かつての人々の幸せを、取り戻さねばなるまい。守るべきものは、人々の生活だ。ファビウスは寂れた祖国の姿を、その眼に焼き付けた。


 外が騒がしい。マハルバルは、青銅の筆を机に置いた。カプアの議員達が、何度も廊下を行き交いしている。連日、カプアでは会議が開かれていた。マハルバルも何度か招集されたが、そのたびに理由をつけて断った。結論など、出てくるわけがない。ローマの攻勢がむことはないだろう。

マハルバルの一室は、静かだった。マハルバルが机に向かっていると、シレノスが音もなく現れた。ギリシア商人ではなく、一般的なローマ人の出で立ちだった。ローマ市内は、若き按察官アエディリスにより取締りの眼が厳しくなっていた。ギリシア商人では、ローマの中に入れもしないのだろう。

「報告だ。ローマは翌年も二十五個軍団を維持するとのことだ。噂ではあるが、南方軍の総司令官はファビウスになるだろうというのが大方の意見だ」

「まだ、出てくるか」

 マハルバルの言葉に落胆にも似た感情が込められていた。あれだけハンニバルが潰しても、まだ兵力が出てくる。ローマの国力はどうかしている。そしてファビウスが出てくるということは、ローマ市内の治安に目途が立ったということだ。ファビウスとマハルバルは、また違う戦いを繰り広げていた。様々な手を使って、マハルバルはローマの厭戦気分を盛り上げようとした。物価も高騰させ、新興宗教も流行らせた。だが、それはローマの戦意を鈍らせるまでには至らなかった。ローマ市民の意志は固く、ファビウスもまた悉く鎮圧していった。

籠っていた溜め息が、堰を切ったように出てきた。

「シレノス、この書簡をハンニバルのもとに届けて欲しい」

「またか」

「分かっているだろう」

 そう言って、シレノスの手に握らせた。

「マハルバル、お前こそ分かっているはずだ。どんなに救援を依頼しても、将軍はここに来ない」

 皺の刻まれた顔を歪め、シレノスが声を荒げた。

「知っている。だが、カプアの人々を鎮めるには送るしかないのだ」

 マハルバルは顔を俯かせた。今年になって、南部イタリア諸都市との連絡は途絶えだした。クーマエの執政官が各地を荒らし回り、さらにアルピへと逃げていた執政官も合流し、四個軍団でカプア周辺の道を遮断していた。南イタリアから届く僅かな軍資金も途絶えたことで、一万足らずの傭兵も解散した。南イタリアの諸都市は完全なる独立を求め、その殆どがハンニバル側に貢納金を支払わなかった。そしてそれを、マハルバルも認めざるを得なかった。ローマは、同盟都市に兵役義務以外は求めていない。ローマの支配自体が寛容であり、そこから離反させるには、完全なる独立を認めさせる以外はなかった。幾ばくかの都市が、優先的に守られるように貢納するだけだった。ハンニバルにとって領土の拡大は、利益よりも負担の方が重い状態になっていた。

 代わりに創設されたカプアの市民軍が、ローマ軍を迎撃した。だが食糧を求めて血路を開こうとするも、全て打ち払われた。マハルバルが、援軍として渡された二千のヌミディア騎兵で突破し、細々と救援物資を渡している状態だった。籠城するための物資も、完全に整っていなかった。

「私が出撃することさえも、カプアの人々は嫌がっている節がある」

「なぜ」

「分からないか。私は、人質なのさ」

 自嘲気味に、マハルバルは言った。シレノスが、眼を見開いた。

「ハンニバルと親友の私がここにいる限り、いくらフェニキア人といえども、カプアを見捨てることはない。そういうことだろう」

 地中海交易を手広く行なうフェニキア人は、多くの民族と商売絡みで会うことが多かった。そこで出来た印象が、フェニキア人は信義を守らないであった。それは古くからの繋がりがある部族ほど、根強く信じていた。

「この書簡は持っていく。だがタレントゥムの奪還をローマ海軍は狙っている。恐らく、将軍は来春までは動けないだろう」

「持っていってくれれば、それだけでありがたい」

 もう一つ、シレノスには頼むことがあった。

「カプアの人々に見つからないよう、ここにある書簡の箱をクロトンまで持っていくことは出来ないか」

 マハルバルが棚へと歩き、そこに置かれている金属の箱がいくつかを取り出した。

「この中には南イタリア諸都市との同盟文書だけでなく、マケドニア、エジプト《アイギュプトゥス》との秘密協定の密書も入っている。首都機能が麻痺しないよう、ここにある書物は全てクロトンに移してもらいたいのだ」

「分かった。年が明けるまでに、移しておこう」

 シレノスがまた音もなく扉を開け、退室した。残されたマハルバルは、まだ先端の墨液が乾いていない青銅筆を掴んだ。がむしゃらに、壁に投げつけた。甲高い音と共に壁を跳ね返り、床に転がり落ちた。

 歯車が、うまく回らない。なぜ、ローマは講和に動かないのか。ここまで打ちのめされて、起き上がる国があるというのか。あのアレクサンドロスの前に立ちはだかったペルシア帝国も、数度の会戦で滅亡した。全てが想定外だった。イベリアで思い描いた話がどれほど夢想であったかを、一つ一つ実証でもって指摘され、蔑まされているようだった。これが、かの名将ピュロスを追い払い、カルタゴを破った国家の姿なのか。

 壮大なことを成し遂げる。それが、この夢を追い始めた発端だ。カルタゴを救うためや、先の戦争の復讐などは、関係なかった。ただたまたま、ハンニバルがカルタゴ側の人間だったというだけだ。ハンニバルは、幼少の頃から燃えるような激情を持った男だった。遊ぶときも、いつも全力だった。将軍としての教育をギスコから教えられてから、ハンニバルは冷徹な男と評されるようになった。ハンニバルの内なる闘志を知っているのは、自分だけだった。その男の闘志を受け入れ、吹子のように焚き付けたのは自分だった。地中海を平和へと導くのは俺達しかいないと、よく語っていた。世界一の商業都市を作るのが、二人の夢だった。ハンニバルも、それを願っていた。

 ただマハルバルには、一つ胸に仕舞っている考えがあった。ハンニバルを王にすること。カルタゴの王として、君臨させたいと考えていた。民衆と貴族が対立する元老院体制では、支配に限界がある。それはアテナイ、そして今のカルタゴが示している。同じ体制をとるローマも、いずれは腐敗していくだろう。ヌミディアには王がいる。ヌミディアでは王が優秀であれば、たちまち領土は拡大して強国となった。ならばカルタゴも、王を戴けば生まれ変わるのではないか。それがハンニバルとなれば、地中海全土、いや、遠く東方へもその手を伸ばすことが出来る可能性がある。かの大王を超える世界を、手に入れられる。

 一度だけ、ハンニバルにそう零したことがある。その時は、ハンニバルは即座にかぶりを振った。それはカルタゴではない。そう言って取り合わなかった。恐らくギスコの想いを汲んでいるのだろう。マハルバルからすれば、それはじれったかった。広大な光が目の前にあるのに、その可能性に対してハンニバルは開かれていない。だが、そのギスコは死んだ。今ハンニバルを縛るものは何もない。この戦いにさえ勝てば、再びあの男を可能性が照らす。ハンニバルも分かっているはずだ。カルタゴはもう、手の施しようがないということを。手を加えたところで、ねじれて、最後は腐った旧習がハンニバルの足を引っ張るだけだ。全てを破壊し、新たな創造主とならなければならない。それが、カルタゴに生まれたハンニバルの宿命だ。

 マハルバルは、少しずつ部下の文官達をクロトンへと退去させた。それは、すでにハンニバルにも知らせてある。ローマ軍が跋扈するカプアでは、兵糧の供給や情報収集を行なうのは余りに危険すぎた。秘密文書が敵の手に渡る可能性も十分にある。タレントゥムも考えたが、より安全な奥地へ移すことが妥当だという決断に落ち着いた。シレノスの拠点も、ハンニバルのいるタレントゥムへと引き下がっていた。ただマハルバルだけは、動こうとしなかった。シレノスに今なら脱出できると促されたが、それも断った。

 自分の考えがハンニバルにとって毒だということは知っていた。だが南イタリアを支配下に置けば、自分の考えも不可能ではなくなる。強大なローマを屈することが出来れば、地中海でハンニバルに刃向かえる国はなくなる。カルタゴも、ハンニバルの足下に跪いているだろう。その時には、マハルバルという劇薬がハンニバルを覇者へと押し上げる。自分には、それを補佐する自信があった。だがここで敗ければ、ハンニバルはカルタゴの改革者となるだけで終わるだろう。その時には、マハルバルは必要なくなる、いや、毒として、ハンニバルを狂わすだろう。ここが、自分の分水嶺だ。敗ければ、ハンニバルを王にすることも叶わなくなる。最期の最期まで、自分はハンニバルに賭けたかった。

 年が開けようとした頃に、シチリア島からの情報が届けられた。シチリア最大の都市シラクサが、ローマの手によって陥落した。これでシチリア島は南西のアグリゲントゥムを残して、その殆どがローマによって奪還された。そしてもう一つ、急報が入った。翌年を待たずにファビウスが軍団を編成し、出陣したとのことだ。同時に、ノーラにいた二個軍団も北上した。

数日後にファビウスはカプアに到着し、包囲した。総勢十万の大軍だった。カプアの市民軍が出撃するも、その全ては打ち払われ、城砦が建設された。壕が二重に掘られ、高く土塁が造られ、中には杭が植えられ、逆茂木も取り付けられた。各城砦の間も土塁と石材で幾重にも固められ、壕と逆茂木が設けられていた。ローマ軍の陣営の中には、三十日以上の兵糧が運び込まれた。カプアを取り囲むローマの陣は、一つの巨大な城となっていた。文字通り、逃げ場は無かった。マハルバルは天を見上げた。神に祈ることだけが、自分にできる唯一最後のことだった。


 苛立つ感情だけが、ハンニバルの内側を支配する。何度も、壁に拳を叩きつけた。白かった壁に、血が上塗りされる。自分のやりたいことは、こんなことではなかった。もっと堂々たるものであったはずだ。目指すべきものは、この血の先にあるのか。道は染まれど、終わりは決まっていない。

 シラクサは陥落し、カプアが包囲された。すぐに立ちたかったが、タレントゥムにローマ海軍が来襲した。海へと飛び出した出城のローマ兵を援助するのが目的だった。出城に援軍と物資が届けば、タレントゥムに相当の兵力を置かなければいけなくなる。

だが、奇跡が起きた。シチリアでローマ海軍との会戦を恐れ、敵前逃亡したカルタゴ海軍がタレントゥムへ漂着した。それは軍艦の数だけは百三十隻というかつての海運国の面影が残っている艦隊であった。それは偶然ではあったが、本国から届いた最後の援軍であった。二十隻あまりのローマ海軍は、たちまちに撤退した。

 ハンニバルは南端のブルッティウムで戦うハンノにアプリアへ北上させ、タレントゥムを狙う四個軍団と対峙させた。そしてサムニテスをルカニア地方へ派遣し、ローマ二個軍団がブルッティウム地方へ向かうことを阻止させた。南イタリアの防備を固めると、ハンニバルは新しく引き入れた傭兵を加えた二万二千の軍と三十三頭の戦象を引き連れて、タレントゥムから出陣した。

 可能ならば、ハンニバルは十万のローマ軍と決戦を挑む気であった。カルタゴから送られてきた戦象は訓練されていなかったが、威嚇には充分だ。ここで果てるならば、地中海へと羽ばたくカルタゴを背負う男ではなかったということだ。

 戦象に合わせて、軍はゆったりとした進軍であった。ローマ軍がハンニバルとの決戦を望むなら、地の利を先取できる絶好の機会だ。騎兵の動けない稜線沿いに布陣すれば、ハンニバルは絶望的な歩兵戦を行わなければならなくなる。今が、ハンニバルを戦場で破る好機であった。

だがローマ軍は、ハンニバルが与えた機会にさえ、微動だにしなかった。戦争をここで終わらせたいという誘惑を、ローマは断っていた。決戦を行ないたい衝動が、心の弱さから出るものだということを、ローマは知っていた。弱さを少しでも見せれば、ハンニバルが付け込まないはずがない。ローマの決意は、カンネーで起きた弱さを超えていた。覚悟を決めた軍ほど、恐ろしいものはない。

 カプアへと向かわせた急使が引き返してきた。ローマの包囲網が厚すぎて、潜り抜けることは不可能であったらしい。援軍を知らせる紙一枚、届かなくなっていた。

 ハンニバルがカプアへ到着する。無防備なティファタ山へと布陣した。廃棄された砦の跡がところどころに残っていた。ハンニバルの胸が痛んだ。堅牢なローマ軍の包囲網が完成した今、ローマにとってティファタ山は価値が無かった。

「おいおい、あれが陣かよ」

 ハスドルバルは目を丸くしていた。カプアの城壁を、さらに巨大な輪が囲んでいる。それはさながら城壁のようだった。

「あれがローマの実力だ。市民に支えられれば、どんな不可能も可能にすることが出来る。未曽有の大軍を編み出すことも、数週間で城砦を組み立てることもだ」

 ハンニバルが、冷徹な眼差しで眼下を睥睨する。焦りはなかった。手遅れだということが、目の前で証明され尽くしていた。ハンニバルは狼煙を上げ、援軍が来たことをカプアへ告げた。それから二千の兵を残して、二万の軍勢でローマの城砦まで出向いた。近くで見れば見るほど、堅牢な造りなのが分かった。これならば三十万の軍勢が襲い掛かろうと、崩れることはないだろう。

「カルタロ、ラテン語は出来るな」

「はっ」

 カルタロが前に出た。かつて人質という体で、ローマへ留学していた将校であった。

「ローマ軍を挑発して引きずり出してこい」

 カルタロが頷くと、ローマ陣近くまで駆けた。

ローマ軍ロマニ・エクセルキトゥスよ。貴様らは十万もの軍勢を抱えながら、どうして出てこないのか。それとも、我らが殺し尽くして、もう臆病者しかいなくなったか」

 カルタロが大音声で挑発をする。だが、ローマ軍は出てこなかった。不気味なほど、静けさが漂っていた。ハンニバルはカルタロを下がらせ、城砦へと攻撃を仕掛ける。ローマ軍が陣内より迎撃した。ハンニバルは軍の左右を空け、意図的に隙を作った。引きずり出すためには、犠牲を厭わなかった。だがローマ軍は陣に籠ったままで、絶対に出てこようとはしなかった。日没まで粘ったが、ローマ軍は一歩も出なかった。

ハンニバルの焦りが、苛立ちに変わる。包帯の巻かれた右手が疼いた。マハルバルを助けることは、いよいよ不可能となった。ここまで、二人でやってきた。それなのに、後少しのところで去ってしまうのか。導いてくれた師のギスコとは、別れの言葉も交わせなかった。また、自分は大切な人を失おうとしていた。なぜマハルバルは、カプアから逃げないのか。

 シレノスには、昨年からマハルバルを逃がせと命じてきた。だが、マハルバルは頑として動こうとしなかった。何かを決心しているようだったと、シレノスは詫びると共に報告した。ハンニバルは頷いただけだった。マハルバルが決断したことならば、何があっても曲がることはないだろう。ただ、動かない理由だけでも知りたかった。自分に言えないほどの理由なのだろうか。不毛な憶測が、頭をぎった。

 何もできないまま、五日が過ぎた。カプアからは、救援の狼煙が上がり続けている。それを、ハンニバルは黙殺するしかなかった。ローマの陣営へと向かう輸送部隊を蹴散らしたが、ローマの陣営が飢える気配はなかった。カプアの周辺は略奪され尽くされており、ハンニバルの方が食料の調達に難渋していた。

ハンニバルは高台となっている丘の上に立った。夜風が火照った体を冷やす。厚い雲が夜空を覆い、月明かりの届かない日だった。従者が掲げる松明だけが、周りを照らしていた。ハンニバルは、眼下のローマ陣営を眺めた。カプアを囲む城砦は、昼間のように煌々と松明が焚かれている。あれを間近で見るカプア兵は、恐らく恐怖でおちおち寝ていられないだろう。

 ハンニバルのもとに、首都ローマへと向かわせたシレノスが帰還し、報告にやってきた。

「いかがであったか」

「まだでございました」

「シレノス、カプアへ部下を潜らせることは出来るか」

「向かわせることは出来ますが、帰って来られるかは分かりません」

「それでよい。私がしたためた書簡をカプアへと届けてもらいたい」

「はっ」

 ハンニバルは従者に紙と筆を持ってこさせ、そこにギリシア語で流れるように書き綴っていく。それはこの五日間、考え抜いた作戦の全貌だった。それを渡すと、シレノスは忽然と消えた。従者に命じ、ハンニバルは将校に高台へ集合させた。全将校の数は、アルプスを越えた時のおよそ半分になっていた。

「全軍に陣を引き払うよう命じよ。直ちに、出撃する」

「どこへ向かうんですかい」

「ローマだ」

 将校の中に動揺が走った。想像を超えた作戦だった。ハンニバルは、シレノスからの報告と自らの作戦を伝えた。報告では、まだローマ防衛の軍団が編成されていなかった。ファビウスはハンニバルの出撃前を狙うため、防衛用の兵もかき集めて包囲軍を編成した。そのため首都には、まだ守備兵が用意されていなかった。ローマ防衛に集められる同盟軍は、三日後にローマへと集合する。つまり二日以内に辿りつけば、首都ローマを襲撃することが出来る。首都を落とせずとも、ファビウスは包囲を解いてこちらへ挑むしかなくなるだろう。そう、ハンニバルは語った。

 将校達は賛同するよりも、作戦に反対の意を示した。常識で考えれば、余りにも無謀で危険だった。敵地の中心を行軍すれば、四方のどこから敵が現れるかも分からない。同盟都市やラテン都市がローマを助けるために援軍を率いてきて、さらにファビウスが十万の軍勢をもって引き返してきた場合、ハンニバルは十数万の軍勢の中で孤立することとなる。だが、ハンニバルは表情を変えなかった。

「では諸君に訊くが、この作戦以外に、カプアを救う方法はあるのか。ないであろう。この五日間で、万策が尽きたことは周知の事実だ。私達に残された手段は、ローマを突く以外にない」

 将校達が押し黙った。反論は出てこなかった。

「十数万のローマ軍に囲まれるだと。上等だ。このハンニバルが全て屠ってくれる。ローマに今一度、ハンニバルの恐ろしさを思い知らせてくれる」

 吹き込む風が、真紅の外套を掴んだ。

「鐘のは鳴った。全軍出撃せよ!」

 ハンニバルの号令が響き渡り、山を揺らした。ハンニバルは持っていた物資や奴隷、戦象の殆どをアプリアのハンノのもとへ送ると、兵士には二日分の食糧を携行させた。それは、ローマへ進軍中に休みがないことを意味していた。ハンニバルの覚悟が、全軍に伝わった。松明に木々を足し、朝まで燃え尽きないようにすると、カルタゴ軍は夜間にひっそりと下山した。

 ローマの斥候の眼を避けるため、カルタゴ軍は道なき道を駆け続けた。カルタゴ軍がいなくなったことに気づくのは、恐らく日が中天に登る頃だろう。それから周囲に斥候を出し、予想外の北だと分かるのが夕刻頃。ハンニバルが北へ向かった痕跡を見つけるのが遅ければ、さらに日数を稼げる。

ハンニバルは馬から下り、かちと共に走った。哨戒を立てるだけで、陣は設けなかった。兵卒と同じく、ハンニバルも湿った地面で寝た。僅かな睡眠だけで、夜が明ける前に駆け続けた。常にハンニバルは先頭に立ち、自ら声を上げて走り続けた。河を渡り、兵士と同じだけの食糧を口にし、泥だらけのままで眠りにつく。将軍自らがその足で走ることで、誰も不平不満を漏らすことが出来なかった。兵士と共にあるべきだということは、昨年サムニテスに諭されたことだった。

 二日後に、ハンニバルはローマの前に現れた。雷光の旗が、首都ローマよりわずか四十スタディオン(約七km)のところで翻った。だが、ローマの城壁に動揺の色が見られない。城壁には、かなりの兵士が立っていた。

「どういうことだ」

 ハンニバルの顔が曇った。その時、シレノスが息つくのも惜しそうに、駆けつけてきた。

「報告。ローマには二個軍団がおります!」

「なに」

 将校達がどよめいた。息を整えて、シレノスが説明した。

「我々が山を発った後、ファビウスは周囲を捜索せずにローマへ伝令を急行させ、ガルバ執政官に編成を即座に行なうよう命じたとのこと。同盟兵も急ぎ駆けつけたとのことです」

 思わず、ハンニバルは拳を握り締めた。ここまで来て、駄目だったのか。最期の最期、ファビウスを欺くことが出来なかった。乾坤一擲の策は、破れた。

ローマの城壁には兵士だけではなく、女子供さえも立っていた。槌や鍬を手に取り、ローマを守ろうとしていた。マハルバルが、ローマを苦しめたはずだった。どうして、人々はここまで戦えるのか。民が支えれば、国はここまで強く、耐えることが出来るのか。自分の考えは甘かった。それを今、眼前で思い知らされた。

 涙をためたハスドルバルが、ハンニバルに縋りついた。

「将軍、マハルバルはどうなるんですかい。見捨てませんよね、まだ凄い作戦が残っているんですよね!

 虚しい言葉だった。ハンニバルに出来ることは、もうなかった。将校のカルタロが、ハスドルバルを無理矢理引き剥がした。ハスドルバルは、最後までハンニバルを見ていた。ハンニバルは眼を逸らすことしかできなかった。

 三日。首都ローマの前で粘った。万策は尽き果てた。ハンニバルは軍を退き返した。ローマから、歓喜の声が聞こえてくるようだった。カプアの軍が動いていることに、一抹の期待を賭けた。しかし、それも虚しかった。僅かにローマ防衛に兵を割いた以外、ファビウスはついに動かなかった。

 自分の中で、押し溜めていたものが溢れかえった。気づけば、頬が濡れていた。とても、この感情を押し戻すことは出来なかった。カルタゴを救う。莫迦げた夢想だった。なぜ、俺はアルプスを越えたのだろう。ふざけた夢想に魅せられなければ、こんなことにはならなかった。そうすれば、親友ともを死なすことはなかった。マハルバルと過ごした時が、崩れてゆく。褪せた夢。自分の追いかけた夢は、地に墜ちた。あるのは、残酷な現実に打ち拉がれる自分だけだった。

 ローマを防衛していたガルバの二個軍団が、追撃をかけてきた。その報告が届くと、ハンニバルは後ろを振り返った。真紅の外套が翻る。赤く腫らした眼は、怒りの業火で滾っていた。

 追撃に出たガルバの二個軍団は、潰滅した。執政官だけが、ほうほうの体でローマへと逃げ帰った。しかし同時に、ファビウスの送った一万五千の兵が入れ替わるようにローマの守備についた。

 率いる軍勢に、ハンニバルは何も声をかけなかった。静かな行軍だった。カプアの前を通る。ローマ軍は動かない。ファビウスは老齢によりローマへと戻っていた。後少し早ければ。それも、運命だった。

 カプアを一瞥する。自分は、かけがえのない罪を犯した。これから歩む道を、自分はどういう顔をして歩くのだろう。道の先が、どこへ通じているのかも分からない。それを照らす友人は、もういなかった。ハンニバルはカプアから顔を逸らした。それからは、振り返ることのない行軍を続けた。


 狂気がカプア市内を包む。城壁に立っていた兵士が、ハンニバルの軍勢が南へ逃げていく姿を捉えた。一縷の希望に縋っていたカプアの兵士達は絶叫し、侮蔑の言葉を吐いていた。ハンニバルを招き入れたカラウィリウスが、セプラシア広場へと連れて行かれた。そこで、市民の手によって斬殺された。「フェニキア《ポエニ》人の言葉など信用すべきではなかった」民衆達が口々に叫ぶ。狂乱した一市民によって、城門は開け放たれた。それが最後だった。ローマ軍が、カプア市内へと雪崩れ込んだ。

 マハルバルは従者に命じて鎧を着けさせ、槍を手に取った。そこに、シレノスの部下であるボグスがやって来た。シレノスが伝令用にマハルバルに渡した者だった。とうに逃げたかと思っていたが、まだ残っていたらしい。

「これが最後の機会です。一兵士としてローマ軍に投降するふりをすれば、逃げられます」

 ボグスが、マハルバルの決心を揺さぶった。シレノスの部下ならば、混乱に乗じて逃げられるのだろう。ひと時の間、マハルバルは天を仰いだ。惜しい生ではあった。だが、この決意は曲げたくなかった。

「気持ちだけ受け取っておこう。私は、ここで死ぬ」

「ハンニバル殿も、マハルバル殿の生還をお望みです」

 将軍とは言わなかった。マハルバルは、しばし黙った。ボグスが、返答を待っている。

「私には、密かな夢があった。自分の人生を全て捧げさせるほど、大きなものだ。それは私の全てだった。その夢が今、悲しい花を咲かせる。そうなる前に、ここで終わらしたいのだ」

 ボグスが悲しい眼をした。

「なにか、最後に伝えたいことはございますか」

「ハンニバルに伝えて欲しい。これは夢破れた男の言葉ではなく、友としての言葉だ。掴み取れ。マハルバルの見惚れた男ならば、カルタゴを変えられる」

「しかと、記憶しました」

 ボグスが頭を下げた。「もう、私がカプアへ来ることはないでしょう。マハルバル殿、お世話になりました」

 マハルバルが振り向く。その時には、もういなかった。影で動くボグスから、礼を聞くのは初めてだった。マハルバルは、未だ逃げようとしないヌミディア騎兵のもとへ向かった。整然と、隊列が組まれている。この状況でも、誇り高き騎兵だった。

「全軍、北門より出撃。冥界サプリィトへの手土産だ。敵将の首を取るぞ」

 マハルバルが騎乗し、馬腹を蹴る。懐かしい風だった。制止するローマ兵を、蹴散らした。マハルバルは止まらなかった。馬が大地を蹴り上げる。城門を固めるローマ兵。太腿を締め、槍を構えた。突撃する。ローマ軍の陣形が乱れた。突破する。去りざまに槍で突き伏せ、駆け抜けた。

視界がひらけた。イベリアの大地が脳裏を過ぎる。このまま駆け続けたかった。だがそれも、束の間だった。万余の軍勢が、眼前に現れる。ギスコを討ち取った一人、プルケルの兵だった。

マハルバルは槍を掲げ、ヌミディア騎兵を五つに分けた。敵がどちらへ向くべきか逡巡していた。凡庸な指揮だった。隙だらけの戦列に、波状攻撃を掛ける。手足のように、ヌミディア騎兵は動いた。ローマの戦線。早くも一点が綻びた。マハルバルが槍を振り上げ、突っ込んだ。存分に暴れ、綻びを拡大させる。ローマ兵が三人、剣を振り上げた。馬腹を蹴る。マハルバルは一人を蹴飛ばし、もう一人を槍で刺す。三人目を槍のいしづきで払い、逆手で突き刺した。深々と刺さり、槍は抜けなかった。マハルバルは槍を諦め、腰の剣を引き抜く。続々と、ヌミディア騎兵が追いついた。

正面に集中し、ローマ軍の側面は隙だらけだった。好機だ。マハルバルが振り返る。背後に、雷光の旗はいなかった。自分がこの戦場に一人であることを、忘れていた。何を甘えているのか。ここから歩む道に、ハンニバルはいないのだ。

 ローマ軍が乱れた。緋色の外套(パルダメントゥム)を着けた敵将。遠くだが見えてきた。後少しだ。しかし、前を多くのローマ兵が塞いだ。馬首を返す。背後も、ローマ軍に塞がれていた。

 全軍に馬を捨てさせる。前へ。命令はそれだけだった。返り血が顔に付着する。ヌミディア馬のものだった。暴れる馬達がローマ軍を突き破り、殺されていく。ヌミディアの戦士達も、次々と死んでいった。その屍を乗り越え、文字通り血路を切り開いてゆく。兵士の悲鳴。振り返らず、ただ緋色の外套を目指す。脇腹が重くなる。槍が、突き立てられていた。引き抜かずに柄をへし折り、軽くする。後少し。背中が斬られた。裏切りか。マハルバルが振り返る。その背後に、ヌミディア兵はもう立っていなかった。マハルバルが前を向く。ローマの剣が幾重にも振り上げられていた。マハルバルは咆哮した。地面を転がり、砂に塗れながらも、少しでも近づく。気づけば、執政官はもう目の前だった。馬上の執政官は引き攣った顔をしていた。マハルバルが笑う。立ち上がり、残った力の全てを、緋色の外套へ。手応えを感じた。同時に、視界は赤く染まった。膝が折れ、前のめりに崩れ落ちる。マハルバルの眼に、もうローマ軍は映っていない。最期に見えたのは、イベリアの澄んだ空だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ